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傀儡の夜明け —怪物の狭間に生きた「影将軍」足利義栄—  作者: 細川 雅堂
第五部 輪廻

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第五話 輪

勝瑞城の寝所に流れていた深い静寂は、いつしか、どこまでも透き通った、境界のない光の海へと溶け込んでいった。


気がつけば、彼は立っていた。


そこは、見渡す限りの地平線へと続く、真っ直ぐな一本の「道」の上であった。


纏っているのは、朝廷の権威によって磨き上げられたきらびやかな直衣でも、泥に塗れた阿波の粗末な衣服でもない。何の飾り気もない、ただ真っ白な、軽い衣が風に揺れている。


辺りを見回しても、そこには何もなかった。

天下の覇権を巡って男たちが血を流し合った畿内の戦場も、自らの言葉で繋ぎ止めようとした三好三人衆の姿も、松永久秀が選んだ修羅の闇も、織田信長が乱世を焼き尽くした苛烈な焔も、ここには一切存在しない。誰かが彼の帰りを待っている気配すらなかった。


歴史の記録からも、人々の記憶からも完全に放逐された、絶対的な「空」の世界。

だが、義栄の胸を満たしていたのは、かつて阿波の草庵で震えていたあの底知れぬ孤独ではなかった。何一つ持っていないからこそ、どこへでも行けるという、無限の静けさと全能感に似た安堵が、彼の魂を優しく包み込んでいた。


(ああ……私は、ようやく自由になったのだな)


義栄は、ゆっくりと前を向いた。

行く先は示されていない。目指すべき京の都も、守るべき足利の看板もそこにはない。それでも、彼は迷うことなく、自らの足で一歩を踏み出し、また歩き始めた。歴史を振り返ることは、もう二度となかった。


その終わりのない道の途中で、彼は時折、すれ違う人々の姿を見た。


それは、かつて阿波の泥道で触れ合った炭焼きの老人であったり、飢えに震えていた浮浪の民であったり、あるいは、これから先の遥かなる未来において、それぞれの孤独と戦いながら生きていく、見知らぬ誰かの魂であったかもしれない。


誰かが道端でつまずき、荷物を落として途方に暮れていれば、義栄はごく自然に歩み寄り、その荷物を拾い上げて手を貸した。誰かが暗闇のなかで寂しさに震えていれば、そっとその傍らに座り、微笑みながら声をかけた。


そこに、「将軍として必要とされたい」という、かつての歪んだ渇望――色欲の飢えはもうどこにもなかった。繋ぎ止めるための器も、見返りを求める心もない。ただ、目の前にいるから、その存在が愛おしいから、彼は微笑み、その手をそっと伸ばすのだ。


別れはすぐに訪れ、手は離れ、人々はそれぞれの方向へと去っていく。だが、義栄はもう寂しさに胸を引き裂かれることはなかった。離れていく背中を、ただ温かい眼差しで見送ると、ふたたび自らの足を前へと進める。


その時、かつて飯盛山城の暗がりで聞いた、あの低く重い老天下人の言葉が、遠い木霊のように響いてきた。


『持つとは、時を留めようとして失うことだ』

三好長慶が、すべてを持った男として辿り着いた、人生の悲哀。


その言葉の真意を、自らの傷だらけの歩みを経て完全に理解した今、義栄は誰に伝えるでもなく、自らの未来へ向かって、静かに、しかし確かな答えを返した。


「持つとは、失う覚悟を持つこと」


そして、彼の唇には、これまでのどんな瞬間よりも深く、穏やかな、永遠の微笑みが浮かんでいた。


「求めるとは、明日も手を伸ばすことだ」


二人の天下人は、同じ場所には立たない。

長慶は「持った者」として人生を終わらせ、義栄は「持てなかった者」として、終わりのない人生の出発点に立っている。しかし、その二人の思想の軌跡は、この果てなき一本の道の上で、一つの美しい円環を結んで静かにつながり合っていた。


何度すべてを失おうとも、どれほど傷つき、拒絶されようとも、人間は明日もなお、誰かを求めて手を伸ばし続ける。それこそが、生きていくということの本当の意味であり、誰にも奪うことのできない、魂の救済なのだ。


義栄の背中が、どこまでも続く一本道の向こうへと、次第に小さくなっていく。


歴史の勝者たちの記録には決して残らぬ「影の将軍」の旅路は、ただ求め続ける人間の、最も純粋な光のなかに溶け込みながら、永遠の輪廻の底流へと、どこまでも、どこまでも続いていくのであった。

『傀儡の夜明け』全編完結にあたって


『傀儡の夜明け — 怪物の狭間に生きた「影将軍」足利義栄 —』、ついに完結いたしました!

最後まで義栄たちの歩みを見守り、寄り添ってくださった読者の皆様に、心からの感謝を申し上げます。


歴史の勝者たちの記録からは追いやられ、注釈のような数行で処理されてしまった「足利義栄」という一人の青年。


何も持てず、誰からも顧みられず、どれほど傷つき拒絶されようとも、泥の中で名もなき人々の手を握り続けた彼の生き様。彼が最後に見出した「持つとは、失う覚悟を持つこと」「求めるとは、明日も手を伸ばすことだ」という答えが、少しでも皆様の心に温かい灯火として残ったなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。


歴史の闇の中に消えた人々にも、確かに息づく「温度」があったこと。それを一人でも多くの方へ届けるために、私はこれからも物語を紡いでまいります。


背中を押してくださったすべての皆様、本当にありがとうございました!


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