沈んだ心と甘いパン
起きたイルイラを部屋の外に出し、今は部屋にジルカ一人。湿ったベッドにもかまわず寝転びながら、日も落ちたというのに照明も点けず、窓の外に浮かぶ月を見ている。はたして、ジルカが見ているものは本当に月なのか。
「九年前、一人の皇姫が海難事故で行方不明になっていた、か」
メイランから聞かされた話で、セルミナがセラに間違いないだろうと確信する。名前を偽っていたのは、見知らぬ土地で皇族とバレるリスクを下げるため。髪の色も同じ理由で、魔法かなにかで変えていたと考えれば辻褄は合う。
「俺の名前を知ってたってのが、なによりの証拠だよな……」
ゲンシンという名を知っていた。サリア大陸にきてから、一度も口にしていない名前を。それに、ロージという名前も。
「ロージさん、死んじゃったのか……」
イルイラから聞かされたセルミナの執事の話は、セルミナの正体に劣らず、ジルカにショックを与えていた。
ロージはヤオズ島の住民を怖がらず、飄々とし、常に笑顔で、セルミナだけではなくジルカにも優しく接してくれた。命の恩人であり、そして、騎士にはなにが必要かを教えてくれた人物。
サキからもロージを頼れと言われていた。なのに、頼る相手はとっくにこの世を去っている。自分の不甲斐なさを謝ることもできない。
「……しかたないよな。俺も、セラも、探すのをやめちゃってたんだから」
もし、ロージが死んでいなかったら。もし、二年前の予選会場が一緒であれば。もし、森でセルミナとセラを重ねてしまったときに聞いていたら。どちらかでも、探すことを諦めていなければ。
しかたがないのだと頭でわかっていても、どうしても考えてしまう。
『ジル兄ーー! いい加減でてくるのー!』
鍵をかけた部屋の外から聞こえてくるルイシャの声を、枕で耳を塞ぎ遮断する。それでも聞こえてくる声を無視し、しばらくすると静かになる。
一人にして欲しかった。二年近くなにもなかったというのに、短期間に色々とありすぎた。なにがあったのかと聞かれても、答える気になれない。そんな心の余裕がない。
「わけがわからないよ、サキ姉……」
窓から覗く月は、いくら見ようとなにも答えず佇むばかり。答えなどどこにもない。今という結果だけが全てであり、過去に戻ることはできないのだから。
「……なんだろうあれ、女の人?」
月のなかに女性が見える。ゆらゆらと揺れる女性の姿に、気が狂ったのかと自分の精神の弱さをジルカは笑う。
「もしかしてサキ姉かな? いや、違う。違うな。サキ姉はもっとこう……月にいるわけないよな?」
彗星のようにゆっくりと動く人影。サキが住んでいるのは島だ。月ではない。そんな当たり前のことに気付けるくらいには正気を保っている。なのに、ジルカの目にはいまだに女性が映っている。
「おいおい……アイツなにしてんだ」
幻覚ではない、本当にいる。月を背景に両腕が翼になっている少女の姿が、徐々に、そして一定の速度で近づいてきている。
「――――ぴゃぁぁぁぁぁぁあああああッ!?」
「おいおいおいおい!」
速度を弛めぬまま突っ込んでくる闖入者を見て、慌てて起き上がり窓を開ける。大きく窓を開いた途端、部屋に飛び込んできたイルイラは部屋のモノを巻き込みながら、ゴロゴロと床を転がる。
「あ゛ーーーー……」
部屋の惨状に、ジルカは疲れた声を上げる。またか、と。勝手に酒宴を開かれ荒らされたのを片付けたと思ったら、次はベッドを濡らされ、また部屋が荒れた。
「いたたたたた……」
「イルイラ、おまえバカだろ。もれなくバカだろ。窓に突っ込んでくるとかなに考えてんだバカ! 俺が窓を開けなかったら、怪我じゃすまなかったかもしれないんだぞバカ!」
「バカバカうるさいよぅ! 鳥目だから窓がよく見えなかったんだもん!」
「やっぱりバカだ」
「なによー! うるさいバーカ! ムラサキのバカバカバカ!」
「バカがバカとかどういうことだ、バカ!」
まるで幼い子供のような言い争い。口から出る悪口はせいぜい三つか四つ。二人は肩で呼吸をするまで、少ない語彙で互いを罵りあう。
「はぁ、はぁ……わかった、俺もバカでいい。バカ同士、ちょっと落ち着こう」
「やーい、バーカ! ハゲー! 小ヘビー! 認めたー!」
「小ヘビはやめろ小ヘビは! ほんっっっっっとに羽根ムシって食ってやろうかな……」
だが生憎と、ジルカは食人趣向など持ち合わせていない。文句を奥歯で噛み潰し、我慢する。
「で、なにしにきたんだよ。慰めにでもきたのか? いらないからとっとと出ていけ」
『そしたら今度はルイシャが突撃するの!』
『こらルイシャ! 静かになさい!』
「……だってよ?」
部屋の扉を指していたジルカの指が、へにょりと曲がる。静かになったのは部屋から離れたわけではなく、期を伺っていたからか。
「メイランさんまで……じゃあ窓から出ていけ。窓から」
「やだ。暗いからもう飛びたくない。それに、慰めにきたんじゃないもん。はいこれ! 焼きたてだよ!」
イルイラが腰のポーチから出してきたのは、昼に作っていたパンだった。手渡されたパンは、じんわりと温かい。
「……このために?」
「うん! お腹が減ってると、元気がなくなっちゃうから」
「元気……元気ね……」
確かにそうだ、とジルカはベッドの端に座り、長い溜息を吐く。
「もう怒るのも疲れた……」
イルイラの相手をする気力も、怒る元気も残っていない。
「ね、ね! 早く食べて!」
「食べごろは三日後じゃなかったっけ」
「焼きたてでも美味しいよ!」
「はいはい……」
言われるがまま、温かいパンを齧る。ドライフルーツの入ったパンは甘く、少しだけ入れられた酒の風味が口に広がる。もう数日寝かせれば味も生地に馴染み、さらに美味しくなるのだろう。
「元気でた?」
「さぁ、どうだろうね……」
それでも、もそもそとパンを食べ続ける。考えてみれば、朝からなにも食べていない。心が慰めを求めていなくとも、体は栄養を求めている。時々噛み切れない糸の様なモノが舌に障るが、腹痛くらいなら見逃してやると構わず飲み込む。
「……ムラサキ、ちょっとだけウソついた」
「なんだよ」
「心配した。セルミナ様のこと話したら、青い顔をもっと青くさせたから。そしたら、アタシを追い出して何時間も出てこないし」
「寝てただけかもしれないだろ。窓を開けなかったら酷いことになってたぞ?」
「でも、起きてた」
「おかげで真っ赤になった鳥を見なくて済んだよ。鳥が食えなくなるところだった」
せっかく鳥料理が美味しい店に間借りしているというのに、とジルカは食べる手を止めフンッと鼻を鳴らす。
「よかった。ちょっとだけ元気になったね」
「ちょっとだけな」
「なら……えいっ!」
イルイラはベッドに乗り、翼を大きく広げる。そして、ジルカを背後から翼で包み込んだ。
「……どう?」
「どうって……胸小さいな?」
背中に当たる膨らみは、まだまだ母性を感じるには程遠い。
『――(ガタガタッ!)』
『お母さん、しっかりするの! イル姉よりはあるの!』
無関係な部屋の外が騒がしくなる。ジルカはジルカで、イルイラの意図が掴めない。女の魅力で慰めてあげる、などと言われたら大爆笑しながら部屋から叩き出してしまうだろう。それでもある意味、元気にするという目的は果たせるが。
「えっち……これね、アタシのお母様がよくしてくれたの。元気になるおまじない。後ろにはアタシがいるよーって」
「いろんなおまじないがあるもんだ。一人じゃない……ってか?」
「そうだよ。それに、あったかいでしょ?」
「そりゃ、天然羽毛だからな」
体を包む翼の温もりが、背中に感じる体温が、心地よい。
「アタシでいいなら力になるよ? 話だけでもね」
「俺に恥の上塗りをしろと?」
「恥かは知らないけど……単純に気になるわけでもないでもあるのです」
「どっちだよ」
まぁいいか、とジルカは昔話をすることを簡単に決める。内容は自分の恥。年下の少女に抱きしめられ、慰められ、追加の恥など今さらでしかない。どうせなら、どんどん塗りたくってやろうと。
「昔、俺の住んでたとこに、セラって女の子がきたんだ」
幼い子供同士の約束に始まり、魔物に襲われたこと、騎士を目指して修行したこと、二年前の騎士選抜試合で失格になったこと、騎士になれないのだと自覚したことを。そして、セラがセルミナだったことも。適当に話せばいいと思って口を開いたが、気付けば長い時間話していたように感じてしまう。
「そっか……ムラサキは、怖いんだね」
「ああ、怖い。怖いよ。期待に答えられないのが怖い。俺はリリちゃんを助けにいけなかった。期待を背負って、失敗することが怖かったんだ」
失敗することを恐れるあまり、言い訳を並べ、期待を背負うことを拒んだ。期待を背負い失敗し、非難されることを恐れた。
「そんな俺が、セルミナに騎士になれるかも、なんて言われて調子に乗ったのがいけなかったんだよ」
「騎士になるのは諦めたの?」
「諦めたよ。キレイさっぱり……とはいかないけど」
未練はある。技量だけで言えば騎士になれるかもしれない。しかし、それでは意味がない。
「なら、次を考えなきゃね」
「神話の騎士になれるよ、とは言わないんだ」
「言ってもいいけど、責任なんて取れないもん」
慰めたいのか突き放したいのか、イルイラの物言いにジルカも思わず笑ってしまう。だが今は、それがありがたい。そんなことを言われても、ますます惨めになるだけ。
「ムラサキはまず、前を向かなきゃね。それで、やりたいことを見つけるの」
「やりたいこと……見つかるのかな。また、誰かに疑われるんじゃないかな」
「そしたら、『うるせー!』って叫べばいいんだよ。オマエは間違ってる、俺が正しいんだって。そしたら、アタシも一緒に叫んであげる」
イルイラの翼が、さらに強く、ジルカを包む。
「なにかあっても、アタシはムラサキを信じるよ。アタシの言ったことなら、アタシも責任が取れる。それに、ほら」
『ルイシャもなのー!』
『わ、わたしもですよ!』
また部屋の外から声が聞こえてくる。プライベートなどあったものではない。
「ね? きっとセルミナ様も信じてくれるよ。たぶん天敵も」
「……だといいけど」
二年間刺さり続けた棘はトラウマとなり、今も心を苦しめている。信じると言われても、そう簡単には信じられない。それでも、背中と胸に感じる温かさに、少しだけ痛みが軽くなった気がした。
「……話し疲れた。寝る」
「ちょっと、ムラサキ重いよ!」
ジルカはイルイラに体重を預け、もたれかかる。ベッドはいまだに湿っている。自ら温かい布団と羽毛布団になりにやってきたと思えば、これほど寝心地がいい寝具はない。重い重いとうるさいが、それはご愛嬌と割り切る。
(イルイラの声は嫌いじゃないし。さて、俺のやりたいことはなんだろうな……)
考える。騎士になる以外に、やりたいことがあるのか。便利屋は成り行きでなったもの。嫌いではないが、やりたいこととは少し違う位置にある。
(まだ、わかんないや)
目指すべき先はいくら考えても見えてこない。前を向くなど、考えてみれば二年ぶりかもしれない。この二年間は後ろを向きながら停滞していただけ。だが、年下の少女に発破をかけられてしまった。
一人で部屋にいては、先のことを考えることはなかったろう。イルイラと、『なにしてるのなにしてるの!』『ルイシャ、マスターキー持ってきて!』などとまた騒がしくなった家主親子に感謝する。
(まっ、なるようになれだ。とりあえず、セルミナに謝らなくちゃな)
八つ当たりをしてしまった。それは完全にジルカの失態。
「ねぇ、ムラサキ」
「んー……なんだ布団」
「ぶぅー! あのね、セルミナ様は、なんで自分のせいだって泣いたのかな」
「……さて、ね」
自分のせいだとセルミナが泣いた理由――その本当の理由をジルカが知るのは、もう少し先のことになる。




