蔡
洞窟のような湿った暗い通路を進むと、光が見えてきた。地上に出るようだ。湿り気が増してくる。喉を通る空気は、まるで水だ。
穴を出ると、霧に覆われた密林だった。足元にはシダ植物と苔がふかふかと生えており、苔の先端に水滴がてらてら光っている。木々の枝ぶりは道に迷ったように曲がりくねり、背丈はさほどでもないが、そのぶん大いに横に広がっている。そして、樹林を浸している、浮遊する水のごとき霧。この霧があまりに濃密で、ひんやりしているため、特殊な植生を生んでいるのかもしれない。
抜け穴のそばには、小さな堂宇があり、[鳥居]があった。これは……[神社]というものである。自分の理解では、精霊と触れ合ったり交信するために、トーキョーの人間達が用いる設備だったか。堂宇は綺麗に手が入れられており、人間が通っている形跡がある。
「滑らないように、気をつけて。と言っても必ず滑ることを請け合うけど」
爛花はゆっくりと密林の細道を縫って歩く。[神社]には詣らず、横を抜けた。ぶあつい苔で分かりにくいが、地盤はごつごつした岩で成っている。水が流れる場所には板の通路が渡してあり、獣道というわけではない。だが、頻繁に岩肌を上り下りするうえ、水で濡れている岩は滑り易く、注意が必要だ。といっても、前世では冒険者の先頭に居た身、身のこなしは[遺伝]しているふしがある。岩肌に浮遊して、空中を滑り上がるかのように進む爛花は、もはや色々と別としても、自分もひょいひょいと軽やかに進むことができる。残念だが爛花には予測を撤回してもらおう。
やがて、足元が渇いた土に変わっている事に気付いた。シダと苔は無くなり、まわりの木々も通常の形に枝を伸ばしている。濃厚な霧雲からは脱け出したらしい。自分達は、岩に阻まれ、何度も蛇行しながらも、上へと歩いていたのだ。
振り返ると、いままで居た密林が海のように欝蒼と沈んでいる。あの森が霧雲を飼っているのだ。あの森の奥に堂宇があり、そこから歩いて来たと思うと、驚くほど上って来た。
森は断崖と言ってもよい急峻な岩壁に全周を囲まれていた。この地形は、よく言う「すり鉢」よりは、「水筒の蓋」のようだ。岩壁のほとんどの部分は、垂直に一直線に落ち込んでいる。落差は数百メートルにも及ぶだろう。自分達は岩壁の中の、唯一と言っていいほど歩きやすい斜面の中盤に、今は取り付いている。いわば水筒の蓋の内側の一部だけ、すり鉢の角度になっているのだ。道の入念なつづら折りと、密生した植物が、高所の恐怖をやわらげる。
岩壁の縁にようやく上り詰めると、空前の巨穴の底に繁る森が見えた。今はあの森が苔のようですらある。
ここは何だ……。トーキョーヘイムでは大陸奥地の火山の頂上に、一説には魔界と通じるとも言われる大穴があるが、まるでその人跡未踏の火山に来たかのようだ。もっとも、ここでは大穴はなく密林があり、自分達は逆に底から出てきた。
「ここは途方もなく古い火山の山頂。《創舎》のみならず東京とも密な現象連結を保持している珍しい場所よ。ここから見える下界は、なかなかの絶景よ。大抵は風と雲が居座っているのだけど」
やはり、火山か。トーキョーヘイムの火山と繋がりがあるのかもしれないが、今は何も分からない。火口に背を向けると、爛花が示した下界の方向には、確かに霧しか無かった。
「……取っておきの場所?」
「いいえ、もっと麓のほう。ベースをここに置いて、コートも脱ぐといいわよ。邪魔になるからね」
そう言って爛花は、霧の中を下山し始めた。
下界には、山頂と全く異なる世界があった!
夏の叢と、そして黒い森。
景色の中心には、[ババロア]を伏せた形の山があった。勇壮だが、優美な外観の山だ。山の上部にはレンズのような雲がかかっている。あそこから、降りて来た。
日が高くほとんど真上にあり、気まぐれに空に散らばった雲は、今まで見たどの雲よりも高い所にあった。火口では太陽の存在すら忘れていたが、この場所の太陽はどこよりも軽く明るく奔放であった。
この場所のカレンダーが春だとしても、気候は完全に夏だ。緑の隆盛が永遠に続いているような土地に出てしまった。あらゆる景観と体感がそれを示していた。ぐつぐつと煮立った緑が全面に燃え出ている。道端の草も背丈ほどもあり、槍が一絡げにされたような荒々しい形をしている。
青と白の二色でセンス良く塗り分けられた三輪の乗り物に腰掛け、ぶーんと走っている。この[原付]によく似た、原付以上の安定感と疾駆感をもつ乗り物は、車輪が直列に三輪並んでいる。それぞれが[サスペンション]のように半遊動式であり、そのためなのか、浮いているような乗り心地がする。山の登り口には同じ乗り物が鍵付きで何台も停めてあった。自由に使えるらしい。
自分は運転に自信が無いので、慣れた爛花の後ろに座った。自分にヘルメットをがぽっと被せると、爛花はドレスの裾を盛大にはためかせて駆った。緑が溢れ返る中を、まぶしい白の石畳の道が、小気味よく蛇行している。ふわふわと浮いているような一体感。走っている時の空気は体温と同じくらいだろう。
爛花は舗装されていない赤土の道に入って行き、しばらく登る。
やがて、畑が広がった所に出た。
正面には、あの山が観えた。
「ここが取っておきの場所よ。私達の畑なの」
「……畑?」
「ええ。《創生》には畑仲間がけっこう居てね。みんな思い思いにここを耕しているの。ここは蔡を受け持つ土地の、畑だからね。ここで育つ作物は、特殊な物になるわ」
自分は畑を眺める。言われてみれば、普通の畑で見る作物とは、確実にどこかが違う。旺盛に育っているという、ただの大きさの違いではない。葉の細かい形なのか、この場所の特殊なほどに眩しい太陽がそう観せるのか。
爛花はメットインから持って来たナイフを手に、目の前の繁みにしゃがみ、何かを切り取った。
「……ちょうどよく熟れてるわ!」
繁みの中から掲げたのは、自分の頭より一回り大きい程度の、楕円形をした果実である。
黄色と濃緑色の縞模様は鮮烈だ。しかし全く毒々しくない。この土地の空気と太陽の中で観ると、きわめて自然な造形に思えてくる。
爛花は二つ目を収穫し、一つを自分に持たせた。ずっしり重かった。この暑さなのに、ひんやりとしている。果実の強烈な匂いが脳の奥を突いた。いい匂いだ。バナナと、ザクロと、以前食べたジャガイモの冷製スープを合わせた匂いがした。初めて見た作物なのに、トーキョーヘイムで食べた色々なフルーツの味が思い出される。どうも不思議だ。この実を手に持っていると、何ともいえない安らぎや開放感といったものが、足元からひしひしと湧いて来る。
「この蔡園で取れる作物は、味や収量や外見を越えた物になるのよ。土地の精霊の呪力が、際立って強いおかげでね。一つ一つの要素では計れない、超越的な果実になる。この実には名前すら無いけれど、あらゆる名前があり味があり形があり質感がある……。これはね、世界の実なんだ。なぜならこの実のまえには無限の因果があり、うしろにも無限の因果があって、それらはまとめて独つだからだ。連綿と時間と空間が連なって継ぎ合わされた世界という作品の、その頂点で、先端で、代表で、全部が詰まった物でもある。だからわたしは愛おしいんだよ。この実を育てるのが……」
「アーツリン。わかる」
自分は即座に応えた。この不思議な実を持つと、爛花さえも平静では居られないのか、まさに「精霊」に憑依されたようにいつもと違う口調で話した。自分達は、言葉で会話しながら、言葉にならない雄大で単純なものを遣り取りしたに違いない。いわば「精霊の力」のようなものを……。
この実がもたらすような[効果]は、トーキョーヘイムでは極めて名高い尼僧と神官のみが為すとされる。しかも、悪霊が精霊を騙って憑依することも多く、きわめて危険な儀式だ。真の精霊はそれだけ少ないし、真の祭祀者にしか降りない。向こうでの自分は、精霊の真贋を判別する呪文を使えた。今は使えないが、昔の経験から、どういう体感が真の精霊かは観分けられる。
「いつかこの実を腐らせて、ちょうどいい具合のお酒を造って、飲んでみたいのよね。飲んだらどうなるか分かんないから、控えているんだけど……」
爛花は興味津々、チョコレート色の瞳を滾らせた。わかる。造らない理性も、造りたい欲動も、等しくわかる。むべなるかな。しかし最高にはっきり判ることだが、絶対にいつか爛花は酒を造って飲むだろう。絶好のタイミングが来るのを測っているに過ぎない。理性とは入念な幸福主義者だということだ。そこで、自分は言う。
「……自分も呼んで」
「そうね。じゃあ、あなたがお酒を飲みたい歳になったら行いましょう」
「アッパラパー!!!」
匂いを嗅いだだけのマスケが、自制を失い、空中でぐるぐる回っている。このマスコットには、合っていないようだな。
*
伝説のごとき紫羅爛花と出会った時の事は忘れもせぬ。四年前の十一月十一日の夜の事であった。あの時、俺はまだ高校生であった。フ、化石のように懐かしい肩書也。
だが、俺は既にあのクソな病気を発症していた。ようやく「全面性狭界病」の病名が明らかになり、俺は絶望していた。
ちょうどその頃、俺を癒してくれる唯一の「女」が居る世界が発見された。つまり、あのアイドルゲーと運命の出会いを果たした頃でもあった。
ともかく、ゲームの推しキャラの誕生日であったその日、俺は志望した伽藍堂大学を見学に訪れたわけだ。受験に成功する系の本には、志望大学を下見する事は必須だと書かれてあったのでな。だが、何につけても面倒がる俺の個性のおかげで、大学に着いたのは夜だった。
しかし初めて見る伽藍堂大学は立派である。久々に俺は現実の物体に感動した。
茴香宿駅から二十分も歩いて来て、炭水化物が切れた俺は、建物の陰のベンチに「ぷふ~~~っ!!」と腰を下ろし、ビールテイスト飲料を一口で喉に流し、来る途中にテイクアウトした牛丼をたいらげて息をついた。そして、リュックからホイップクリームの入った「シュークリーム風パン」を出してパクついた。……そんな時、向かいの繁みから猫のように素早い身のこなしで出て来た、堂々たる美少女と対面したのだ。
美女……? むう、なにゆえ美女と感じるんだ? もはや俺はあの重い病気。女を女として見ることは叶わぬはずなのに。お前の悪戯か、菓子よ?
「どうしたの? 豚野郎」
美女は妖艶な発音を綺麗な唇から解放した。
菱澤との初対面? 覚えているわ。私はどんな些末な出来事も大抵は記憶から引き出せるのよ。あの時は勝手に言葉が出ていたわね。
でも、この時に限らず、オンの時の私の言葉や行動は、ほとんど自動化されているのよ。忙しい生活を送っているうちに、いつのまにかそうなっていったわ。特別不都合は無いし、むしろ止まって考えだすと、うまくいかなくなるのが分かった。だから私は、自分のことを、ほとんど流れに任せているのよ。何の流れ? それは、世界よ。
オンがあるなら、オフの時はいつかって? それはあなたも見たことあるでしょう、菱澤のアパートで酒を飲んでいる時よ。オフの時は自分のネジを完全に緩めているの。
……まあ、不可避に外れてしまう時もあるんだけれど……。
ともかく、あの時は開口一番、罵りの言葉を投げたわね。でも一つのセリフを取り上げて非難するのは正当とは言えないわ。セリフは文脈の中で評価されるべきでしょう? 流れに任せているから、お告げのようなものなのよ。こう喋ればいいと分かるから仕方ないわ。そしてあの時もうまくいった。少なくとも支障は無かったわ。菱澤は罵った私に、歓喜してこう言ったわ。
「クポォン! 何という奇跡よ! シチュエーション、構図、偶然、邂逅、全てが完璧也。これはもはや福音……!」
俺は出遭いの場面の完璧さに、世界が凍る思いだった。あの子を愛せ。どこまでもついていけ。俺の中の何かが、そう俺に命じた。爛花さんの背景の建物には、夜になると点灯する大きな時計があった。俺はその時計を背景に佇む爛花さんを生涯忘れることはないだろう。
「完璧だ」
俺はうわごとのように繰り返す。この俺の病気の世界で存在する唯一の人間の女。なんという女よ。俺は歓喜を抑え切れぬ……!
「おお、なぜあなたは俺にとって人間なのだ?」
「……?」
爛花さんは不可解そうな顔をした。この男の中の男の俺といえども、今目の前に居る世界一の美女からすれば、捨て去る権利もあろう。だが俺はお前を決して諦めないぞ。何度でも愛を伝えようぞ……!
「私は忙しいわ。言いたいことがあるなら、一言で言わなければ、三秒後に去る」
「クムッ失敬ッ、なぜにあなたはかくも美しいのだ?」
「……ハァ?」
有象無象の一個だと私は判断しかけた。私が美しいのは残念ながら最も当たり前でつまらない事実だ。人間の中で私が相対的に美しくないならば、人間は全員、神話の人物の造形を持たなければならない。全くつまらぬ個性と外見と雰囲気の男だと思った。……けれども私は、男の目の奥の何かが気にかかった。私が従う「流れ」が、断定を躊躇させたのよ。
私はもう一度だけ、この有象無象に発言を許すことに決めた。
「俺はあなたを愛する為に生まれてきた。あなたこそ俺の人生の意味であった。そして俺の人生の終結となる! 今こそ悟ったわ」
「とても気持ち悪い物腰の男ね。私に付き纏おうというのかしら? お前は十分前に私が学食で何を食べたか知っているというの? 『学食に立ち寄っていない』が正解よ。男の特有の性衝動を永遠の恋愛と取り違えてしまったステロタイプの馬鹿ということでいいのかしらね」
「ムフフッッ……。いちいち切り裂かれるような声も素晴らしい。まるで漢詩のようよ。俺は女に性欲を感じることができぬ。俺自身の性欲のせいでな。ゆえにあなたは女ではない。あの遠い幼き日以来、この世界で俺が初めて見た人間があなたなのだ。誰が無下に女ごときに貶めようか、いや貶めない。たしかに俺は惨めよ……。恐らく浪人するだろう。だが俺の顔を見てくれ。俺が何を言いたいか悟ってくれ」
私は菱澤の言葉には一片の興味も無かった。なぜならこの男は馬鹿で、言う可能性のある言葉の全ては私にとって価値あるものではないと判っているからだ。
しかし私は言葉の奥を観た。私は副業柄、自分の表情を演じることをよくする。それは、商品としての顔。私以外の可愛い女の子の誰とでも、自由にすげ替えられる。時代や流行に応じて演じ分けられる。そういうつまらない商品への需要は、現代では常に多い。
だが実際は、いちばん訴求する表情は、真心が表れた表情だ。偽り無い、その者の赤裸々なところが表に出た瞬間。観る方に観る目さえあれば、それこそ真実の表情だ。
この男のやさぐれた気配、染み付いた陰気さや惨めさ、生気の磨り減り具合は、私の注意を惹いた。それは、不幸の烙印。私は瞬時に菱澤の眼球の奥に浮遊する奴の裸体を観て取った。いかにも醜い裸身である。だが、偽りではない。私に性的にではなく、全面的に心を開いていると言うのも、まんざら大げさでもない。この時私は初めて、この個体に僅かな興味を覚えた。実に久々だ。私がこの世の物事に興味を覚えることは。
「ならばお前に応えて知らせてやろう。この世界の真実の姿をな」
私はそう告げた。男の喋りに感化されたわけではない。私のセリフは常に自動なのだ。どうせセリフの内容は男の未来に当て嵌まりでもするのだろう。
「お前のどうでもいい名前は?」
「菱澤――」
「わかったわ。菱澤の部屋を私の基地の一つにする。光栄この上ないことと思い、相応に計らいなさい」
「おお、あなたは――まさに俺の――」
「無駄なト書きは要らない。私は紫羅爛花。自営業。サービス業。伽藍堂大学生。私を想像して射精でもしてみなさい。二度と菱澤の前には現れない」
「ポモッ、もちろんだ、承った。愛する女の為に生きてこそ男。我が人生也よ」
菱澤は借り物のようなポリシーを語る。まだまだ、純度が低い。だが、磨き上げれば……。菱澤自身の内面で乱反射しているエネルギーを、正しい一点に集束させられれば、少し面白い事になるかもしれない。
それに私自身も、自分が弛緩できる空間を求めていた。これも私の自動世界が運んだ機縁なのだろう。菱澤のクズな環境を自由に利用できることは、私にはとても有意義な事だった……。
……何だ、これは。菱澤と、爛花と、ふたりになったかのように、自分のなかに場面が流れて来る。
これは、夢なのか? それともふたりの本当の記憶? あの慣れた部屋に居るように親近感を覚える体験だが、それを塗り潰す後味の悪さがある。ふたりの内側を勝手に暴き、観てしまった気がしたのだ。さらに得体の知れない、心にズシリとのしかかる暗さと重さがある……。これは、どちらかというと、悪夢だ……。
すると自分は肉体の痛みを自覚した。意識が戻って来たが、尖った居心地の悪い地面に倒れていた。夢の名残りか、体の痛みか、涙がポロリとこぼれる……。
*
「……気が付いたのね」
満天の星が降ってきそうだ。観たこともないほど明るくて、夜空が青々としている。雄大な円形に切り取られた星空。それを背景に、爛花が居た。
自分は、理解する。ここは「水筒の底」だ。
記憶が戻って来る。爛花の取っておきの畑で、精霊に憑依された自分達は、夢のように高揚していった。だんだんと平常の意識が去り、自分達がこの土地に溶け込んで行ったような気持ちになった。時間は過ぎているようでいて、葉っぱの一枚さえ揺れていないように感じた。気付いたら夜になっていた。そして自分達は山の火口に戻って来ていた。その時はまだ精霊の意識が自分を占めていて、平常の意識への橋渡しは、うまくいかなかった。穴の底へ行こうとした自分は、身体を滑らせ、落ちてしまったのだ。落ちた瞬間、「――ヴィヴィアン!」と爛花が叫んだのを憶えていた。
身体を起こすが、派手な痛みは無い。密生した木や、穴の底にじゅうたんのように生えた苔やシダが、クッションになったのだろう。この身体も勇者の反射神経を継いでいる。
「無事ね。良かった。山頂でほとんど回転しながら足を滑らせた時は、怪我しないで済むとは思えなかったけど、精霊の加護があったようね」
爛花は自分のコートと楽器ケースを渡してくれた。
「……ありがとう」
自分は荷物を受け取る。その時、小さな違和感を覚えた。爛花は心配してくれたようだが、だとすれば、山頂に置いていた自分の荷物を持って底に降りて来る行動は矛盾する。しかし爛花が心配しなかったとは思えない。自分は他人の真心が判る「勇者の直感」を持っている。会った時から判っていたが、爛花は真心という点では格別に深い女だ。
無事ね、と爛花は言った。なぜ、無事のようねではないのか。もう一つは、昼間に爛花が言った軽口だ。必ず滑ることを請け合うと言った。……つまり爛花は知っていたのではないか。自分が落ちることと、落ちても無事であることを。そんな事があるのか。トーキョーヘイムならいざ知らず、呪術師の珍しいこのトーキョーで、未来が観えるなんて事が。
「……観えていたなら、止めてくれれば」
自分は思わず呟いた。もし事実としても、これは八つ当たり気味だ。他人の未来が観えたとしても、介入する義務なんて無いのだから。
「……勘が鋭いわね。さすが前世で勇者を務めただけある」
爛花は素直に感心し、目をあどけなく見開いた。
「あなたが悪いことになる景色は、観えてなかったからね。今のところ、私が観ることのできる未来の出来事は、良いことに限られる」
「……自分が転んだのが、良いこと?」
「おそらくね。人間の認識が見通せる因果の半径は微々たるもの。当座では悪い事も起きる。しかし一段と広い時間と空間の中で見れば、本人のプラスに資することになる。そういう未来に繋がる景色なら、私は観ることができるわ。そうは言っても無制限ではなくて、あなたが無事なところまでは観えても、その後まで観えたわけではないわ。でもお楽しみでいいんじゃないかしら。良い事なのは確かなのだから」
「……頭を打って、何かを想い出すとか?」
「そうね。だけど何も想い出さなくてもいいのではなくて? なぜなら、起きた時に観た景色が仰天するくらいに綺麗な星空だったというのも、まんざらでもないでしょう?」
……たしかに、まんざらでもない。今は爛花の言葉を、気のせいだとしても、明瞭に理解している気がする。
「教えなかったけれど、この土地では誰でも未来が観えるのよ。精霊のおかげでね。だからあなたも注意すれば観えたのよ。けれど観える必要自体ないのよ。ここは悪霊の土地ではない。精霊のもとでは未来における調和だけが保証されているわ」
「……トーキョーでは、悪霊の土地も、ある?」
「もちろん、ないわけではないね……。あなたの前世で、魔王の土地がそうであったように」
「……」
悪霊、か。
精霊の対極に居る者。どんなおぞましい土地に住むのだろう。
それはさておき、自分はコートを着て、胸に手を当ててみる。
「……アーツリン。気を失っている時、自分に何が起きるかも、あなたは知っていた?」
「え?」
ぬるい風が、自分の頬をなで、爛花の黒髪を揺らした。昼間の暑さの欠片がある。
自分は爛花の表情から察する。自分が観た幻想の内容までは、爛花は観えなかったのだ。そう思った時、自分は流れに運ばれたように、口をついて言った。
「……アーツリン……。あなたは、菱澤龍圭に、見せた?」
「……は? 菱澤? どうしてあの男の話が? それに見せたとは、何の事かしら?」
「『この世界の真実の姿を』」
それは夢の中のセリフ。何を意味しているかは知らない。世界の真実の姿と言われても、自分にはサッパリだ。しかし妙な予感がする。胸がぞわぞわする。
「……何のこと?」
だが爛花は何食わぬ顔で訊いた。素すぎて、逆に演技じゃないかと疑ってしまったほど他意が無かった。思わず凝視してしまった自分を、猛烈に恥じたいほどだ。だが、こんな時は、表情に全く出ない少女の特性が有り難い。
「落ちた時に頭を打った設定の芸かしら? 東京のユーモアを取り入れる姿勢は偉いわね。その調子でいいと思うわよ」
爛花は自分の手を引いて、星の天蓋の下を歩く。すぐに堂宇があり、自分達がやって来た風穴があいている。来た時は自然の洞穴だったのを記憶しているが、戻る時は人の手が入った隧道となっていた。天井には古いランプが、とぎれとぎれに昏い明かりをぶら提げていた。
隧道から出た場所は……夜更けの大学の構内。
ひとけのない建物の裏手の築山であった。
ここは自分が初めて来る、大学の[別のキャンパス]であった。ライトアップされた「シャンバラリアス」が、初めて観る角度で屋根を突き出していた。
自分達はキャンパスの中に出て、夜の学生の人波に合流する。伽藍堂大学には[文科学部]があり、ここは特殊で実践的な演習をすることから、一箇所にまとめられてキャンパスが設けられているのである。
「ゴハン、食べて行く? ここの学食は少々センスがあるわよ。学生の人気も高い」
「……きょうは、いい」
自分は悪気なく断った。それは爛花にも伝わったようで、「わかったわ」と納得して打ち切った。きょうは色んな体験をして、満腹だった。
「――きょうは、《創生》のサークル活動の拠点になっている《創舎》を、軽く廻ってみたわ。私達のサークルに入りたくなったら、また来てちょうだいね……」
文科学部の目抜き通りは、とても緩やかで長い下りの坂道になっている。構内には[桜]の花びらが微風に舞い、ひかえめな結晶のように夜の空気を増幅する。入試の時には枯れて化石のようだったが、今は時間を爛漫と解放させており、動く絵とでもいう濃密さである。鼻がむずむずするのは、花粉という物か。[春]の空気は、ぼやっとしている。景色を幻想のように掴み所なくさせるベールが、構内を包んでいる。「新歓」や「飲み会」と書いた手作りの看板が演劇の役者のように揺れている。既に夜だからか、学生はほどよい感じにまばらで、自分が歩いても身体がぎりぎり対人拒否反応を起こさない。人、物、自分、すべての流れがいい……。
一体、きょうの体験は、何だったのだろう。確実に言えるのは、ここは通常のトーキョーなのだ。ここは伽藍堂大学。《創舎》ではない。つまり自分は、《創舎》という特殊な空間に一度入ったことで、反転的に、通常の空間の「通常さ」を理解したらしい。そして気になるのは、《創舎》に入れる者達のこと。
「……アーツリン。《創生》は、レコニングマンのこと?」
「う~ん。それは違うわね。まず、《創生》が全員レコニングマンであるわけではない。《創生》には三つのルーツがあるわ。もともと《創生》である者。人間から《創生》になる者。レコニングマンから《創生》になる者。したがって《創生》というのは、生物学的特徴ではなく、生態学的特徴というのかしらね。事業を手がける者を起業者と呼び、研究する者を学者と呼ぶのと似てるわね。そしてまた、レコニングマンが全員《創生》というわけでもない。《□□□》の領域に縁がなく、人間の一生を送るレコニングマンも普通に居るわよ。ただ、ま、レコニングマンのほうが《創生》になる率は高いと言えるわね。レコニングマンは、ある程度成熟した姿でこの世界に現れ、この世界の物理学や現象に後天的になじむからね。物理現象の外というものがあるとして、そちらへ脱け出しやすい体質ではあるのでしょうね。生粋の人間たちは、世界の片面に――」
人間にも《創生》が居る。ただ、自分達は《創生》になりやすい。そういうことらしい。すると、考えながら歩いていた自分の手が、爛花の方に引かれた。精霊の土地の時から、手を繋いでいた。性的な意味ではなく(自分の身体は女だ)、爛花といっしょに春の空気を味わうのが気持ちいいから、ずっと繋いでいた。今、爛花が一方的に立ち止まったので、自分は引っ張られる形になり、手は離れてしまった。
「――片面……。事実……。ヴィヴィアン、思い出した。あなたは私が昔言ったセリフを言ったのね。そうか……。あなたはそういうものを、観たのね……」
爛花は、構内に戻ってから着けていたサングラスを外し、自分を観た。刹那、力が脱けて、しゃがみ込む。自分は咄嗟に駆け、支える。爛花は表情を失っていた。自身で分かっているが、繕う余裕も無いのだ。額を押さえ、うずくまっている。萎んだ朝顔のようなドレスのシルエット。
「ありがとう、もう大丈夫……。でも行きましょう。どうやら、行かなくちゃ」
爛花は立って、歩きだす。自分の手を掴んできた。エスコートしてくれた優雅な力は無かった。垂らされた命綱を握るような、やみくもで粗暴な握り方だった。自分は爛花の中に只事ではない事が起きたと判った。深刻な表情をしている以上に、「勇者の直感」によって、手から自分の中に伝わって来る。それは、灼けつくような暗闇と痛みだった。




