16 憧憬
平原にて己の愛仗を構え、佇む少女。
いや、佇むというよりはかろうじて立っている、と表現した方が適切だろう。
その表情には、いつもの無邪気な少女としての笑顔はない。
存在するのは、諦観と決意。
矛盾しているはずのその二つの意志が、少女の中で成立していた。
常には柔らかで白い肌には裂傷が走り、金糸のような髪は汚れ、乱れている。
それが示すのは、少女を害する『敵』の存在であった。
少女は空を見上げる。
真っ青に晴れ上がった空。
しかしその空の一角を占領し、悠然と太陽を遮るその生物の名は――
「……竜」
幻想の生き物。
伝説の中の存在。
絶対者。
天蓋の生命。
ヒトでは敵わぬモノ。
空を悠々と飛び回るソレは、こちらをあざ笑うようにゆっくりと空を滑空する。
その気になれば優に音速を超える飛行速度を叩きだすその翼は、何一つ警戒を見せずに大きく広げられている。
その竜からしてみれば、おそらく少女の存在は羽虫と変わらない。
そこにいようがいまいが、竜の行動に抗うどころか、妨げることすらできない。
つまり、少女がここに佇む理由は存在しない。
逃げたとて追い付かれることは明白だが、それでもこうして、頭上をゆっくりと、餌を弄ぶように旋回する竜の姿を見つめているよりはずっとマシだ。
少なくとも、死を前に絶望する時間は少なくて済む。
しかし少女は動かない。
自分が逃げ、そうして竜が一息に自分を食べてしまえば、そのすぐ次の瞬間には竜は街へ向かうだろうということが否応なしに想像できるからだ。
弄ばれている。
今この瞬間、少女が食われたとて何の不思議もない。
そうならないのは、竜がその嗜虐の本能を満たそうとしているからだというただそれだけの理由に過ぎない。
けれども――少なくとも、こうしていることで時間をわずかに稼ぐことができるのならば、それは少女にとって何にも代えがたい価値だった。
おそらくこの、どんな攻撃によってか傷ついた体では、竜の攻撃を避けることすらできまい。
少女はせめてもの抵抗として、竜の巨体と比せばあまりに頼りない己の杖を構えて立つ。
それは少女の心が、目の前の死を理解してなお、折れてはいないということの意思表示だ。
竜の瞳がこちらを捕らえた。
無論、地上からわかるはずもないことだ。
しかし死を前に極限に研ぎ澄まされた少女の集中力は、自分に向けられた視線を確かに知覚した。
竜はだんだんと高度を下げる。
速度を上げるでもなく、吐息を吐くでもなく、悠々とした滑空で少女めがけ高度を下げる。
その行為に存在する竜の意志を、少女は感じとった。
――あの程度の存在、何を弄するまでもない。
――ただ、爪で小突いてやれば、それだけで容易く砕け散る。
少女はその瞳に涙が浮かぶのを抑えられなかった。
嫌だ――嫌だ、死にたくない。
夢がある。
憧れたものがある。
知り合いがいる、友達がいる、親友がいる、そして――好きな人ができた。
こんな、理不尽に。
竜の腹を満たすなんて、そんなくだらない理由で死にたくない。
少女は、竜を前にして生き延びることなどできないと理解していた。
希望などない。
既に少女は絶望している。
数秒後の己の死を知っている。
けれども少女は、絶望を受け入れながらもなお、その思いを捨てられない。
いやむしろだんだんと、その想いは密度を増してゆく。
それはきっと、喚きに過ぎない。
みっともないし、みじめだろう。
具体的な方策もなく、死を超える精神力もなく、希望すらもない。
しかしそれでも、少女は諦められないのだ。
――生きたい、と。
少女は恐怖に震えながらも瞳に決然とした想いを乗せ、己の腕を突き出した。
想い人から渡された、己の武器。
魔杖は狙い過たず少女の眼前数十センチに途方もない高速で迫る竜の爪に突き出され、カルーア・アレキサンドライトは竜の一撃をその身に受けた。
――場面は少々巻き戻る。
カルーアは二日ぶりの狩りに、勇んで大門をくぐった。
「おはようカルちゃん。気を付けろよ!」
「しっかりな!」
「あはは、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて門をくぐる。
着慣れた軽鎧に、ハイガからもらった魔杖・カドゥケウス。
二日間の期せぬ休日のおかげで体調は万全。
足取りは軽く、しかし適度に緊張感をもって。
カルーアは一人、無人の野を行く。
(……やっぱり、いないなー)
魔獣が極端に減少し始めたのは一か月ほど前からで、その影響が顕著になり始めたのは一週間ほど前から。
魔術師同士で狩場の争いが起きるほど、魔獣はその数を減らしていた。
原因は不明。
季節ごとに魔獣の数が増減するというのはもちろんあることなのだが、今は魔獣の減る季節でもない。
むしろ、例年ならば魔獣が増えだし、平原を闊歩しだす時期であるはずなのだ。
もっとも魔術師たちも減った魔獣を我先に駆り出すほどあさましいわけではなく、ローテーションで狩りに出ることはすぐに決まった。
辺境の街で人の出入りの少ないギルドのこと、一人勝手な真似をして魔術師の中でつまはじきにあってしまえば、到底やっていくことはできない。
どの魔術師たちもそのことをわかっているために、ローテーションを決めるのはスムーズに終わった。-
カルーアはその中で、幾人かに一緒に狩りに出ようと誘われたが、断っていた。
確かに何人かでともに狩りに出れば、効率は犠牲になっても安全性は上がる。
しかし困ったことに、彼らと共に狩りに出た場合、彼らはカルーアに戦わせてくれないのだ。
自分が女の子である、ということがその原因だとカルーアにはわかりきっていた。
魔術師の本懐は戦闘である。
少なくともカルーアの憧れる魔術師というのは、屈強な己の肉体と鍛え上げた技術を頼りに武勇を築く存在なのだ。
断じて、守られた姫プレイをする存在ではない。
そんなわけでカルーアはいつも一人で狩りに出かける。
「Grrrrrr……」
と、カルーアは魔獣のかすかなうなり声を捕らえる。
グラスウルフ。はぐれだ。
グラスウルフという魔物の恐ろしさは連携にあり、一匹である場合にはその脅威度は格段に下がる。
はぐれグラスウルフは一匹では森で生き抜けない故に森を追われ、街の近辺に居を構えるのである。
このはぐれグラスウルフというのは、かつてのカルーアの認識ではやや強敵、という部類に属していた。
完全に立ち回れば無傷での勝利が可能、そうでなくとも死にはしない……そのレベルの相手だ、と少し前のカルーアならばそう思っていただろう。
カルーアはグラスウルフに見つけられたのではなく見つけたというアドバンテージを生かし、気配を消して回り込む。
そして背後からカドゥケウスで一突き。
あっけなかった。
ただの一撃でグラスウルフは絶命する。
カルーアはグラスウルフの討伐証明となる犬歯を引き抜き、感嘆のため息をつく。
「やっぱりすごいなー、この武器……」
ハイガの手で作成されたこの『カドゥケウス』には、三十五段工程の魔術陣が刻まれている。
ハイガの当初の想定では、この魔道具は衝撃の発生と伝播というたったの二段工程で構成されていたのだが、実験は盛大に失敗。
『人間に扱える』という、よくよく考えれば当然の要素を強く重視して作成され贈られたのが、この『カドゥケウス』である。
その性能は見事の一言。
杖そのものに強化が施されており、重量は変わらないながらその強度はただの鉄の棒とは比較にならない。
衝撃を発生させるというギミックも、より細分化された工程を挟むことで使用者に必要以上の反動を与えないように配慮。
そして素晴らしいのは、その発動方法である。
当初の予定では【衝】をキーワードとして起術する予定であったが、変更。
不意打ちや連打においてわざわざ【衝】と口に出すのはどう考えても不合理な上面倒くさい。
事象観測能力を杖自体に持たせることで、起術することを念じるだけで魔道具として使用できるようになったのは、明らかな改良だろう。
総合的に見れば、この世界で一二を争う武器であることに間違いない。
魔道具などこの世界には数えるほどしか存在せず、更にハイガも三十五段工程というこの七面倒くさいシロモノを、量産して売り物として作ってみようなどという気力は湧かなかったからである。
そして戦闘における欠点を補う武器であるという点で、カルーアにとってはこの杖は何にも代えがたい武装であった。
カルーアのもともとの弱点とは、圧倒的に筋量が足りないことによる打撃力の不足だったのだ。
筋量が少ない場合、身体強化魔術により非常な高速度は得られるが、しかし力は筋量に正比例する。
魔獣の速度に追い付けても倒せないという点で、カルーアは魔術師としてどこまでも未熟であった。
しかしこのカドゥケウスがあれば話は別だ。
過剰な力は必要ない。
杖自体が破壊力を持っているのだから、必要となるものはスピードと、杖を十二分に扱う技術のその二つに絞られる。
カルーアは前者を十分に備え、後者も日々の猛鍛錬により急速に習得しつつある。
今の時点でカルーアは自覚していないものの、武装まで含めて評価すればフェール支部に所属する魔術師の中でカルーアよりも高い戦力を持つ魔術師などほんの一握りだ。
もちろん、武器を抜くと最低レベルだが。
今ならば、一か月前に死にかけたグラスウルフ二体など敵ですらない。
一匹ずつ、一撃で屠りされるのだから。
難点を挙げるとするならば、カルーアが杖と共に戦うのではなく、杖の力に頼り切るようになるという懸念だろうか。
これについては、この先カルーアがどうあろうとするかということが全てである。
もっとも、この時のカルーアの『この先』には、大きな暗雲がかかっていたのだが……。
絶望は、すぐそこに迫っていた。
「……ッ!」
轟音。衝撃。振動。閃光。
そう表現するほかない、何か。
カルーアは突然、前触れもなく吹き飛ばされ、地に体を打ち付けた。
「ぁっ……! ふぅっ……!」
肺から空気が全て吐き出される。
カルーアは前後左右の狂った感覚のなかで、必死に己の状況を確かめようとする。
ぬるり。
生暖かく、指先に伝う血液。
カルーアは自分が全身から血を流していることに気づく。
それを悟るとともに襲い来る痛み。
(……何が……!?)
カルーアを一時的な恐慌と疑問が埋め尽くす。
確かに、つい先ほどまで目の前には何もなかった。
だというのに突然、吹き飛ばされ、打ち付けられ、血を流し、とてつもない危機に瀕している。
前後左右を見回し、最後に上空を見上げたカルーアの視線に、ある飛行する生物が映りこむ。
(あれ、は……)
カルーアを苛む恐慌の理由が、原因が判明しないことから原因を理解したことへと変化を遂げる。
(まさ、か……!?)
空の澄み渡る青の中でなお輝く蒼。
高高度を飛び、なお存在感を失わない、一目でわかる巨体。
そして感じられる、尋常ならざる威圧。
――竜。
神話と伝説と恐怖の中で語られる、最強の生命体の名だった。
このネルヴァという世界には、『神域』というものが存在する。
その地域は『ネルヴァ』と称され、ヒトの立ち入ることを許されない領域だ。
道義的に、ではなく危険性の面で。
例えばそれはネルヴァ高山域であり、ネルヴァ深海溝であり、ネルヴァ凍雪原であり、そして――ネルヴァ大森林である。
一足踏み入れたところで死にはすまい。
二足踏み入れたところで生きては帰れよう。
しかし三足、四足、五足……足を踏み出していくごとに危険性は加速度的に上昇していき、ついにはそこは神話の領域となる。
――『神域』には、今も神が棲んでいる。
まことしやかに、しかし一種の恐怖を以って語り継がれる噂である。
そしてこの噂が真実味を増すのは、それぞれの領域には『竜』が息づいているからだ。
ネルヴァ高山域には白鱗竜が。
ネルヴァ深海溝には紅鱗竜が。
ネルヴァ凍雪原には黒鱗竜が。
そしてネルヴァ大森林には、蒼鱗竜が。
それぞれの竜はそれぞれに異なった性質を持つが、中でも大森林の蒼鱗竜といえば悪名高かった。
数百年に一度その目を覚まし、飢餓に堪えかねて魔獣を根こそぎ食い荒らしながら進撃し、そして腹が満ちると人類を蹂躙する。
腹が減ったから、ではなく。
そういう生き物であるから、とでも説明するほかない人類への軽蔑と敵意と嗜虐をその瞳に宿らせて、人類の無力さを知らしめようとでもするかのように、徹底的に人の領域を破壊しつくすのだ。
事実、フェールの街も六百年の昔にやはり蒼鱗竜に蹂躙され、滅びを迎えている。
数百年をかけて人類は営々とその地で繁栄を築き上げ、そしてその末に竜に叩き潰される。
これがネルヴァという世界で繰り返される歴史だ。
竜殺しという話が無いわけではない。
しかしそれは神話の世界の話であり、竜が人間にとって破滅の天災であるという事実はゆるぎない。
カルーアは絶句する。
(アレが蒼鱗竜なら……どうすることもできない……)
ふらふらと、魂が抜けた亡者のように立ち上がる。
(どうすればいいの……?)
カルーアにとれる選択肢はそう多くはなかった。
逃げるか、身を隠すか、立ち向かうか。
最も生存確率が高いのは間違いなく、身を隠すことである。
立ち向かうのは自殺行為であり、逃げても追いつかれてしまう。
竜にとって自分の存在は、数限りない羽虫の中の一匹に過ぎない。
わざわざ身をひそめようとする人間を執拗に追いつめるなど、竜はすまい。
無論、吐息により焼き尽くされるという結果がもたらされる可能性もまた高いと言えるが。
だがしかし、カルーアの体は動かない。
地に這いつくばって、必死に草むらに身を隠し、竜の視線から逃れる。
そうするべきであるし、カルーアの本能もまたそう告げていたが、カルーアの体はその行動をとろうとはしない。
(でも……)
ここで身を隠したところで、誰がカルーアを責めることもない。
この場にいるならば誰だってそうするし、そうしない者は自殺志願者だ。
きっと遠くからも竜の姿は発見できるのだろうから、カルーアよりも街に近い位置にいる魔術師は一目散に街に逃げ込み、警告を発するに違いない。
カルーアにできることは無い。
それでも、少女は立っている。
(でも……!)
脳裏に浮かぶもの。
それは、いままで自分をはぐくみ、そして今も根を張るフェールの街。
そして、自分を助けてくれた数限りない人の顔。
カルーア・アレキサンドライトは親を知らない。
物心つくころから魔術ギルドが預かっていて、魔術師たちは小さな女の子を育て、守り、世話をしてくれた。
街に出れば知り合いは増えて行き、カルーアは親を知らないことなど気にしないほど元気に、健やかに育った。
幼いころ――それこそ物心ついたころから、カルーアは魔術師を志すようになった。
その想いは、いまだなお一片も変質を遂げていない。
実のところ、その夢は自分を育ててくれた魔術師たちへの恩から生じるものではない。
憧憬――彼らの姿は、幼いカルーアの目には何よりも光り輝いて見えたのだ。
憧れたというただそれだけの、しかし絶対の理由。
彼らが語る冒険譚。
街の危機を救った英雄譚。
そして実際に目にする彼らの活躍。
それに、憧れた。
誇らしかった。
自分もああなりたいと思った。
(食い止める……!)
血に濡れた杖を握るカルーアの手に力が宿る。
(この先の、一秒間を……!)
誰も、カルーアのそんな行動など望まない。
カルーア自身、それを理解している。
自分が誰かから大切に思われていること。
自分が命を対価に街の為竜に立ちはだかっても、喜ぶ人など誰もいないこと。
それでも。
カルーアは、自分の憧れた魔術師という生き方を裏切れない。
蹲って、街が蹂躙される姿を遠くから眺めていることなど、できはしない――!
「――――――――――――――――――――――ッッッ!!!!」
カルーアは叫びを挙げる。
この少女の、いったいどこにそれだけの声量が隠されていたのかと疑うほどの音量。
あの竜の注意を惹け。挑発しろ。視線を街からそらさせろ。
もはや声ですらないカルーアの叫びは、遥か上空の竜にまで届いた。
――何か、喚く虫がいる。
――怯えてはいない。挑発だ。虫が、竜を挑発している。
――怯えさせてやろう。泣き叫ばそう。苦しむさまを見てやろう。
――無様な姿を、喰らってやろう……!
竜はカルーアの狙いの通りに、少女に嗜虐的な視線を向けた。
それは竜からは理解のしがたい姿である。
虫がわざわざ、食われようとしているような姿。
――虫が。
竜はゆっくりと、恐怖を煽るように少女の下へと旋回しながら高度を下げる。
少女は立っている。
触れれば崩れそうな弱弱しさで、しかし手に小さな棒を携えて。
その姿を成立させる『何か』を、竜は知らないし、理解しない。
理解しようともしない。
竜はどこまでも竜であり、力と破壊と傲慢の体現そのものだった。
――つまらない。
竜たる己の姿を見て尚、虫が堂々と姿をさらして、泣きわめくことなく、毅然と立つその姿。
竜にとってはなんの咸興も呼び起こさない、どうでもいいものだった。
少女への興味を失くし、ただ踏み潰すことを決める。
何も面白くない、時間を無駄にさせただけの虫だ。
喰らってやる意味すらない。この爪でひっかけて、そのままばらばらに砕け散るだろう。
竜は高度を下げ、その爪は確かに少女を捕らえ、激突した。
戦闘回だと思ったら戦闘なんてなかった
何を言ってるのかわからねーと思うが作者もわからない。
二か月ほど前にこの話を書いたときの記憶では確かに、この回は戦闘回だったんだ……




