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十年前、俺を「わいせつ教師」にした教え子と結婚した。初夜、彼女の一族28人が死んだ  作者: 空の異変


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第一話 28人の夜

上着の袖に、ガソリンの匂いが残っている。


取調室に入れられてから何時間も経つのに、抜ける気配がない。


机の表面は薄く削れていた。肘を置くと冷たい。


紙コップが一つ、俺の前に置かれている。


縁が片側だけつぶれていて、誰かが使ったまま片づけ忘れたものらしかった。


俺の指は、まだ少しぬめっている。


手を洗わせてくれと言ったら、後でと言われた。爪の内側に入ったものは、たぶん水では落ちない。


袖口に薄い染みがある。乾いて、布がそこだけ硬くなっていた。


向かいの席で、女性の警察官が書類の角をそろえる。


「楢峰(ならみね)県警察の奥寺(おくでら)です。辻本冬馬(つじもととうま)さん、で間違いないですね」


「ああ」


書類の隅に、奥寺律子、と署名が入っていた。


「昨夜、檜坂(ひさか)町の新堂さんのお宅の敷地で、何をしていましたか」


「ガソリンをまいた」


奥寺の手が止まった。


書きながら聞くつもりでいたのが、書けなくなったという止まり方だ。


「まいた、というのは」


「携行缶で。母屋の廊下から縁側、それから庭まで」


「火は」


「つけていない」


「つけるつもりは、ありましたか」


「あった」


隣に座っていた男が何か言いかけて、奥寺が手のひらでそれを止めた。


ボールペンの尻が、机を一度だけ叩く音。


奥寺は40歳くらいに見えた。化粧気がなく、手首に細い時計をしている。


驚いた顔をしないことを、たぶん仕事のうちに数えている人だ。


「通報は、一軒隣の方からです」


「知っている」


「屋外で匂いに気づいて、様子を見に来られた。その時点で、あなたは庭に立っていた」


「立っていた」


庭の土は霜で白かった。まいたところだけ、色が濃く沈んでいた。


携行缶は農機具小屋の棚にあったものだ。持ち上げると、中身が缶の壁に当たる音がした。


手錠をかけられたとき、金属のほうが俺の指より温かかった。


俺が逃げなかったことを、この人たちはまだうまく扱えずにいる。


逃げる男の調書のほうが、書きやすいのだろう。


奥寺が書類を一枚めくった。


紙の裏から、蛍光灯の光がうっすら透ける。


「亡くなった方は28人です」


「知っている」


「奥さんは生きています。救急で運ばれました」


「それも知っている」


「意識が戻り次第、奥さんからもお話を伺います」


「好きにすればいい」


救急車が出ていく音は、庭に立ったままでも聞こえていた。


サイレンは家を離れてから鳴りはじめた。近所に気を使ったのかもしれない。


    *


書類の束は、俺の腕の長さくらいあった。


28人分ある。厚みにすると、そういう厚みになる。


途中に写真が何枚か挟まっていた。俺には見えない向きで、奥寺の指の下に伏せてある。


「順番に確認させてください。婚姻届の受理は先月の15日」


「そうだ」


「祝言は昨夜。新堂家の本家で、ご親族が泊まり込みで集まっていた」


「山の中だ。雪が降れば帰れない。最初からそういう集まりだった」


祝言といっても、神社も写真屋も呼んでいない。


座敷に親族が並んで、料理と酒が出る。それだけの集まりだ。


畳は古く、人が集まると縁のあたりから埃の匂いが立った。


「費用は奥さんが出されている」


「鈴音が出すと言った。誰も断らなかった」


「お仕事は、受験指導の」


「オンラインの事業だ。大学に通いながら法人にした」


「ご親族への援助も、奥さんから」


「親も兄も、金の話をするときだけ電話をよこす」


奥寺は書かずに聞いている。


こちらが黙るのを待つ種類の沈黙ではない。手元の紙と俺の言葉を、並べて見ている。


別の紙が出てきた。表に、鑑定の速報と印字がある。


「検出されているものをお伝えします。速報の段階です」


「聞く」


「有機リン系の農薬。処方薬の睡眠薬。それから、座敷の練炭による一酸化炭素」


「三つか」


「全員分の鑑定はこれからです。亡くなった方ごとに、原因の重なり方が違います」


農薬は本家の納屋に元からある。睡眠薬は病院から出る。


練炭は冬の座敷にある。


どれも、あの家にあって不自然なものではない。


三つ、と口の中でもう一度言ってみる。


数え上げてしまうと、自分の持ち札を読み上げているように聞こえる。


「昨夜あの家にいたのは、ご夫婦を含めて30人ですね」


「30人だ」


「28人が亡くなった」


「そうだ」


俺は紙コップのつぶれた縁を指で押した。


押した形のまま、戻らない。


昨日の夜、この指は祝言の席で酒を注いでいた。相手の名前は、もう全員分は思い出せない。


「辻本さん。あなたがやったんですか」


「俺がやった」


「28人全員を」


「全員だ」


奥寺のペンが、そこで初めて動いた。


    *


「動機を聞かせてください」


俺は答えなかった。


壁の時計の秒針が二周する。


この部屋には窓がない。外がもう明るいのか、まだ夜なのか、俺には見当がつかなかった。


この質問は、頭の中で何度も受けてきた。答える言葉も用意してある。


用意しすぎていて、どれも口の中で乾いている。


奥寺は待った。待つことに慣れた人間の待ち方だった。


「復讐だ」


「誰に対する復讐ですか」


また黙る。


奥寺の横の男が、耐えかねたように身を乗り出した。


「結婚に反対されたと聞いています。それで28人ですか」


「調書に、前職が載っているだろう」


紙をめくる音。


「……大手のIT企業に十年。退職されて、教員採用試験に合格。公立中学校の数学の先生ですね」


「母が死んだ年に辞めた。妻と娘を連れて、地元に帰った」


「採用の一年目に、告発を受けています」


「十年前だ」


十年前、と口に出す。その三文字で、部屋の何人かが座り方を変えた。


「はい」


「誰か、あの事件を覚えているか」


部屋の誰も答えない。


奥寺の手元で、ページが一枚だけ持ち上がって落ちた。


若い警察官がボールペンを持ち直し、持ち直しただけで何も書かなかった。


「新聞は『わいせつ教師』と書いた。名前は伏せてあったが、町では三日で回った」


「辻本さん」


「十年経っても、検索すれば出てくる。俺の名前じゃない。学校の名前でな」


若い警察官が奥寺の横顔を見た。奥寺は見返さなかった。


奥寺が、書類の上で指を組んだ。


「その事件で、俺を告発した子どもがいる」


俺は紙コップから指を離した。


「新堂鈴音(しんどうすずね)。いま病院にいる、俺の妻だ」

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