リチュアル
その後、カフェテリアで爛花が言った通り、自分達はフシミガミ駅まで戻って来た。
ただし今は知らない場所を歩いている。フシミガミの駅とは跨線橋を渡って反対側の地域だ。
平坦な住宅地であった駅側とは雰囲気が異なる。住宅もちらほらあるが、地形の登り下りに富み、木々もそれなりに残っている。小さな橋を渡った時は、下から小川の瀬音が聞こえて来た。昼時に歩くには良いに違いない。
「菱澤は今年もうちの学校を受験するのよね。試験日はいつか分かる?」
「明後日だな。もちろん俺は本物の受験票も持っている。とっくに出願は済ませてあるからな」
やがて、杉や松の植えられた公園の中を通った。どこに向かうのだろう?
公園には人工の池があり、池の周りには散歩コースが整備されていて、なかなか大きな池だった。池の端まで来て、別の入り口から出て……まだ先へ。
「ヴィヴィアンの受験票には確かに不備があるわ。恐らくヴィヴィアンの急な出現に対して世界の整合性の補修が追い付いていないのよ。けれどもそれは不備ではない。少しの時空の齟齬は、いつも付き物。逆に言えば非本質的なファクター」
「だがあの受験票は不備だろ、爛花さん? あんなのは絶対に使えないぞ。菓子よ、お前は出願をしたか? 金を納めたか? 出願してはいないだろ」
振り返る菱澤に、自分は沈黙をもって頷くしかない。[出願]の手続きはしていない。していないものをしたと、自分に思い込ませることは、できない。
「……社会学部とは、何?」
受験票は自分の物だと思っている。しかし、受験する学部のことは知らない。だから菱澤に訊いた。こっけいな図。
「社会学部は、この世界を学ぶ人々の集まりよ。勇者には持って来いだと私は思うわ」
先頭の爛花が答えてくれた。
「だからあの受験票はあなたのものに間違いない。あとは受験票が使えるようになる事だけ。しかしあなたは確かに出願をしていない。それなら出願すれば受験できる」
「爛花さん、もう出願の時期はとっくに終わってる。郵便局だって、駅のあっち側だ」
「そうね。今年の試験は二日後。だからこの時空では、どう足掻いてもヴィヴィアンは二日後の試験を受けられない。受験票の空欄がそれを示している」
公園を抜けると、大きな神社があった。フシミガミの駅や住宅の規模からして、場違いに大きい神社だ。住宅はもうほとんどない。そして神社を過ぎると思い掛けないものが現れた。森に覆われた丘陵地が横たわっており――。
丘陵を貫通し、明々と夜に向かって光を放っていたのは、二本のトンネルだった。
自分達が歩いている道が、そのままトンネルに吸い込まれていた。坑口はカマボコ形ではなく長方形をしていた。並んだトンネルの、左が往路で、右が復路だろう。
薄緑色をおびた白色の光を放ち、まるで完成したばかりのような新しいトンネルは、奇妙なところがある。自動車が通れるように設計されているにもかかわらず、タイヤが路上を通過した形跡が無い。本当に誰も通っていないかのように真新しいのだ。しかし封鎖されているわけでもない。
入り口は、つるつるのコンクリートに、ピカピカのプレートが埋め込まれている。トンネルの名前が書かれてあるようだ。爛花は目の高さにあるプレートに手を当てながら、
「だから菱澤。菱澤は今年の受験を諦めなさい。二日後は行ってはいけないわ」
と宣言した。
「俺が、今年は受験してはいけない、だって……? なんでなんだ、爛花さん?」
菱澤は鳩が豆鉄砲を頬張ったような顔をしているが、今回はさすがに自分も同感だ。今は自分の話をしていた。どうして菱澤なのか。爛花はさも当然とばかりに腕を組み、すらすらと言い下す。ちなみに今の爛花はサングラスを取っている。
「簡単よ。菱澤は二浪目の今年も絶対に受からない。それは菱澤が受かるならヴィヴィアンの受験票に文字が浮き出て来るくらい、絶対に無いことだわ」
「だけど爛花さん」
「みなまで言わせないでほしいわね。菱澤、今年の生活を振り返ってご覧なさい。ゲーム。寝て食う。ゲーム。息抜き程度に勉強。これで合格できる気でいるなら、伽藍堂大学は生徒数一人の引き込もり大学よ。自分でも分かっているのでしょう?」
「……うむぅ……くっ……」
菱澤は路面から爛花を仰ぎ見て、肉体を震わせる。図星であったらしい。
「だから菱澤。人助けをしてあげなさい。菱澤が今年受けないことによって、今年使うはずの運をヴィヴィアンに分けてあげられる。そもそも、中途半端な『二浪』より、貫禄ある『三浪』のほうが菱澤も俄然箔が付くと思わなくて?」
「まあ、確かに今年の受験は俺にとって雲行きが良くなかった。爛花さんの提案でもあるしな。受けないのは承諾しなくもないが……だが、それが菓子を助けることにはならないぞ。俺は運など信じぬ。運が分けられるなれば商売になっていよう。それに爛花さんも言ったではないか。俺が受けなくても、菓子は二日後に受けることはできぬのだ」
「それで結構よ。これは儀式なのだから。……どうせ病気がひどくて受験どころではなかったのでしょう?」
「……見抜いていたのか。爛花さん」
菱澤は傍を通る爛花を、深刻なまなざしで追った。そこには敬服が表れていた。
爛花はコツ、コツと靴音を反響させ、菱澤を離れて、自分のところに来る。
「聞いての通りよ。儀式を執り行うわ。ヴィヴィアン、あなたを一年後に送り届ける。なぜといって、一年後なら、あなたは出願しているでしょうから。ついでに菱澤の運も、あなたの一年後に送っておく。もっともこれは些末なものだけれど」
「……言ってることが、よくわからない」
自分は問い返す。ひょっとして爛花は、時間変移の術を、自分に施そうというのか? しかしその術は、眉唾だ。トーキョーヘイムでは大魔王が術を完成させたという噂を聞いたが、一般的にはどの魔法使いも魔物も、時間を移す魔法は使えないとされている。自分の「学院」での生活でも見たことがなかった。
「言葉でわかるものではないし、わかる必要もないわ。できればいいのだから。ところで、あなたがRPGをプレイした時、物語上、何度か主人公の時空が数年後に飛ぶ展開があったでしょう。それはこちらでは、数秒間の暗転であったはず。さて、この数秒間には、何が起こっていたのかしら。暗転の前の主人公は退場して、そっくりさんの別人が入れ替わった? でも、暗転後には他の人物や、世界の部分も変わっている。これらまでそっくり入れ替えることは、現実的ではない。だから主人公は同一人物と考えるのが妥当のわけだけれど、そうであったのなら、暗転の時にも主人公は存在していたでしょう。さて、そのとき彼は何を感じていたのでしょうね?」
「……何を、感じていた?」
訊き返すしかない。爛花は、知っているのか? 自分は知らない。だが、今の話を聞くと、怖くなってくる。時間が一瞬で早く流れ去ったり、逆に間延びしたりすることもあるかのように思えてくるからだ。
「これを持って行きなさい」
どこから出したのか、爛花は、黒い真鍮の水筒を握っていた。吊り下げる取っ手が付いたランタン型のもので、トーキョーヘイムの工芸品に近い意匠だ。トーキョーの水筒には珍しいデザインだが、爛花が持っていることはもはや不思議とは思わない。爛花は取っ手を自分に渡した。中にはたっぷりの液体が入っていた。
「……これは、何?」
「『魔術を施した魔法の飲み物』、と言っておくと、RPGのような雰囲気が盛り上がるでしょう。危険なものではないわ。水のようなものよ」
「なあ、爛花さん、何しているんだい。こんな所で立ち止まる意味はあるのかい?」
「これを真ん中で飲んで、水筒は捨てて先へ進みなさい。トンネルを出たら復路から還って来ること。一度でも振り返ったり後退したり横にぶれたりしては駄目よ。一筋の風のように行って還って来なさい」
菱澤が来る前に、一気に囁くように説明。額のくっつく近さで爛花は自分を見る。沈着の底で燃え滾る炎のような眼光は、やけに懐かしいのも当たり前で、それは冒険者のものだからだ。自分は一瞬で全て理解した。言った通りにすることは計り知れない価値があると。
「ゴー!」
爛花がアイドルの仕事の時のような一喝を叫び、自分の腰を押した。自分は往路に踏み出した。背後では爛花と菱澤が会話し始めたが、次第に遠くなった。
自分は振り返らなかった。眩しいエメラルドグリーンに充たされた坑内を一直線に進んだ。坑内にある白色光のライトは眩しすぎて異世界の襞が露出しているかのようだ。脇目をふらずに進み、そのうち壁に中間点の印があったので、そこで水筒の水を飲んだ。ほとんど水のようだが、かすかに塩気があるような、苦いような、ねっとりした何かが入っている。うまいものではないな……。言われたように水筒を捨て、つづきを歩く。
出口を抜けると、入り口と同じ外見をしていた。今度は左の復路――ここから見れば往路だろうけども――に入り、遥か向こうの出口をめざす。単調な景色と歩み。爛花が言った「暗転」は、このトンネルなのだろうか……。しかしまさか、意識を保ったまま、時空が変移するなんて、そんなことがあり得るだろうか? 正気とは思えない。いや、自分は何を言っているんだろうな。そもそもここに、異様に遠い世界から変移して来た人間が居るのに。
吐き気が少し出てきた。頭がふわふわしている。トンネルの壁や、ライトの質感が、薄くなってきている。壁や地面や空気から、[原子]が半分くらい脱落し、何処かへ行ってしまっているみたいだ。景観が、やわらかで軽い。自分の目だけが、自分の身体の三十~五十センチ後方に、浮かんでいる気がした。自分は、トンネルの単調な景色に酔ったのか? それとも、さっき飲んだ、あの爛花の飲み物の作用なのか? ……ようやく、トンネルの出口が現れた。
トンネルを出ると、やけに疲れたし、喉が渇いている。元の地点に戻って来たのだ。あたりは夜だった。菱澤と爛花は居なかった。
二人は、帰ったのか。自分もここに居ても仕方ない。菱澤の部屋に戻ってみよう。知っている場所はあそこだけだ。勇者は地理感覚が優れていなければできない。駅の向こう側だが、一度通った道は覚えている。
神社の横の道はさっきと違い、やたらと自動車が通っている。公園に入ったら、池を通って反対側へ……。おや、出口の横に[発電機]があって、通行止になっている。妙だな。こんな短い時間で? 不審に感じながら、少し迂回した柵をまたいで外に出る。本来の出口を確認すると、菱澤の部屋の半分くらいの穴が掘られており、発光標識で囲われている。
「何を立ち止まってる鋼鉄?」
「……こんな所を、工事していた?」
「そりゃもうしてた鋼鉄よ。見落としたのか鋼鉄?」
マスケは答える。そんな馬鹿な! 自分はさっき、ここから入ったのだ。入れなくなっていて、こんな穴が開いていたら、絶対に気付く。……いや……そういえば、していた……のか? マスケが言う通り、しばらく前に工事が始まって、そう、迂回しなければならなくなったのだ、この公園は……。頭が締め付けられるように熱い。一つの記憶が現れるや、別の記憶に場所を譲る。右目で工事していない世界が、左目で工事している世界が見えるような錯覚。ものすごく妙だ。自分は両方の世界を知っている気がする。何が妙かといって、二つの世界を確かに知っていると思える一方で、工事していない世界は絶対に知らないと記憶の一部が深く訴えてくるのだ。二つの記憶は、瞬間的には重なる。その時、ひどい圧迫感が身体を襲う。この兆候は危険だ。本能的にそう判断し、「記憶」を用いるのを一旦凍結した。
――ふと、いま蹲った時、ダッフルコートの内ポケットに異物感があった。ポケットを探ってみると、世界がのっぺり見えそうな巨大なサングラス。これは、爛花のものだ。もしかして、今の自分を見越して、忍ばせてくれていたのか。何にしろありがたい。今はこれを掛ければ、歪んだ景色が見えるのを減衰できるだろう……。自分はサングラスを掛け、終始うつむき加減で、菱澤の部屋を目指した。また変な物を見てはかなわない。時々マスケが話し掛けてくれるが、相手する余力もなかった。ようやく菱澤のアパートが見えた。ここまで来れば、満足に背筋を伸ばして目を開けられる。
「やっぱり、君を選んだマスケの判断は間違ってなかった鋼鉄よ。初めての世界で、君は今まで見事に冒険してくれた鋼鉄……。でも、いよいよ次の冒険のステージに上る為の決戦が待ってる鋼鉄よ。ガンバレ鋼鉄」
マスケが脈絡のないことを言った。この時の自分は、体調が悪いせいで支離滅裂な内容に聞こえたのだろうと思った。
サングラスを外して、ドアの前に立ち、ドアをノックする。当然、菱澤が顔を出すだろうと思っていた。
――が、瞬時に猛烈な悪寒が心を「ガボッ」と抉って行った。まるっきり知らない誰かが住んでいたらどうしようという予感が、ほとんど直感のように、自分を吹き過ぎたのだ。そして、なぜ、予感が当たりそうな気がして仕方がない……!? だが、もう遅い……!
「オウ、オウ、オウ、菓子か」
「――ハァー」
自分は胸を撫で下ろした。この少女が明らかに安堵して溜め息までついたのは初めてだろう。もちろん控え目ではあったが。
直感が外れて、良かった。勇者の特長の直感だって、ぜひとも外れてくれないと困る時もあるのだな。
「……あなた……少し、太った?」
「うるせぃ! とっとと入りやがれ!」
菱澤の顔は一段階広がっていたし、メガネの弦も横に広がっているから間違いない。
いつも散らかっていたので、菱澤の部屋は、ぱっと見る限り変化ない。たが、ベースギターは埃が積もり、楽器ケースと壁のあいだにはクモの糸が張っていた。
「お還り、ヴィヴィアン~。あンたなら還って来るって信じてたよォ~」
ロフトからふわっと降って来たのは、アルコール臭のする爛花。……って、ロフトからダイブなんて、いくら酔っていてもおかしい。自分は爛花ともども倒れながら、受身を取ろうとするが、だめだ間に合わない。が、今回も不思議な力が作用。まるで優しく押し倒されたように、ふわりと、床に寝ていた。やわらかな、軽い重み。
「んフ~ん、歓迎☆ 歓迎★ エライエライ。よくぞ振り返ったり引き返したり歩きブレしなかったわねえ~。さすが勇者だぁ~」
爛花は自分の手からサングラスを取り、自身で掛ける。白いTシャツに、アルコールで上気した爛花がかけると、大輪の花のように明るくなる。
「……アーツリン……説明して」
爛花をどけようとしても、酔っ払いの習性なのか離れてくれない。そのまま質問する。
「うーーーん。何も不思議なことはないわよ~。これはヨッパライの独り言だけどォ~、世界が継ぎ木されたのよ~」
「……継ぎ木、とは?」
「う~んとねェ。きょうから~、精確にはさっきから~、この世界は『あなたが一年間過ごしたトーキョー』として開始したの。『あなたが一年間過ごしたトーキョー』は、今までもあったわ。と言っても、現実化するまでは、《世界のどこにもない場所》に、あったのよ。儀式を境に、さっきまでの世界――『一年前の世界』の先端に、『あなたが一年間過ごしたトーキョー』が合流したの。そのとき一年後の世界が現実化し、代わりに『一年前の世界』は《世界のどこにもない場所》に潜って行った。概念で説明すれば、そんなところね~。たとえば菱澤は、この一年間を、『過ごしていないけれど、過ごした』わけ~。菱澤に限らないの~。他の人たちも、物体も、そうよ~。世界の瞬間的変移についての統一的な記憶を有しているのは、儀式の当事者と、一部の特例的なひとだけ~。実質、私とヴィヴィアンの二人だけだよ~」
「……ぜんぜん、わからない」
「ハムッ、ハムハフッ、相変わらずわけのわからないことを言っているな菓子は」
菱澤がカップやきそばを詰め込みながら言う。
「……どうして、自分?」
「お前の珍妙な世界観に爛花さんが話を合わせているからに決まっているだろ。爛花さんはそれくらい有能だゾ。お前は自分の試験日も忘れたのか?」
なぜ今の文脈で自分なのか。まあ、菱澤はいい。
「……結局、どういうこと?」
「こういうコトよ~」
爛花はもそもそと楽器ケースに這って行き、中から黄色の封筒を取り出す。
自分は封筒を受け取った。中に入っていた受験票には……。日付が書かれ、名前が書かれていた。「ハイデルベルク 有希」。その、無機質な印字を見た時、自分はなぜか涙が溢れて来てしまったのだ。ああ。なんでだろう。ここまですごく苦労した気がする。でも、なんでだろう。とても嬉しい。そして……。
「……知ってる」
自分は呟いた。そう、封筒を見つけた時点から知っていた。きっとこうなる事を。
すると、爛花が自分の頭をなでて、頬にキスしてくれた。同性だが、変な感じはなかった。むしろ思いやりを感じた。とにかく自分の内側は静かに燃えていたのだ。
「おめでとう。あなたは二日後の試験に行けるわ。自分を信じて、がんばって来なさい。ちなみに、入学前勧誘しておくね~。合格したら、私達のサークルに入ってね~? 捜したら、見付かるから~。ついでに菱澤もがんばればいいと思うよ~」
「勿論さ。このトレーナーにかけてな!」
菱澤が張った胸には[3rd Waves]とある。「三浪」に掛けているのか。大丈夫なのか。
「俺のトレーナーコレクションには『4th Dimension』もあるぞ!」
こいつは駄目そうだ……。