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4.12年前の事件②

 聖堂の中に入った二人は左右の座席に挟まれた通路を進んだ。

 聖堂内は、木製の座席と通路の青い絨毯、そして、奥の祭壇の銀の装飾以外は、白い大理石でできている。

 その白一色の空間に黒い影が一つあった。

 奥の祭壇に喪服姿の皇帝が立っていた。

 その傍らには、昨夜の礼拝時にはなかったガラスの棺が置かれていた。

 遠目からはよく見えないが、その棺に皇太女が眠っているのだろう。

 王子は密かに唇を噛んだ。


 ガラスの棺を見つめていた皇帝は、大理石の床を鳴らす靴音に気づき、二人に視線を向けた。

 皇帝は、王子が皇太女の正式な婚約者として大神殿で月女神の祝福を受け、宮殿に住み始めて以来、彼を厚くもてなした。

 まだ正式な結婚前だというのに、王子はいつでも皇帝を訪ねることを許されていたほどだ。

 王子本人や故国ヴァルト王国が期待した以上の厚遇だった。


 “――お父様はね。典型的な『強い男』が好きなのよ。私の亡き兄の亡霊を追っているのかも”


 エルンスト王子はいつかの皇太女の言葉を思い出した。


 “だから、知的で静かなあなたがどう見られるか心配だったけれど、杞憂だったわ。父はあなたの芯の強さをちゃんと見抜いたのね”


 ――『芯の強さ』?

 ――アリエノールは私を買いかぶり過ぎではなかっただろうか?


 “私もあなたのそういうところが結構――”


 王子は皇太女の記憶を振り払い、半歩後ろを歩くボシュエ卿の方をちらと振り返った。

 視線の端で美しい黄金色の巻き毛が揺れていた。


 ――皇帝陛下は確かに私に良くしてくださった。

 ――しかし、やはり今、この悲しみの中で私の面会要望に応じてくださったのは、ボシュエ卿を伴っているからだろう。

 ――いくら陛下といえど、神官の調査特権は尊重しなければならない。


 王子は教育係の伯爵から教わったことを思い出した。

 神官は月女神を信仰する諸国では共通して特別な存在だが、帝国では特に神聖性が要求され、特権も大きい。

 

 まず、帝国では、男女問わず未婚者か配偶者と死別して5年以上経過した者しか神官になることができず、正式に奉仕を開始して以降は、一生独身を貫かなければならない。

 月女神から神託を授かり、神託が示唆する祝福を実現し、逆に悲劇を回避するよう、政治的介入含めてあらゆる策を講じることが彼らの仕事だ。

 この点、既婚者でも神官になることができ、神託を受けたとしても政治的介入までは許されない他国の神官とは異なる。

 

 そして、そんな帝国の神官たちは、神託に関して必要があれば、どこにでも立ち入ることができ、誰にでも話を聞くことができる調査特権を持っている。

 神官を軽んじて調査を拒否したり、嘘をつけば月女神から罰が下されると信じられているので、人々は基本的に正直に応じるはずだ。

 また、まして神官を殺したりするようなことがあれば、帝国法では原則死罪となる。

 更には、万一法の裁きからは逃げおおせたとしても、月女神からの罰として無残な最期がもたらされると言われている。

 いずれにしても、神託に示された悲劇を回避できなかった経緯を調査するという大義に基づく調査特権を行使可能なボシュエ卿の存在が非常に有難かった。


 祭壇へと続く階段の下で、王子は俯き加減に皇帝に視線を向けた。

 娘の棺の側に立つ皇帝はまだ50代のはずだが、たった一晩でひどく老いてしまったように見えた。


「エルンスト……君にはかわいそうなことになったな……」


 皇帝の低い声が聖堂に響いた。

 

「いえ、私などより陛下の方が……」


 王子が言うと、皇帝は寂しげな笑みを浮かべた。

 

「ああ、そうかもしれない。驚くべきことに、私があの子にあまり愛情を持っていなかったと見る者もいるようだが……私のお気に入りだった長男に比べて、力強さで劣っていたからだろう。しかし、アリエノールには君主の素質があった。力強さだけなら別の者が補完できた」

 

 皇帝は深い溜息をついた。


「次の皇位継承者は、我が亡き弟――貴族からも平民からも敬遠されていた偏屈な男だよ――の息子、僅か5歳の甥だ。『聖なる魔法』が発現するまであと5年もある上、甥はあの弟の子だけあって君主の器にはほど遠い。ここまで来て、唯一生き残った我が子を失うとは……」


 エルンスト王子は皇帝の悲しみに思いを巡らせた。

 12年前まで皇帝には7人の子供がいた。

 しかし、12年前に夏の離宮で事故が起こり、当時の末の皇女アリエノールを除く6人の子供たちが亡くなったことは、大陸諸国の間ではよく知られていた。

 そして、子供たちの死で弱ってしまった皇后も10年前に亡くなったという。

 

「アリエノールは12年前の事故の唯一の生き残りだった。あのとき私は、魔導医から子供たち全員が亡くなったと聞かされたが、それに構わず全員に万能薬を与えた……。すると、アリエノールだけが回復したのだ。魔導医も一度に7人も診たものだから、あの子にだけまだ息があったのを見逃したのだろう。今回も万能薬を与えてやれば奇跡が起こったのかもしれないが、今の情勢ではとても――」


 皇帝は肩を落とした。

 

 万能薬とは、二、三の難病以外の大抵の病や傷を治すことのできる薬だ。

 元々高価な薬だが、薬草に詳しい王子は原料となるモーリュ草の価格が近年特に高騰していることを知っていた。

 もちろん、アルジャン帝国の帝室ともなれば、万能薬の常備くらいあるだろう。

 しかし、折しも、現在帝国は戦争の真っ最中。

 国民が徴兵と増税に喘いでいるときに、皇帝が息を吹き返す見込みのない皇太女に高価な万能薬を与えたとなれば、反発は必至だ。

 いくら万能薬といえど、既に死んだ者を蘇らせることはできないのだから。


 エルンスト王子は皇帝の話を聞きながら、傍らのガラスの棺に視線を移した。

 そこには銀色のドレスを着せられた皇太女が昨夜と寸分たがわぬ姿で横たわっていた。

 艶のあるシルバーブロンドの髪に薔薇色の頬――まるで生きているようだった。

 今にもその目が開き、あの満月色の瞳がいつものように王子を見据えてもおかしくはない。

 

 王子は最後に会ったときに皇太女が言いかけた言葉を思い出した。

 

 “エルンスト、私はあなたを――”


 王子は続きを聞かなかった。

 

 彼は何気ない様子を装って、棺の近くのテーブルに置かれている花器に視線を移した。

 中央がくびれたデザインの脚付きの銀の花器に6輪の白いカラーが生けられていた。

 白いカラーは皇太女が好きな花だった。

 

 “――白いカラーが好きな理由?包帯みたいだからかしら?ほら、白い花びらが筒状になっているでしょう。癒えない傷を包み込んでくれそうな気がするわ。ただ、前にある国の大使からいただいたカラーの中から虫が出てきたのには閉口したわ。侍従のジョルジュは悲鳴まで上げていたのよ”

 

「ああ、あのカラーは筆頭女官キュイーヴル伯爵夫人が皇太女の部屋から持ってきてくれたのだよ」


 皇帝の言葉が王子の追憶を搔き消した。

 皇太女が最早思い出の中にしか存在しない。

 その事実が王子の心に重くのしかかった。


「あの子も喜んでいるだろう。本当にあの伯爵夫人は細々としたことにまで気を回してくれる。まるで母親のようだ」


 皇帝はそう言って、ガラスの棺を優しく撫でた。

 そこで控えめだがはっきりと事件について切り出したのはボシュエ卿だった。


「……皇帝陛下、お辛いときに申し訳ありませんが、昨夜の皇太女殿下のご様子など教えていただけないでしょうか」


 皇帝は今回の件に神託が下されたことは知っていたので、ボシュエ卿の問いは神官特権に基づくものだとすぐに理解したようだった。

 

 王子とボシュエ卿は、この調査はボシュエ卿による単なる神託関連の調査の体で行うべきだと事前に合意していた。

 皇太女とボシュエ卿の「君臣の絆」や皇太女がボシュエ卿を通じて王子に調査を依頼したことまで明かせば話が複雑になり過ぎる。


「知っての通り、昨夜は娘も私もこの聖堂で午後8時頃まで礼拝に参列していた。そのときのアリエノールは健康そのものだった。その後私は、午後9時頃にアリエノールの居室を訪ねたが、そのときも変わらない様子だった」

 

 皇帝は淀みなく答えた。

 

「そのとき、陛下と殿下はどのようなお話しをされたのでしょうか?」

「政務について議論しただけだ。あの子が好きな貴腐ワインを持って行ったのでそれを飲みながらね。そういえば、あの子は最初は些か上の空だった気もするが……」


 そう言って皇帝は少し首を傾げたが、ボシュエ卿は更に質問を続けた。


「政務についての議論とは?戦争のことでしょうか?」


 ボシュエ卿が言った「戦争」とは、今アルジャン帝国が帝国の北側の大国と戦っている戦争のことだ。

 帝国では、3年前に始まったその戦争を「北方戦争」と呼んでいる。

 元々は、北の大国の少数民族が仕掛けた独立戦争だったが、あわよくば領土を切り取ろうと目論む帝国が少数民族側に付いて参戦したのだ。

 しかし、北の大国を治める老練な女王の工作により、戦争は長引き、帝国は疲弊しつつあった。

 そこで、帝国は今、皇帝とキュイーヴル伯爵家――当主の伯爵は病床にあるため、伯爵夫人と長男の准将が実権を握っている――を始めとする皇帝に重用されている新興貴族からなる「主戦派」と、現宰相フェール女侯のような大貴族からなる「停戦派」に二分されている。

「主戦派」が領土を得るまで戦争を続けたいのに対して、「停戦派」はそろそろ停戦して国内に目を向けるべきだと考えている。

 皇太女はエルンストの目には「停戦派」寄りの立場に見えた。

 

 そんな昨今の情勢からボシュエ卿は当然、皇帝と皇太女の間でもこの件が議論されたはずだと考えたようだが、しかし――。


「いや、春の叙爵関連で少し話しただけだ」


 皇帝は断言した。


「春の叙爵については、既に名簿が公開されていますね」


 ボシュエ卿がそう言ったのに、皇帝も頷いた。

 その名簿が公開されたのは、つい一昨日のことだった。

 官報に掲載されていたので、王子も目にしていた。

 王子が今回の叙爵対象者を思い浮かべるまでもなく、皇帝が説明を加えた。

 

「フェール女侯の女公への陞爵と、キュイーヴル准将の伯爵への叙爵は注目されるだろう」

「皇太女殿下が反対されるような叙爵はなかったのでしょうか?」


 ボシュエ卿はやや踏み込んだ質問をした。

 皇帝は少し視線を落としてから答えた。


「いや、叙爵自体には反対していなかった。宰相フェール女侯はもう隠居が近い。陞爵させてこれまでの働きに報いてやらねば。それから、キュイーヴル准将の叙爵も誰が見ても当然だろう。准将の父キュイーヴル伯爵は長らく病床にいるが、北方戦争での戦功を鑑みれば父からの伯爵位の継承を待たずして別途伯爵位を与えてやるべきだ」

「……ええ、おっしゃる通りですね」


 ボシュエ卿は王子に視線を向けてから、躊躇いがちに同意した。

 その卿の反応に皇帝は一瞬目を細め、王子の方に向き直って言った。


「エルンスト……君は立派だったよ」

「恐れながら何のことでしょうか?陛下」


 王子は敢えて微笑みながら言った。


「言葉通りの意味だよ。さすが伝統ある王室生まれの君は『あれ』に全く動じなかった。もっともあんな噂が立ってしまったのには私にも責任があったのだ。私が娘に彼を――いや、今更言っても仕方がないな」


 皇帝は悲しげに首を振ったが、気を取り直して言った。


「准将が叙爵されれば、伯爵夫人も報われるだろう。夫の伯爵が病に倒れて以来、長男の准将はじめ子供たちの行く末に相当気を揉んでいた。伯爵の病が悪化し始めた頃、わざわざ東方の聖地に病気平癒を祈るための巡礼に出かけていたほどだ――確かあれはまだ私の上の子供たちが健在だった頃だったな」

 

 それから皇帝は他の主だった対象者についても説明を加えたが、やはり特段意見が対立するような叙爵はないようだった。

 そうして、王子が面会の終わりを察して、辞去しようとしたとき、皇帝が呟くように言った。


「今回私は12年前の事件のせいで目前で絶たれた夢に再度近づいていたはずだった。材料は揃っていた。それなのに……。いや、あの子は昔から毒に弱い体質だった……これも運命だ……」


 エルンスト王子は首を傾げた。


 ――「目前で絶たれた夢」?「昔から毒に弱い体質」?

 ――陛下は一体何のことを?

 ――何より、12年前の件は「事故」ではなく「事件」だったと?


「皇帝陛下、今のお話は……?」


 王子が遠慮がちに問いかけると、零れてしまった言葉を後悔するように深い溜息をついた。

 暫しの逡巡の末、重々しく言った。


「そうだな……君は聡明な若者だ。帝国を去る前に、皇太女が――いや、我が帝室が抱えていたものを知っても良いだろう。ボシュエ卿、後で王子に仔細を話してやりなさい」


 皇帝はそれきりただ唇を引き結んだ。

 そして、戸惑う王子に向けて、意外なほど優しい口調で言った。


「ところで、エルンスト。数日前にあの子から君にルバーブジャムをもらう約束をしたと聞いたが、結局渡せたのかね?」

 

 皇帝の問いに王子はふと昨夜最後に話したときの皇太女の声を思い出した。


 ”ありがとう、エルンスト。私、ルバーブジャムを食べてみたかったの”


 王子は少し躊躇ってから首を横に振って答えた。


「……いえ、渡すことは叶いませんでした」

「そうか……」


 皇帝は一つ息を吐いてから続けた。


「私は12年前の事件で、本当に信頼できる者が誰であるかを実感した。例えば、アリエノールの命を救ってくれたフェール女侯――事件後に宰相にまで上り、これまで帝国を支えてくれた。例えば、帝室の危機に心を寄せてくれたキュイーヴル伯爵夫妻――特に伯爵夫人は当時皇后付きの女官だったのに、アリエノールをいたく心配して愛情を注いでくれた。しかし、誰よりも信頼できるのは、やはり皇后だった」


 皇帝は静かに王子を見つめた。

   

「例の『三つの奇跡』の一つ『夫婦の護り』のことは知っているね?一般には詳細が明かされていないが、この『護り』は実は誓いのキスだけでは成立しない。互いに愛し慈しむことを真に誓った二人にしか成立しない結びつきなのだよ。私が亡き皇后との間にこの『護り』を持てたことは、まさに幸運だった。皇后が亡くなって『護り』は切れたが、今でも度々彼女が私を励ます声が聞こえる気がする。君とアリエノールもそんな夫婦になると私は確信していたのだがね」


 そう言って皇帝は微笑んだ。

 どこか弱々しい微笑みだった。


 ――「夫婦の護り」は「お互いを愛し慈しんでいないと成立しない真の結びつき」?

 ――そうだとすると、結婚しても「護り」が成立しない夫婦もいるのかもしれない。

 ――アリエノールと私が無事に結婚していたとしても到底……。

 

 王子が考えを巡らせていると、皇帝の視線はガラスの棺に眠る皇太女に戻っていた。

 これ以上皇帝が娘を悼む時間を奪うべきではないと感じた王子は、静かに辞去を申し出た。

 

 そして、二人が共に出口へと通路を歩んでいると、不意に皇帝がボシュエ卿を呼び止めた。


「ボシュエ卿、今回も神託が下されていたが……私は君を恨んではおらんよ。もちろん、君の父上のこともだ」


 皇帝の言葉にボシュエ卿は深く一礼した。

 一方、卿と共に後ろを振り返っていた王子の視線は、皇帝の傍らのガラスの棺にあった。

 彼女の声が聞こえた気がしたのだ。

 

 (エルンスト、どうか――)と。

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