幻月蝶
ガタン、電車が大きく揺れた。
どうやら私は眠ってしまったみたい。
「あ、ここだ! やば!」
慌てて立ち上がりダッシュで電車を降りる。
「ふぅぅ、寝過ごすところだった……疲れるのかな」
両手を膝について前屈みで呼吸を整える。
視線を感じた。見上げると、背広を着たサラリーマン風の男が立っていた。
「なにか!? 用でもあるんですか?」
「えーと、特に用事はないけど……」
「なら、さっさっと行ってくださいな。はいお帰りはあちら!」
威嚇的な言葉に男が躊躇しながら、何か言いたげだった。
「でも……さあ」
「あ~~だから向こうに行って! 邪魔だから!」
「分かったもう行くよ。でも……君はなんで泣いているの?」
「え!?」
自分の頬に触れた時、溢れる涙を指先に感じて驚いた。
「なんで? なんで私、大泣きしてるの?」
「それじゃあ、俺、行くね」
自分の涙のわけに首を傾げると、男は背を向けて歩き出した。
原因が分からない涙、もう一つ奇妙なことに気が付いた。
「今の男の人も……泣いていた?」
改札へ向かう男は階段を上りながら、右手で両目の辺りを擦っていた。
原因不明の涙が止まるのを待ってから駅の改札を出て、待ち合わせ場所に向かった。
「おせーーぞ! こら、冷酷な女の子と書いて怜子、おまえはいつもそうなの!」
やれやれ、夏美はまたご機嫌のようだ。
「だいたい、いつもあんたは、私は男になんて興味ありません~~とか、こんな仕事簡単です~~とか、可愛いくないんだよ~~」
また男に振られたのか、それとも会社で嫌なことがあったのか……
とにかく大酔っ払いになっている夏美に呼ばれ、私はこの知らない街まで夏美を迎えに来た。
「はい、はい。冷酷で恋愛に興味がない、つまらない女が迎えに来ましたよ」
道端に座り込む夏美を抱き起こし、タクシーを捕まえる為に移動する。
「こらぁあ、冷酷な女~~おまえはなんでこの夏美様と一緒におるのじゃあ~~」
「あんたが呼んだからでしょう?……まあ、一応友達だしね」
「そうかぁぁ……ぐーー」
「うぁあ、寝たよこの人! タクシー! お、重い……夏美、しっかりしなさいよ。そんな短いスカートでそんなに足を開いたら見えるって」
向こうから走ってくるタクシーを見つけた。深夜の人通りの少ない道。これは幸運と言っていいだろう。
「おお、助かった」
大タコ、絡む夏美に苦戦しながら、私は右手をあげる。
「夏美、タクシー捕まえたよ……あれ?」
またも頬を伝わる涙の感触に驚いた。
「まただ……今日はどうしたんだろ? 悲しい事なんて何ににも無いのに」
後ろからギュッと夏美が私を抱きしめた。
「ごめん。怜子」
「痛たた。いきなり力込めないでよ。こんなの謝るうちに入らないでしょ? いつもの事じゃない」
「うん……でも、ごめん、怜子。本当は行かせてあげたかった。でもね、リングを壊す事はできないの。これでリングは廻り始める。別れたリングは各々の時間を進み始める……そして新しい物語が始まるの」
酔っ払いの話だから意味がさっぱり分からない。
「リング? 婚約解消でもされた夏美?」
「ふぁああ、ぐーぐー」
「こらぁあ! 寝るな、夏美! タクシー早く来て!」
近づいてきたタクシー。
懸命に右手を挙げる私の手前で急に止まった。
私よりも前で手を挙げた男のところでタクシーが止まってしまった。
「なぬ? あのやろう、こっちが先だあああ!」
夏美を放り出し、長めのスカートをまくり上げ必死の形相で走った。
タクシーに乗り込む男。ほとんど閉まっているタクシーのドアを、無理やり手で引き戻して一気に開くと、腰に手をあててタクシーの中の男に文句を言う。
「あんたね! こっちが先に手を挙げたのよ! それに見なさい! か弱い女性が深夜に二人。しかも一人はタコなのよ! 分かる。大タコよ! 軟体動物なの。歩いて帰れないの。このタクシーを逃したら、次はいつくるか分からないじゃないの!」
一気にまくし立てられた男は反応に困っていたが、折中案を出してきた。
「それでは、三人で一緒にどうかな? 順番に降ろしてもらって……」
「しょうがないわね。タコを放置出来ないし。あ、当然タクシー代は全部、あんたが持ってくれるよね?」
「あんた……分かりました。俺が送っていくよ」
「最初からわかりやすくそう言いなさい。運転手さん、向こうの道ばたで溶けてるタコを拾って!」
男を奥に押し込んで、タクシーに乗り込む。
押し込まれた男は私を見て指を指す。
「あれ? あんた見たことがある?……ええっと、さっき電車降りた時に……そうだ! 泣いてた女の人!」
「ああ! あの時の……人の恥ずかしい姿を眺めていた奴だ!」
「奴って……まあ、いいか」
「運転手さん。ドアを開けて! あんたも手伝いなさいよ!」
「はいはい……なんで俺がこんな目に……」
失礼な男と一緒に、すっかり溶けている夏美をタクシーに乗せる。
窓から外を見ていた運転手がつぶやいた。
「今日は月が綺麗ですね。それに……なんか幻想的だね」
運転手の声で三人は空を見上げた。
そこにはリングのように霞の真円を描いた、大きく青く輝く月が見えていた。
「これは幻月!?」
失礼な男の初めて聞く幻月という単語。
けれど、不思議と違和感はなかった。
幻月の左右に映っていた二つの小さな光。
月に向かって飛んでいく蝶のように瞬いていた。
了




