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東京QUEST Ⅰ  作者: N
11/18

Don Juan

 俺はいつものように日課のゲームを終え、ひさびさにテレビの画面をオフにした。

 ――そうだ、勉強してみるか。

 今日、菓子は伽藍堂大学へ出かけた。未だに帰って来ねぇ。なったばかりの大学生の身分を謳歌しているのか。爛花さんも来ていない。俺はいつになく静かな部屋に置かれ、勉強という発想が蘇った。何をやってもよかったが、古文のテキストを座卓に持って来た。世間は合格発表が終わったばかりで浮かれているかもしれんが、俺は春にも勉強するのだ。

 いつ解いたのか、というより、解いたのか記憶にもないテキストを開く。だが俺が使ったのだろう。全く書き込みはしていないが、ヨレているからな。予備校にも全然行ってねぇな。せんべいを喰いながら解き始める。クソ、分からねぇな。せんべいがうめぇ。塩気と脂が堪えらんねぇな! ゴホゴホ、咳が出やがる。よくあることだ。この部屋は埃っぽいんだ。越して来て以来、掃除した記憶が無い。だが、人間は生きられるもんだぜ。部屋が汚いほうが、体も丈夫になる。

 ゴホッ! チッ、せんべいの粉が奥に入りやがった。俺は咽せてしまった。ツバが飛び散らないよう、口を押さえる。――ドバッと、真っ黒な血が噴き出した。あったかい。ボタボタボタ。鮮血が手からこぼれ落ちる。

 なんだ、こいつは? 痛くも痒くも無かったし、普通に咳しただけだ。なんで血が出ているんだ? こいつはおかしいぜ。解せぬ。俺は試しに、軽く二、三度、咳をしてみる。

 ドバァ! ドボボバッ!!

 今度は洗面器が要るくらいの血が、やっぱ痛みも何もなく飛び出して来て、テキストが真っ黒になった。俺は一面の赤黒さを見て、気持ち悪くなった。顔を近づけ、ニオイを嗅いだ。フムゥ! 焼き鳥のレバーの腐った臭いがしてきやがる! ……オイ、おかしい、こいつはおかしいぞ。どこも体調は悪くないのに、なんでこんな事になってやがる。

 急に顔が冷たくなり、冷や汗が出て来やがった。ヤベェ。とてつもなく、ヤベェ……。

 遂に来やがったのか・・・・・・・・・

 

「菱澤!」

 爛花が鍵で扉を開け、部屋に飛び込んで行く。菱澤が血を吐いて項垂れていた。

 これは……何が起こった?

「プモォ、ちょうど良かった。爛花さんに会いたいなあと思っていたところだったよ」

 菱澤はゆらりと立った。肉が吊られるような動き。不思議な立ち方だ。

 座卓の向こうに居る菱澤は、口から血を派手に垂れ流している。気付いていないのか?

「菱澤が斃れる夢をヴィヴィアンが観た。やはりこうなってしまったわね」

 爛花は言った。倒れる……それは妙だ。自分が観たのは、二人が出会う夢。菱澤が血を吐くところは観ていない。だが爛花は自分に答えるように言った。

「いいえ。私は解った。菱澤が『この世界の真実の姿を』まもなく観ることになるのが」

「……これが、『世界の真実の姿』?」

「紛れもなく、菱澤にとっての」

 爛花は言い切った。

「菱澤、無理をするな。立っているのが辛ければ座れ。横になれ」

「あぁ、爛花さん、何だか不思議なんだ。体調は悪くないのに、自分が死ぬ気がするんだよ。何か取り返しのつかない事が起きた気がするんだ。でも、気のせいだよな?」

 菱澤はよろめく。爛花の前で一瞬躊躇し、しかし意を決して座卓を回り込み、爛花に取り付いた。

「あぁ、爛花さん、ほんとにすっげぇ苦しい気がしてきた。これ、もしかして、ほんとに苦しいのかなあ? 俺の体、なんか動きが、鈍いんだよォ。動悸がヤバイよ。肋骨が突き破られそうだ。息が止まるくらい、心臓が、変拍子で鳴ってるんだよ。ヤバイ。ヤバイヤバイヤバイヤベエクルシイクルシイィィィ! オレハ、モウロウトシテイル。ドウニカナッチマウヨォォオオ!」

 菱澤は、うわごとを言った。


[地獄のような光景]だった。少なくともこの世界では、そう言うのが適当と思われる。

 毟るように爛花に取り付く菱澤が居た。菱澤の目は、まさに魔物や異形だった。世に出てきてはいけないか、世を去った後の生き物の目だ。爛花を見たことで緊張が途切れ、体の声、肉の声が、溢れて来ているのだ。顔色は青くて黒く、本能を剥き出しにして取り乱している。菱澤に何が起こったのだ?

「苦しい、助けてくれェ! 俺を助けろ! 俺は、望んでいない。こんな人生など、あまつさえ、こんな人生が俺の義務・・・・・・・・・・なんてェ。この路線を、最後まで行かなきゃならないなんて、言語道断だッ! 俺は怖い、怖くて怖くて堪らない。俺は死ぬのか? やきそばパンがもう喰えないのか? 喰いたい。もっと喰いたい。ゲームもしたい。ふとんで寝るあの喜び。酒を飲むあの一瞬の刺激と熱。爛花さんが居てくれる部屋のやすらぎと興奮。俺の全てが、おおおっ、奪われてしまうのか? なぜだ。人生は俺にこんな仕打ちをなぜするんだ。これは悪夢だ。嘘だといってくれ。俺は健康だって。これからも当分は大丈夫だって。何十年かは生活を楽しめるって……」

「落ち着きなさい。まだ死ぬと決まった……いえ、まだ死なないわ」

「いや、もう駄目だ、俺は死ぬ! きっと死ぬ! 俺はもっと生きたい。俺は生きたいんだ! 今頃解るなんて……! 合格も上流の生活も要らない。ただ生きていたいよぉ……二度とできなくなるなんて嫌だよぉ……。食べること、寝ること、起きること、風呂に入ること、平穏に生活することの愉しみ。どれだけ恵まれていたか……」

 爛花は眉を顰めた。

 菱澤の腕をふりほどいた。

「恵まれていた……? 安心なさい。それは気のせいよ。菱澤は低すぎる処から低い処を見上げる錯覚に陥っているのよ。更に惨めな境遇・・・・・・・に置かれた奴隷が充分に惨めな・・・・・・境遇の奴隷を羨んでいるまでのこと。お前は最悪の間抜けだわ」

「やだ、爛花さん、ひどい、そんなことない! そんなことないそんなことない! うわぁあああぁぁあ! ひどすぎる!」

「菱澤。悲劇のセリフとしては認めなくもないけど、ちょっと長いわよ。聞き苦しいわ。もう退場しなさい。お前はお前の世界の事・・・・・・・・・・実を観たのよ・・・・・・。期間の長さなどは関係ない。お前の生き方をすればどういう消え方をするかは初めから明白だったでしょう。お前にだけはそれが観えていなかった」

 爛花がぴしりと言った。同時に、菱澤は涙を零した。自分は衝撃を受けた。菱澤にこんなに新鮮な感情が残っていたとは。

「お前の寿命がどのくらいなのかは私は知らない。けれど全ては因果の通りに進むのよ」

「爛花、さん……」

 菱澤は絶句した。座卓の向こうに這って行き、壁に背中を預けた。長い息をつく。

 少し、気分が落ち着いたのか?

「私の観る限り、菱澤にはある種の才能があった。だが囚われて誤った方向を向いていた。自分の才能のありかに気づくことがなかった。それはね菱澤。お前が馬鹿だということなのよ。でもお前は人生を謳歌した。お前の人生はどうだった? 馬鹿なお前でもただ一つ、美しいものへの目は持っていた。お前の私への気持ちは本物だった。それだけはお前が手にした真実だった。真実に気づくことができれば……自分が何者かも知れたはずだ」

 聴こえているのか、いないのか、菱澤は丸まって嗚咽している。

「……ああ。かなわないな。爛花さんの前では、俺自体の嘘が芋弦式に暴かれてしまう。全部が爛花さんの言う通りなんだ。そして俺は自分が分かるまで分からない」

「そんなことは、もういい。体調は落ち着いたか?」

「うん、ましになった。気分も良くなったよ……。そうだな、落ち着いて喋ろう。まず体の事だが、今から虚勢を張るつもりもない。俺は認めよう。自分の体の事は分かっていた。四年にも及んだ滅茶苦茶な暮らし。喰うこととゲームしか、楽しみは無かった。『全面性境界病』のせいで、性欲の楽しみも、消えてしまったしな。喰う量は恐ろしく増えた。うすうす感じていたんだ。ひょっとして俺は死ぬかも知れないとな。もう何年も毎日、謎の不整脈があったし、下っ腹には鈍い痛みがあった」

「医者には診せていないのだな」

 爛花は淡々と訊いた。

「ああ、そうだ、爛花さん。もし深刻な病気だとして、そいつを知って何になる? 治療の為にまっとうな・・・・・生活にする? それこそ俺はすぐ死んでしまう。この俺様の特殊な病気を理解しろとは言わねぇし、しろとも思わねぇ。世界から一人以外の人・・・・・・・・・・間が消えた世界・・・・・・・。最近はもう一人、人間・・が増えてくれたけどナ……。とにかく、そんな苦しみは、普通の人間共には分からねぇだろう。放っておかれる事だけが、俺の救いだ。爛花さんがそうしてくれたようにさ。俺は、異常になっちまった世界を見ないようにするには、喰いまくり、八つ当たりのように眠る以外、無かった。暴食につぐ暴食、喰うために喰い、休む為に喰う。そいつを続けるしか、俺自身の平衡を維持できないんだ。体調が良くなっても。全面性境界病がある限り、俺はいつか必ず身を滅ぼす」

 菱澤は卓上のせんべいを食べ始めた。

「いつになく不味いな。血の香りしかしない。喰えたもんじゃないゼ。……だから俺は、体の不調については、当たり前のモノだと思い込むことにしたんだ。これは生まれつきなんだってね。思い込むと、特別な痛さは感じなくなった。俺は鈍さを身に付けた。……ああ、だが、もちろん、感じてはいたゼ。体の異変が着々と進行していたことはな。もしかしたら、ヤバイかもなとは思った。遂に現実になっちまった。悲しいゼ……」

「救急車を呼ぶか?」

「いや、大丈夫……。一応、落ち着いたよ。何かの破裂とかではなく、溜まっていた汚れたモノが、堰き止めきれずに、出てしまった感じだ。だが不思議だが治る感じは全くしないよ。より怖ろしいものが体の奥に控えている感じしかしないね……」

 自分はトーキョーヘイムで血を見慣れているが、少女の身体は足先まで硬直してピクリともせず、勝手に首を逸らしているほどだ。この世界ではまれな事が起こっている。

 だが爛花は沈着この上なく対応している。まるで計数を間違えないようにする[科学者]の面差しだ。来る途中では、爛花の内側は、確かに動揺していた。気持ちを立て直すのも自在なのか。それとも、明らかに抜き差しならない状況が、自動的に爛花を厳粛にさせるのか。しかし、確実に言えることだが、爛花はこんな局面に極めて手慣れている。[修羅場]を経験した回数が並大抵ではないのだ。アイドルの経験だけで、こうも泰然となるものか?

「どうして私に黙っていた」

「すまない爛花さん。俺は病院なんかまっぴらごめんだった。どのみち俺は詰んでた。だったら俺は、平和にゲームができて、コンビニとスーパーに行くだけで良くて、たまに爛花さんが来てくれる生活を、失いたくはなかった。この生活は天国だったよ。最近読んだ漫画にあったが、『パライソ』ってやつだ。そして爛花さんは俺の聖女でいてくれた。こいつは俺の問題だったのさ。こればかりは、爛花さんが関わってもらうことじゃない」

「菱澤は、いつもそうだな。受験の件もそうだ。伽藍堂大学は菱澤が期待するほどの天国・・ではないと私は言っていただろう。いつも結末を自分で味わうまで、頑なにやり続けてしまう……。だが、今はそれがお前の個性だ」

「ありがたし……。この菱澤、それだけで報われる」

 菱澤は涙を流した。さっきのは自身の事実を認めた涙。今度は嬉しい涙だろう。

 自分の身体は、血を見ているだけで耐えられず、真っ暗な台所に行き、流しで吐いた。しかし妙な味のするツバが湧くだけだった。そういえば今日はほとんどモノを食べず、駆け回っていた。爛花に案内された場所では、食べなくても体力が無尽蔵に湧いてきた……。吐き気は、第二波、第三波となり、引かない波のように来る。対人拒否に加えて、菱澤が生き血を吐き、生き物とも思えないさまで爛花に取り付くのを見たのだ。この身体では後を引いても仕方がない。少女の身体を責める気はない。少しの苦しさは我慢してやる。

 だが、少女の身体は絶対に部屋に戻ろうとはしなかった。台所の隅で丸くなり、金縛りのように震えていた。この場所で限界だ。戻れば菱澤の生々しさを目に映すことになり、身体の吐き気が増すのは明らかなので、自分も台所で待とうと思う。この身体なりに、何かを感じている。

 真剣に言い合う二人の声が聴こえて来る……。

「だが、想定してた最悪なルートよりは、マシだろう。俺がそのうち死ぬかもしれない事は、嫌だが、予期はしていた。伽藍堂大学だって、半端に受かって、どこにでもいる学生になるより、浪人生を貫いて死んだほうが格好つくゼ……。爛花さん、俺にはね、生きる目標なんか無かった。目標が無く、体が生きるままに、生きるくらいはできる。が、俺の場合、それは許されなかったな。ま、そうだよな。生きる意志の無い奴は、自然サンだって、全力で崩落させに掛かるだろうしな。これで家族には仕送りの手間を掛けさせなくて済むか……。こんな無能な子供も、死んだら親は悲しむってのは知ってる。義務だからちゃんと悲しんでくれや」

「そんな事を言ってはいけない。あんなに善良な両親なのだから」

「いやー、それにしても俺は、馬鹿で鈍い人間でよかったなあ! もし知性が鋭かったら、マジでどうすんのよ。自分の死に関するあらゆる出来事を、顕微鏡で観るように拡大して、覗き観ちまっただろうよ! そうなったら俺は全世界を観るのに耐えられるとは思えない。頭の良さは、俺の器じゃないんでな。『全面性境界病』くらいで沢山だよ。ゴブッ……またかよ。どんだけ出やがるよ。――まあいいかもなァ、ここで死んでも。四浪だしこの先も見込みは無いし。俺自体が救いようがねぇし」

「希望を捨ててはダメよ。菱澤」

「ありがとう爛花さん。やさしいなあ。嬉しいよ。何回も言ってきたけど、爛花さんは、俺の理想の体現・・・・・・・だったよ。俺がどんなに頑張っても、紫羅爛花には、なれない・・・・。紫羅爛花は最強の大学生さ。俺は伽藍堂大学の文科学部に行きたかった。だが、そこには紫羅爛花が通っていた。高校時代の読書の影響で、小説家になりたかった。だが、小説家にも紫羅爛花がなった。俺は科学者や実業家にもなってみたかった。紫羅爛花は既にそこらの分野でも成功しているらしい。最高なルックスを持ち、周りからチヤホヤされたかった。男女は違うが、紫羅爛花がなっている。アイドル業の送迎は立派な外車ときている」

「何度も言っているでしょう。そんな事は大したことではない」

「ああ、そうだ、バンドをやろうと思った時期もあった。楽器の難しさに挫折した……」

 自分は、肉体の中で、トーキョーヘイムの勇・・・・・・・・・・者として・・・・冷静に状況を観定めた。

 真剣な二人のやりとり。いっけん生命力に充ちている菱澤の声。充分に生きて動いていた体。いつもどおりの胡乱な目。だが、菱澤のどの身体動作にも、生命の芯が脱けていた。あいつのきょうの目は、人間の物じゃない。あれは馬や兎などの眼球だ。何か致命的な動因で、知性の喫水線が、異常に下がっているのだ。自分は敢えて、口にはしなかった。既に爛花が知っているのを感じたからだった。

 自分はさっき、爛花が嘘を言ったのも知っている。

 ――お前の寿命がどのくらいなのかは私は知らない。

 嘘だ。あの時、爛花は本心を偽った。自分の直感が外れているなら、それに越したことはないと思う。

 そして、部屋に垂れ込める原因不明の、納豆のような腐臭……。

 これは自分の超能力なんかじゃない。トーキョーヘイムで一年も暮らせば、誰でも身に着くだろう自然の勘・・・・だ。

 菱澤は、近いうちに死ぬ。

「大変なコトになった鋼鉄ねぇ」

 マスケがからかうように頭上を揺れる。

「そして楽器はお前が弾けるな。菓子・・。俺はお前が来てから、不思議な運命を感じるのだ。どんな運命かは分からねェし、運命とかいうスカスカの言葉でしか言えんがな。だがどうやら俺の退場の時が来たようだ。こういう直感には逆らうものじゃねえだろう。フッ、それにもう、逆らうこともできない……。俺の理想は全部実現されているのだ」

 菱澤が、自分を呼んでいた。

 仕方がない。少女の身体を部屋へと運ぶことにした。

 膝が震え、激しすぎる動悸と吐き気がする。しかしこの身体は表情には反応が出ない。自分は妙に勿体つけて歩を進めているように見えるだろう。

「オ、オイ、大丈夫か鋼鉄?」

 マスケに心配されるとは……。初めての事じゃないか?

「無理はしないで」

 爛花が囁き、肩を貸してくれた。身体の特徴を知ってくれている相手が居るのは、非常にありがたい。以前この部屋で紙に書いて情報伝達して以来、爛花とは言葉を要さずに多くのことが通じ合う。レコニングマン同士の間柄なんだろう。

「なあ、爛花さん、もう今更だけど訊いておきたい……。俺の才能って、何だったんだ?」

「菱澤の才能は、これよ」

 爛花はロフトのマットレスの下から画用紙を取り出す……。自分も以前見せられたもの。さまざまな「何かの部品」が羅列され、人間状の輪郭を形造っているモチーフ。たしか大学の構内にてスケッチしたと言っていたか。自分はその醜悪な絵を観たくないので、視野に入った瞬間、焦点をずらしている。だが、爛花はその絵を置いて、マットレスから二枚目の絵を引っ張り出した。自分はそれを観て、驚いた。醜悪でない。観ることができる。

「これは……」

 いや、それどころか……。

 モチーフは爛花だった。一目でわかった。爛花がそこに居る・・・・・・・・と判る絵だ。一枚目のように色は塗られておらず、デッサンで止まっている絵。写真のように細密に描いたのではない。抽象的に大胆に崩されてもいない。あえて言えば、そう……。菱澤がやっていたゲームのキャラクターのような描かれ方に近い。それなのに、描かれた像が爛花であること、像がまるで爛花が分裂したような空気感を持っていることが一目で判った。

「菱澤には私がどう観えるかを絵に描いてもらったことがあった。これはその時の物。菱澤本人は、絵を描くことには何の動機も関心も持ってはいなかった。でもその点に菱澤の才能はあったのよ。菱澤は勉強をして、楽器をやり、小説を書き、どれもものにならなかったわ。けれど、絵だけは別。虚仮こけの光にとらわれてしまっていた」

「そうだったのか……」

賭け(Le)るな(jeu)(n'en)というこ(vaut)とは(pas)つま(la)らぬことだ(chandelle.)

 爛花が[フランス語]で、何かを呟いた。

 座卓の向こうの菱澤に、自身が描かれたデッサンを渡した。

 やりきれぬ様子で菱澤は絵を受け取った。顔は笑んでいるだけに見える。だが今、菱澤は、どういう表情をしたらいいのか。たかが表情だけで今のやりきれなさを表現し切れるのか。少女の肉体ならずとも、そう思えた。

「こういう時に、何か気の利いた事を言う為にも、もっと勉強してりゃあよかったなァ」

「何を言っている。愚鈍な者は勉強で知識を付けたら尚悪い。おのれの愚鈍を効率的に世に行き渡らせる術を会得するのだからな」

「きついぜアーツリン、ヘヘッ……」

 菱澤は人生の終盤でもキャラクターが定まっていなかった。自分の予測では、菱澤は今すぐに死なないにしても、死の間際であることを取り消せるものではなかった。

 自分が何者かキャラクターも解らず死んで行くキャラクターなのか。

 ……[菱澤龍圭]は。

「もっとも、私はそういう者を知っているが、一目でそれと知れる眼光炯炯たる者を除いては、己が愚鈍かどうかを知る事も、この現し世では至難なこと。それを知るには、受験の勉強ではない本質的な学びを、ある程度してみなければならないだろうが……今更詮無い話だな」

「フッ、そうか……。俺は色々な事を、やり残したようだな……」

 その時だった。

 自分の身体感覚が急変した。

 明らかな異常が起きた。

 景色の全体がのっぺりしだした。一枚の幻影のヴェールのように、世界が観えだしたのだ。現実感が薄れゆく。物体はここにあるし、爛花も菱澤も居る。それなのに全部まとめて景色が一つの幻影のように遠く薄いのだ。自分は、苛立ちを覚えた。急に自分だけが世界から騙された感じ。

 肉体の感覚も、ひどく鈍かった。意識を除いた五感が切除されたような感じだった。なんて忌々しい。大事でない場面など一度も無いが、今は特に大事なのだ。なぜ自分から世界を取り上げるのだ? 姿の無い「何者か」に対して、怒りだけが募る。

「――あなた、その顔色……もしかして」

 爛花が自分をみて、確信を持って言う。

「オーバーフローしたわね。危険だわ」

「そうだナ鋼鉄」

 爛花とマスケが言い募る。

 ……[オーバーフロー]? 何だそれは? 自分の世界はどんどんおかしくなる。色が剥がれ落ち、グレーのノイズになる。だんだんと気も遠くなっている。吐き気も痛みも何も感じないが、このまま行くと深刻な事になりそうなのは分かる……。おそらく鍵は菱澤なのだ。この身体は人の死・・・を感覚して変調をきたした。

「菱澤もだけれど、こちらもまずいわね……。今迄とは帯域・・の一気の違いがあるわ。揺さぶられ過ぎた。この世界の初心者のあなたには耐えられない。ヴィヴィアン、目を閉じなさい!」

 爛花は自分をギュッと抱く。菱澤が、景色が、目に入らないようにさせる。自分は目を瞑る。胸の鼓動が激しい。菱澤と同調しているのか。この世界に来て、初めての感覚を、自分は味わっている。[おぞましいもの・・・・・・・]の到来の予感。自分は・・・恐怖・・しているのだ・・・・・・

「大丈夫。気持ちをリラックスさせて。何も怖いことは無い……。あなたに喩え話をしてあげる。この部屋でプレイしたRPGを思い出してみて。たとえば、LV1で『ギルデンロー』と出遭ったら、トラウマになって近くの村に引き込もってしまうし、実際にもそれ以上進めようが無くなってしまう。これはゲームの仕様としておかしいのよ。けれど、LV27にもなればどう? 『ギルデンロー』が四匹出ても、一顧だにせず『スライミィストーン』扱いできる。ヴィヴィアン、私はあなたの将来性を買っているのよ。いわばあなたに先行投資することに決めているの。世界の先輩の指南は、一回くらい聴いても罰は当たらないものよ……」

 爛花はやわらかく抱いてくれる。体じゅうに思いやりが伝わって来る。あたたかい体温。コンパクトなのに豊満な爛花の肢体。不快感が嘘のように消え、心地いい……。

「……アーツリン……」

「あなたの意思を確認するわ。私に委ねてくれるわね?」

 自分は、何も言わなかった。心地良くて、口を開くのが億劫だった。しかし自分の意思は言うまでもなかった。もちろん自分は委ねた。爛花が何を言っているのか解らないが、それは別にいい事だった。そして爛花は思いを受け取った。

「それでいいわ。いい子ね。こちらに来て以降、あなたは経験の詰め込み過ぎで、自分が思う以上に困憊している。とっくに春になったのにコートを着っぱなしで暮らしている自分にも気付いてなかったんですもの。この局面は私一人に任せて。あなたの分まで私が引・・・・・・・・・・き受ける・・・・。……ただし、《一時矯正排除モラトリアム》されてオフを与えられることは、生涯一度きりの技。次に同じ局面が来た時は、あなたの行為・・を必要とする。了承したわね?」

 優しさが伝わる。ひたすらに優しい。それだけが、何故か判った。自分は頷き、爛花の言う事を、全部受け入れた。将来に意味が分かるのだろうな……。

「遊離体。本体の意思を確認した。緊急避難の裁定を」

「コッコッコォ、力技だなァ鋼鉄、ウッテッツー! こいつは裏技・・だぞ。本人なら絶対に選べない肢だ。あんたは怖ろしい。ヴィヴィアンの未来から・・・・介入した。しかし、ともあれ、本人の意思だ。わたしは切るのみだな。二度目の指南の札を。……《一時矯正排除モラトリアム》を発動ッ! 被験体は《遊暇オフ》に突入するッ! 鋼鉄鋼鉄鋼鉄鋼鉄鋼鉄鋼鉄鋼鉄鋼鉄鋼鉄ゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!!」

 マスケが何かを叫んでいる……。意識は遠のき、内容はあやふやだ……。背中に重みがかかった。マスケがコートに貼り付いて来た……。熱い……身体の輪郭が無くなる……。

 爛花が囁いた……。

「あなたは、そういうのは・・・・・・いらない。勇者には迷いは似合わないわ」

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