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02.大地を歩いた人魚姫.end

停電は数分で復旧した。


元の白い灯りが戻る。

天井も、壁も、ベッドの柵も、さっきまでそこにあった暗さを何事もなかったみたいに押し流していく。


けれど、病室の中の空気だけは戻らなかった。


廊下の向こうで慌ただしい足音が重なる。

すぐに病室の扉が開き、看護師と職員が二人、確認のために入ってきた。


「失礼します、停電の影響は――」


言いかけた看護師が、ベッド脇の様子を見てはっきりと息を呑んだ。


「え……」


その反応は一瞬だったが、誤魔化しきれなかった。


ユウマは半ば立ち上がった姿勢のまま、少女の手首を支えていた。

少女はその服を掴んだまま、まだ呼吸を乱している。

非常灯が消えたあとも、怯えの名残は身体に残ったままだった。


「……目を、開けてる……?」


若い看護師が信じられないものを見る顔で近づく。

職員も思わず足を止め、ベッド上の患者名プレートと少女の顔を見比べた。


「マユさん?」


看護師がそっと呼びかける。


少女は反応しない。

代わりに、怯えた目でユウマを見た。


看護師の表情が一段階、真剣なものへ変わる。

すぐに職員へ振り返る。


「先生呼んで――いえ、待って、まずバイタル」


自分で言い直しながら、ベッド脇へしゃがみ込む。

脈を見て、瞳を見て、呼吸を確かめる。

手つきは慣れているのに、声だけが少し上ずっていた。


「聞こえますか? 分かりますか?」


少女は答えない。

ユウマの服を握る指だけが、さらに強くなる。


看護師はそこではじめて、目の前の異様さに別の意味で気づく。

何年も意識の戻らなかった患者が目を開けている。

なのに、自分ではなく、その横の男だけを見ている。


「……大丈夫ですか?」


その問いは、患者本人とユウマの両方へ向けられていた。


ユウマはその視線を受けて、ほんの一瞬だけ迷った。


違う。

この子はマユじゃない。

そう言わなきゃいけない気もした。


でも次の瞬間には、もう口が勝手に動いていた。


「……まだ、混乱してるみたいで」


看護師が困惑したように眉を寄せる。


「混乱、というか……」


言いかけて、看護師は少女に視線を戻す。


「お名前、分かりますか?」


少女の唇がゆっくり動く。


「……ミユキ」


看護師が目を見開く。


「え……?」


職員も思わず顔を上げた。


「もう一度、お願いします」


「ミユキ」


今度ははっきりしていた。


看護師はすぐにメモを取るでもなく、その場で数秒止まった。

現実の出来事として飲み込むまでに時間が必要だった。


「マユさん、ここがどこか分かりますか?」


少女は答えない。

ただ、ユウマを見る。


「ご家族のお名前は?」


少しだけ沈黙があって、それから。


「……ヒロト」


看護師は明らかに表情を変えた。

驚きと戸惑いと、どう扱うべきか分からない緊張が、全部その一瞬に出る。


だが次の瞬間には、医療者の顔へ戻ろうとした。


「……長期昏睡後の覚醒時に、見当識が混乱することは……あります」


半分は自分へ言い聞かせるみたいな声だった。


嘘だった。


だが、ここで本当のことを言えるはずがなかった。


何を言う。

海で拾った得体の知れないものを、意識不明の妹へ飲ませたら、見知らぬ少女が妹の体で目を覚ました。

そんなことを。


看護師はもう一度少女を見る。

それからユウマへ視線を戻した。


「この方が近くにいると落ち着くんですか?」


その質問には、明らかに警戒も混ざっていた。

ただの家族確認ではなく、状況把握のための問いだった。


「……はい」


ユウマは答える。


「少なくとも、今は」


看護師は迷ったように息を吐く。

医師をすぐ呼ぶべきか、刺激を避けるべきか、判断を揺らしている顔だった。


その時、ベッドの上の少女がぴくりと反応した。

ユウマの服の裾を、見えないようにそっと掴む。


看護師はその動きを見逃さなかった。


「……強い刺激は避けた方がよさそうですね」


そう言う声には、まだ驚きが残っている。


「先生にはすぐ報告します。そのうえで、付き添いの方がいた方が落ち着くなら、ひとまずこのまま――」


安心。


その言葉に、ベッドの上の少女がぴくりと反応した。


ユウマはその感触に気づきながら、目を逸らした。


「……俺がいます」


そう言ってから、自分でも少し遅れて意味を理解した。


俺がいます。


マユのためじゃない。

病院のためでもない。

目の前の“それ”を落ち着かせるための言葉だった。


看護師が出ていったあと、病室は静かになった。


少女はユウマを見上げる。

もう怯えの色は薄れていたが、手だけはまだユウマの服を掴んだままだった。


「……行かない?」


ひどく小さい声だった。


「行かない」


反射みたいに答えていた。


少女は、それを聞いてようやく息を吐いた。


翌朝、窓の外はよく晴れていた。


薄いカーテン越しに入る光が、病室の白い壁をやさしく照らしている。

昨夜の停電が嘘みたいだった。


ミユキは、その光をじっと見ていた。


眩しそうでもある。

でも、嫌ってはいない。

むしろ安心しているように見えた。


ユウマは椅子を引き寄せて座る。


「名前、ミユキって言うのか」


少女はゆっくり振り向いた。

少し迷ってから頷く。


「たぶん」


「たぶんって何だよ」


「分かんない。……でも、そう呼ばれてた気がする」


まだかすれた声だった。

眠りの深い底から、ようやく言葉を拾い上げているみたいな話し方だった。


「覚えてることは」


ユウマがそう聞くと、ミユキは少しだけ目を伏せた。


「暗かった」


最初に出てきたのは、その一言だった。


「すごく、暗くて……冷たくて」


指先がシーツを握る。


「ずっと、ひとりで」


その言葉に、ユウマの胸が嫌なふうに沈む。

海の底で抱きしめられた時、自分が感じたあの安心感の正体を、少しだけ見た気がした。


「街があった気もする」


ミユキは曖昧に続けた。


「沈んでるみたいな。……でも、よく分かんない」


「ヒロトは覚えてるのか」


そう聞いた途端、彼女の表情にわずかな色が戻った。


「待ってた」


それだけは迷わない声だった。


「来てくれるって思ってた」


ユウマは何も返せなかった。


ミユキはユウマの顔を見つめたあと、少しだけ首を傾げる。


「……でも、優しくなったね」


その言葉が、思った以上に深く刺さった。


「前は、もっと怖かった気がする」


そこまで言って、ミユキは自分の言葉に怯えたみたいに唇を閉じた。

記憶の断片に触れすぎると、壊れる。

その予感が表情に出ていた。


ユウマはそれ以上聞けなかった。


ただ、目の前の少女が確かに“誰か”を待っていたことだけが残る。


そして、その待たれていた相手は自分ではない。

それも、はっきりしていた。


なのに否定できない。


昨夜一度言えなかったことを、朝になっても言えなかった。


理由はいくつでも並べられる。


やっと目覚めたばかりだから。

まだ不安定だから。

ここで全部突き放したら、また壊れるかもしれないから。


でも本当は、それだけじゃないことをユウマ自身が一番よく知っていた。


彼女が、自分を必要としていたからだ。


数日で、奇妙な生活が形を持ち始めた。


病院はミユキを“混乱したマユ”として扱った。

目覚めたばかりの患者が記憶を取り違えることは、まったくありえない話ではない。

少なくとも、今起きている本当のことよりはずっと現実的だった。


ユウマはその曖昧さの中へ入り込んだ。


食事を運ぶ。

飲み物を用意する。

看護師の質問を横から補足する。

不安そうにしていれば隣へ行く。

夜に眠れないと言われれば椅子を引き寄せる。


最初は、それだけだった。


保護。

介助。

世話。


そこに、まだ名前のつく感情はなかった。

ただ、壊れそうなものを見張っている時間に近かった。


ミユキは、ひどく些細なことで安心した。


ユウマが水を渡すだけで、嬉しそうに両手で受け取る。

夜中、廊下で金属音がすれば、眠そうな目のままでもユウマの姿を探す。

カーテンの隙間から差し込む朝の光の中で、ユウマが椅子に座っているのを見ると、それだけで緊張を解いた。


その反応が、少しずつユウマを蝕んだ。


自分が必要とされている。


そう感じるたび、胸の奥に静かな安堵が広がる。


それが妹の体だという事実は、もちろん消えない。

消えないまま、別のものが上から重なってくる。


ここにいれば落ち着く。

自分がいれば、この子は少し楽になる。


その感覚が、ひどく甘かった。


ミユキは、水を見つめる癖があった。


コップに入った水。

洗面台の蛇口から流れる水。

点滴の落ちる雫。


ぼんやりと、いつまでも見ている。


「そんなに好きか」


そう聞くと、ミユキは真面目に考えてから言った。


「落ち着く」


「水で?」


「うん」


「変なやつ」


「変かな」


「変だろ」


ユウマがそう言うと、ミユキは少しだけ笑った。

本当に少しだけ。

でもその笑みは、ここ最近の彼女の中で一番自然だった。


そういう瞬間があるたび、ユウマは自分の足場がまた少し崩れていくのを感じた。


夜は危うかった。


暗さそのものを、ミユキは嫌った。

病室の照明が落ちると、目が覚める。

廊下でワゴンが鳴ると、肩が強張る。

一度停電があった日のことを、身体のどこかで覚え続けているみたいだった。


ある晩、消灯後しばらくして、別の病室から何かを運ぶ金属音が長く響いた。


がらがら、がしゃん。


ユウマが顔を上げた時には、もう遅かった。


ミユキはベッドの上で固まっていた。

目の焦点が合っていない。

喉がうまく動かないらしく、息だけが浅く速くなる。


「ミユキ」


呼んでも反応が薄い。


「大丈夫だ」


近づいた瞬間、彼女は弾かれたみたいに暴れた。


手が空を掻く。

シーツが乱れる。

爪がユウマの手の甲を引っ掻いた。

ベッド脇のコップが倒れ、水が床へ散る。


まるで追い詰められた動物だった。


「やだ、やだ、やだ……」


言葉とも鳴き声ともつかない声が漏れる。


ユウマは痛みも気にせず、その肩を抱き寄せた。

最初はさらに暴れた。

押し返すように腕が当たり、爪がまた食い込む。


それでも離さない。


「ここにいる」


何度も同じことを言った。


「大丈夫だ。ここにいる」


空疎な言葉だった。

でもそれしかなかった。


何度目かで、ようやくミユキの力が抜ける。

ユウマの服を握りしめたまま、しゃくりあげるように息をする。


「置いていかないで」


その声はひどく幼かった。


ユウマは答えられず、ただ背中を撫でた。


落ち着いたあと、ミユキは自分がつけた引っかき傷を見て青ざめた。


「ごめんなさい」


小さく、何度も繰り返す。


「嫌わないで」


「嫌ってない」


「ほんとに?」


「ほんとだ」


その言葉を聞いて、ミユキはまた泣きそうに笑った。


そのたびに、ユウマの中で何かが深く沈んでいく。


危険だと分かっている。

抱えきれないとも分かっている。

それでも、離すという選択肢だけがひどく残酷に見える。


守らなければ。


その思考はもう、優しさだけではなかった。


マユ本人の気配に気づいたのは、その少し後だった。


最初は、本当に小さな違和感だった。


ミユキが眠っている時にだけ、指先が別の意志で動く。

ユウマが手を握ると、わずかに振り払うような力が返る。

名前を呼ぶと、目を閉じたまま涙が一筋流れる。


ミユキではない反応だった。


ユウマはそれに気づいていた。

気づいていて、見ないふりをした。


認めた瞬間に全部が壊れると分かっていたからだ。

ミユキも。

自分も。


ある日の夕方、私物を整理していた時だった。


引き出しの奥から、小さな携帯電話が出てくる。


古い、折りたたみ式の機種だった。

薄いピンク色のボディは少しくすみ、角には細かな擦り傷がある。

今どき誰も使わない、数世代前の型だ。


見覚えがあった。


事故より前、マユがずっと使っていた携帯だった。

まだスマホじゃなくて、二つ折りの携帯が普通だった頃のもの。

兄妹でふざけて短い録音を残して、あとで聞いて笑ったこともある。

冷蔵庫に「プリン食べるな」とか、「先に寝る」とか、そんなくだらないやり取りを何度も残していた。


ユウマはそれを手の中でひっくり返した。


なんで今ここにある。


その違和感が、まず先に立った。


この携帯は、とっくに使えなくなっていたはずだった。

充電器だってどこにしまったか分からない。

そもそも、何年も前に電池は完全に切れていたはずだ。


なのに。


親指が、ほとんど反射みたいに開閉ボタンを押す。


ぱちり、と小さな音がして、携帯が開いた。


液晶がつく。


ユウマは息を止めた。


ありえない、と思った。


電池が入っている。

それだけでもおかしいのに、画面はそのままボイスメモの一覧画面で止まっていた。

しかも一番上にある録音データの日付が、つい最近のものだった。


ユウマの指先が冷える。


何を確認するためなのか自分でも分からないまま、そのデータを開いた。


少しのノイズのあと、声が流れた。


『……これ、聞くのが兄さんなら』


マユの声だった。


ユウマの指先が止まる。


『たぶん、私はまだちゃんと話せてないんだと思う』


息を整える、小さな音。

長く喋れないのが分かる声だった。


『まず、ありがとう』


そこでユウマの喉が詰まった。


『来てくれてたの、知ってる』


『毎日じゃなくても、来られる日に来てくれてたの、分かってる』


『声も聞こえてた。たまに、ちゃんと』


『海に行った話とか、大学の愚痴とか、今日は雨だったとか』


『ああ、兄さん、まだ来てくれてるんだなって思ってた』


短い沈黙。


『だから、ありがとう』


『兄さんは優しいです』


『それは本当』


『昔からたぶん、ずっと』


『誰かが困ってると放っておけないし、自分がやれば間に合うって思ったら止まれないし』


『そういうとこ、私は嫌いじゃなかった』


少しだけ息が揺れる。


『でも』


声が、そこで少し硬くなる。


『今、その子に向けてるものは、本当に優しさなの?』


ユウマは息を止めた。


『怖がってるから。可哀想だから。一人にしたくないから』


『そうやって言えば、兄さんの中では全部優しいことになるんだと思う』


『でも、それって本当にその子のため?』


『それとも、兄さんが耐えられないだけ?』


沈黙が入る。


『私は兄さんが苦しかったのも知ってる』


『一人なのも知ってる』


『私しかいないって思ってるのも、たぶん分かる』


『でも、だからって』


録音の中で、マユが息を吸う。


『私を使って、誰かを助けないで』


『私の体を、代わりにしないで』


『兄さんの優しさの形に、私を使わないで』


声が少し震える。


『返して』


『お願いだから』


『返して』


そこで録音は終わった。


病室は静かだった。

夕方の光がカーテンに沈み、機械音だけが規則正しく続く。


ユウマは開いたままのピンクの携帯を握りしめ、しばらく動けなかった。

マユは知っていた。

来ていたことも。

声が届いていたことも。

そして、自分の中の歪みも。


知られていて、それでも兄妹だった。


なのに今、自分は何をしている。


その夜、ミユキは妙に静かだった。


何かを感じ取ったのかもしれない。

あるいは、マユの中で何かが変わり始めていたのかもしれない。


ユウマが椅子へ座ると、ミユキがじっと見上げる。


「目、赤い」


唐突に言われ、ユウマは顔を逸らした。


「別に」


「うそ」


責める声ではなかった。

ただ、見つけてしまったものをそのまま言っただけの声だった。


「ヒロト、泣くんだね」


その名前が、今まで以上に重く響く。


ユウマはポケットの中の携帯電話に触れていた。

それに気づいたのか、ミユキの視線がそこへ落ちる。


「それ、なに?」


「……何でもない」


「見せて」


「駄目だ」


強く言いすぎた。


ミユキの肩がびくりと震える。


その直後、廊下の向こうでワゴンの金属音がした。


がしゃん。


一瞬で、ミユキの目が揺らぐ。


まずい、と思うより先に、ユウマはベッド脇へ寄っていた。


「大丈夫」


低い声で言う。


「俺がいる」


ミユキは呼吸を乱したまま、ユウマの顔を見つめる。

泣きそうで、でも安心したそうな目だった。


「……行かない?」


「行かない」


「ほんとに?」


「ほんとだ」


その言葉に、ミユキはようやく少し笑った。


その顔があまりにも近くて、ユウマは一瞬、何も考えられなくなる。


守っているつもりだった。

落ち着かせるつもりだった。

でも、そう言い聞かせるにはもう近すぎた。


ミユキはただ、縋るみたいにユウマを見ていた。

不安が消えきらないまま、それでもようやく見つけた拠り所に触れていたいみたいに。


二人とも、相手の中に自分の欠けたものを見ていた。


ユウマの手が、無意識にミユキの頬へ触れる。


彼女は拒まなかった。

ただ、少し目を閉じる。顔が近づく。


それが慰めではなく、保護でもなく、別の何かに変わった瞬間だった。


ベッドの上の身体が、びくりと強張る。


閉じかけた瞼が開く。

目の焦点が変わる。


そこにいたのは、ミユキではなかった。


マユだった。


明確な嫌悪が、まず目に出た。

次いで恐怖。

それから、自分の身体で何が起きているのか理解してしまった人間の硬直。


「ま、ゆ」


ユウマが名を呼ぶ。


マユは声にならない息を吐き、次の瞬間、強くユウマを押し返した。


力は弱い。

でも意味は充分すぎるほど伝わる。


「触らないで」


掠れた声だった。

その一言が、病室の空気を完全に変えた。


マユの目に涙が滲む。

その顔がまた揺らぎ、ミユキが前に出る。


しかしもう、何も知らなかった時の表情には戻れなかった。


「……いまの」


ミユキの声は小さかった。


「いまの、だれ」


ユウマは答えられない。


ミユキの視線が携帯電話へ落ちる。


「それ、なんなの?」


沈黙が答えだった。


「……聞かせて」


拒めなかった。


録音を再生する。

マユの声が、静かな病室へもう一度流れた。


ありがとう。

兄さんは優しい。

でもそれは本当に優しさなの?

私を使って誰かを助けないで。

返して。


最後まで聞き終えたあと、ミユキはしばらく動かなかった。


それから、ひどくゆっくりとユウマを見る。


「……知ってたの」


責めるというより、穴の空いた声だった。


「最初から」


ユウマはうなずくこともできなかった。

否定もできない。


ミユキの目に涙が溜まる。


「私、少し分かってた」


唇が震える。


「だって、ちがったもん」


乾いた笑いが漏れる。

壊れた音だった。


「ヒロト、こんなに優しくない」


その一言が、ユウマの胸へ深く沈む。


「怖い時は、もっと怖かった」


「嫌だって言っても、やめなかった」


ミユキは顔を伏せる。


「でも、あなたは優しかったから」


「変わったんだって、思いたかった」


ユウマはもう言い訳の形すら作れなかった。


「私も、酷い」


ミユキが呟く。


「分かってたのに、優しい方へ逃げた」


両手でシーツを握りしめる。


「この人の体を使ってまで」


ベッドの上の身体がわずかに震える。

マユとミユキの境目が、痛みとしてしか存在していないのが分かる。


ユウマはやっと声を出した。


「最初は、ただ落ち着かせたかった」


薄っぺらい言葉だと自分でも分かった。


「怯えてたから。壊したくなくて」


ミユキは笑わなかった。

泣きもしなかった。

ただ見ていた。


ユウマはその視線から逃げられず、続けるしかなかった。


「でも、それだけじゃなくなった」


喉が痛い。


「必要とされるのが、嬉しかった」


その瞬間、自分の中で一番醜い部分が空気に触れた気がした。


「マユも、お前も、助けたかったのは本当だ」


「……助ける?」


ミユキが聞き返す。


静かな声だった。

だから余計に痛い。


「これが?」


ユウマは答えられない。


そこへ、もう一つの声が重なる。


「……兄さん」


今度は、はっきりマユの声だった。


瞳の色が変わる。

もう一瞬の拒絶ではない。

もっと静かで、もっと深い目だった。


マユはすぐには喋らなかった。


ただ、ユウマの顔を見ていた。

ひどく傷ついた目で。

今やっと意識が浮かび上がったばかりなのに、もう見たくないものを見てしまった人間の目だった。


ユウマの喉が詰まる。


「……兄さん」


掠れた声だった。

その呼びかけだけで、胸の奥が嫌なふうに縮む。


マユの唇が、かすかに震える。


「私の体を通して」


そこで一度、息が途切れる。

それでも目だけは逸れなかった。


「……誰を見てたの?」


ユウマは言葉を失う。


マユの目に涙が浮かぶ。


「私じゃなかったよね」


静かな声だった。

怒鳴りもしない。

責め立てもしない。


だからこそ、逃げ場がなかった。


「そこにいるのが私でも」


「兄さんが見てたの、私じゃなかった」


ユウマは立ち尽くすしかない。


「兄さんが助けたかったの、もう私じゃなかった」


声は小さいのに、妙にはっきりしていた。


「そこが、いちばん苦しかった」


その言葉で、ユウマの中に残っていた言い訳が全部崩れた。

病室に長い沈黙が落ちる。


やがて、ミユキが息を吐いた。


諦める時の息に似ていた。


「……帰る」


ユウマが顔を上げる。


「ミユキ」


「もう、分かったから」


その声は不思議なくらい穏やかだった。


「ここにいたらだめ」


「待て」


「だって、わたし、もう死んでる」


その言葉を、彼女は初めて自分で認めた。


「死んでるのに、一人がいやで、この人の体にいた」


涙が頬を伝う。


「あなたは優しかった」


ユウマは何も言えない。


「でも、その優しさは、この人を傷つける優しさだった」


ミユキはふらつきながらベッドから足を下ろす。


「わたしも、それに甘えた」


「だから」


そこで一度言葉を切る。


「終わりにする」


病院を出たのは、夜明け前だった。


どうやってそこまで来たのか、細かい流れは曖昧だ。

気づけば、ユウマは海へ向かうミユキのあとを追っていた。

止める資格もないのに、追わずにもいられなかった。


人気のない海岸。

夜と朝の境目みたいな薄い色の空。

風は冷たく、波は静かだった。


ミユキは波打ち際で立ち止まる。


マユの身体を借りたその背中は、驚くほど細かった。


ユウマも少し後ろで止まる。


もう追いすがることも、腕を掴むこともできない。


ミユキが振り返る。


目は赤い。

泣きそうなのに、それでも笑おうとしている。


波が寄せる音がする。


「まるで人魚姫になった気分だった」


掠れた声で言う。


「海の底にいた時より、ずっと楽しかった」


小さく息を吸う。


「こんなふうにいてよかったって、思っちゃった」


涙が頬を伝う。


「こんなに酷いことしたのに」


「ごめんね」


彼女は泣きそうな目で、それでも笑った。


「ユウマ」


初めて、ちゃんとその名前を呼ぶ。


その一言だけで、ユウマの胸がどうしようもなく痛む。


役でも代わりでもない。

ただ、自分として呼ばれた。


ミユキの唇がわずかに震える。


「……好き……」



その一言は、ほとんど壊れかけた告白だった。


甘くもない。

救いにもならない。

ただ、ユウマの心の一番深いところへまっすぐ刺さった。


返事をする資格なんて、最初からなかった。


それでも何か言おうとした瞬間、ミユキはもう海の方を向いていた。


「やっと、帰れる」


波が足首を濡らす。

冷たいはずなのに、彼女は少しだけ安堵した顔をした。


次の瞬間だった。


マユの身体から、何かがすっと抜ける気配がした。


力が切れたように前へ崩れる。


ユウマは反射的に駆け出して抱きとめた。


軽い。

信じられないほど軽かった。


顔を上げると、もうそこにミユキの姿はなかった。


波だけが寄せて、返す。


遠い沖の方に、一瞬だけ灯りのようなものが見えた気がした。

沈んだ街の窓明かりみたいな、ありえない光。


瞬きをすると消えていた。


「……マユ」


腕の中の身体がかすかに動く。


ゆっくりと瞼が上がる。


今度こそ、マユだった。


目の色が違う。

表情の作り方が違う。

何より、ユウマを見る目が違った。


そこにあったのは安堵ではない。

はっきりした拒絶だった。


マユはユウマの腕を振り払おうとする。


「触らないで」


掠れた声だった。

けれど、その一言で充分だった。


ユウマの手が止まる。


マユは浅く息をしながら、波打ち際の向こうを見た。

暗い海。

もう何もいない水面。

さっきまでそこにいたはずの気配は、きれいに消えていた。


唇がかすかに震える。


「……ほんとに」


声は弱く、砂に落ちるみたいだった。


「もう、いないのね」


その言い方は、確かめるというより、やっと現実を受け入れようとする声だった。


ユウマは何も言えない。


マユの目に、また涙が滲む。


「私……本当は」


マユの声が、波にさらわれそうなくらい小さくなる。


「幸せそうな、あの子に」


そこで一度、息が詰まる。


「嫉妬してた」


ユウマが顔を上げる。


マユは海を見たまま、泣きそうに唇を噛む。


「返してほしいって、ずっと思ってた」


「私の体で、私の顔で、あんなふうに笑わないでって」


涙が頬を伝う。


「すごくひどいのに」


「それでも、思ってた」


小さく、震える息。


「……わたしこそ、ごめんなさい」


波からの返答はなかった。


ただ、夜明け前の海だけが、重い空気を抱えたまま静かにそこにあった。


寄せては返すはずの波音さえ、今は妙に遠い。

何かが終わったはずなのに、それを受け止める言葉はどこにもない。


砂の上に、空になった水ゼリーの容器が転がっていた。

劣化したプラスチックは朝の気配の中で、ただの汚れたゴミみたいに見える。


中身は空だった。


本当に空なのか。

底にまだ何か残っているのか。

もう確かめる者はいない。


空は少しずつ明るくなっていく。

海は何も言わない。

ただ、重い沈黙だけがその場に残り続けていた。 end.


海から拾った廃棄物は、海へ帰った。妹は目覚めた。兄はもう電話を待たなくていい。めでたし、めでたし。

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― 新着の感想 ―
切ない系ホラーですね。でも、寝てる間に得体の知れない黒ゼリー飲まされるのはマジでホラー;
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