01.海の底の廃棄物
昼の海は、うるさい。
波の音より、人の声の方が大きかった。
砂浜のあちこちに立ったパラソル。
安っぽいBluetoothスピーカーから流れる流行りの曲。
焼けた肉の匂いと潮風が混ざって、鼻の奥がべたつく。
その中心から少し外れた場所で、ユウマは一人、焼き網を外していた。
まだ熱を持った金属をトングで持ち上げ、アルミトレイの上に置く。
ひしゃげた紙皿を重ねる。
ペットボトルのキャップを拾う。
風で飛びそうになったビニール袋を足で押さえて、結び目を作る。
背中では笑い声が続いていた。
「ユウマ、まだやってるのか」
振り返ると、レンが少し離れた場所に立っていた。
騒ぎの中心には混ざらず、濡れていない足元のままこちらを見ている。
声の調子は淡々としていたが、視線だけはユウマの手元――熱の残った網や、まとめかけのゴミ袋を一通り確認していた。
「もういいだろ。あとでまとめれば済む」
「今やった方が早い」
「早いかどうかじゃない」
レンは海の方へ一度だけ視線をやった。
同じ大学の連中が何人も、すでに沖へ向かって騒いでいる。
誰かがボールを投げ、誰かがそれを追い、別の誰かは砂浜で写真を撮っていた。
「せっかく来たのに、お前だけ片付けで終わる必要はないって言ってる」
「片付けるやつがいないからだろ」
「後でやるって言ってたやつらは信用してないんだろ」
「してない」
レンは小さく息を吐いた。
呆れているようでいて、否定しきれない顔だった。
「……そういうところだよ」
「何が」
「お前、放っておけば済むことまで、自分が拾わないと気が済まない」
ユウマは答えず、炭ばさみで残った炭を金属バケツへ移した。
白くなった灰がふわりと舞う。
周囲の喧騒の中で、そこだけ別の時間が流れているみたいだった。
誰もが楽しい方へ向かっている時に、一人だけ終わった後のことをやっている。
別に好きでやっているわけじゃない。
感謝されたくてやっているわけでもない。
ただ、気づいてしまったものをそのままにしておけないだけだった。
紙皿が散らかっている。
炭がまだ熱い。
海風が強くなったらゴミ袋は飛ぶ。
そのくらい分かる。
分かるのに放っておくのは、ずっと気持ちが悪い。
だからやる。
それだけだ。
「おーい、ユウマ!」
少し離れたところからタクミが手を振った。
「海来いよ! もう片付け終わっただろ!」
「今行く」
そう返しながらも、ユウマはもう一度だけテーブルの下を見た。
見落としがないか確認する。
使い捨てフォーク一本。
串の先。
濡れた紙ナプキン。
全部拾う。
レンは小さく息を吐いた。
「そういうの、少しは人に任せればいい」
「誰かがやるなら任せる」
「お前は“やらないかもしれない”の時点でもう自分で抱えるだろ」
レンはそれ以上文句を言わず、ユウマの脇にしゃがみ込んだ。
砂に半分埋まっていた空き缶を拾い、飛びかけていた紙皿を押さえ、そのまま何も言わずにゴミ袋へ入れていく。
手際がいい。最初から手伝うつもりだったみたいに。
「……ありがと」
「礼はいらない」
「じゃあ何だよ」
「お前が一人でやってるのを見てる方が面倒だ」
言い方はそっけなかった。
けれど、網の端の熱を確かめてから持ち上げる指先の慎重さが、ただの付き合いでしゃがんでいるわけではないと分かる。
「火傷するなよ」
「しねえよ」
「お前、そういう時ほどするだろ」
その言い方が少しだけ面白くて、ユウマは口元だけで笑った。
レンは立ち上がりかけて、ふとユウマの方を見た。
「……今、少しだけ顔が緩んだな」
「気のせいだろ」
「いや」
レンはそこで追及せず、ただ小さく言った。
「そのくらいなら、悪くない」
「何だそれ」
「たまにはそういう顔もしろってこと」
そっけない言い方だったが、妙に真っ直ぐだった。
ユウマは返事の代わりに鼻で笑い、それから無意識にポケットのスマホへ触れた。
通知は来ていない。
画面を開く。
時刻。
グループチャットのどうでもいいスタンプ。
大学のサークル連絡。
病院からの着信もメッセージもない。
何もない。
安堵が先に来た。
それからすぐに、その安堵にむかついた。
何もないのが一番ましだ。
急変も、容体悪化も、家族への呼び出しもない。
それは分かっている。
でも同時に、何も変わらないということでもあった。
病院のベッドの上で、マユは今日も眠ったままだ。
目覚める気配もなく、何年も。
海なんか来てる場合じゃない、とふと思う。
でも行かなかったところで、病院で自分にできることは何もない。
それが一番腹立たしかった。
「また確認してるのか」
レンが言った。
「別に」
「病院から連絡は来てないんだろ」
「……来てない」
「なら今はそれでいい」
レンは立ち上がり、手についた砂を払った。
声の調子は変わらない。慰めるふうでもない。
けれど、軽々しく安心しろとは言わないあたりが、かえって優しかった。
「少なくとも、今この瞬間に悪い知らせは来てない」
気休めみたいな言葉だった。
でも悪意はない。
それくらい分かる。
ユウマはスマホをしまった。
「何もないのが一番困るんだよ」
レンは少しだけ視線を落とした。
「……何もないってことは、何も変わってないってことでもあるからな」
返事はしなかった。
でも否定もしなかった。
遠くで誰かが「あっつ!」と騒いでいる。
肉を焼きすぎたらしい。
別の場所では写真を撮るために全員が集まり、ふざけたポーズを決めていた。
ユウマはそういう輪の中にも一応入れる。
笑って、合わせて、適当に過ごすこともできる。
ただ、どこまで行っても、自分だけ少し遅れている気がした。
事故の日から。
家族四人で車に乗っていた、あの冬の日から。
父がいて、母がいて、助手席でマユが何か喋っていて。
その記憶の途中から、金属が潰れる音だけがやけに鮮明になる。
ブレーキ。
衝撃。
ガラス。
血の匂い。
父母は死んだ。
マユは眠った。
自分だけが軽傷だった。
それ以来、ユウマはずっと、置いていかれた側のままだ。
保険金で生活して。
保険金で学費を払って。
保険金でマユの病院代を出して。
死んだ家族の金で生きている。
たまに思う。
自分の人生は、あの事故で止まった家族の続きではなく、
ただ残骸の上に乗っかってるだけじゃないのかと。
「おいユウマ!」
タクミが今度はもっと近くで声を上げた。
「何してんだよ、早く!」
「行くって」
「女子二人がもう浮き輪で流されてんぞ!」
「知らねえよ」
「助けろよ、そういうの好きだろ」
「好きじゃねえよ」
そう答えながらも、ユウマは反射的に海の方を見た。
確かに少し沖で、浮き輪に乗った女子二人がきゃあきゃあ言いながら流されかけている。
足のつく範囲だし、大したことはない。
周りにも人がいる。
いるのに、一瞬だけ体が前に出そうになる。
それを自分で止めて、ユウマは舌打ちした。
レンはその一瞬の動きを見逃さなかった。
「今、行こうとしただろ」
「してない」
「したよ」
「危なかったら行く」
「まだ誰も溺れてない」
レンの声は静かだった。
責めているというより、事実を置いているだけの響きだった。
「お前は、危なくなる前から背負おうとする」
ユウマは答えない。
答えられない、の方が近い。
危ないかもしれない。
放っておいたら面倒になるかもしれない。
手が届くかもしれない。
その「かもしれない」が見えてしまうと、無視するのがひどく難しい。
昔からそうだった。
マユが熱を出せば親が呼ぶ前に水を替えた。
父が酔って寝落ちしたら毛布をかけた。
母が重い荷物を持っていれば奪い取った。
誰かが困っている。
あるいは困るかもしれない。
それが見えたのに何もしないのは、何か悪いことみたいに思えてしまう。
昔はそれでよかった。
でも今は、その癖だけが置き去りにされて残っている。
「……もういい?」
ユウマはゴミ袋の口を結んだ。
レンはそれを見て、わずかに頷いた。
「これでようやく終わりだな」
「お前、監督か何かか」
「放っておくと終わっても次を探すだろ」
「何だそれ」
「図星か」
レンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
ユウマは焼き網とトングをまとめてクーラーボックスの脇へ置き、最後にもう一度だけスマホを見た。
やっぱり通知はない。
海は明るい。
空は高い。
周りは楽しそうだ。
その全部が、病院の白い部屋から遠すぎた。
「行こうぜ」
タクミが水鉄砲を持ったまま肩をぶつけてくる。
「お前までそんな顔してると、こっちまでテンション下がるんだけど」
「知らねえよ」
「今日くらい忘れろって」
その瞬間、ユウマの足が止まった。
タクミは言ったあとで「あ」と顔をした。
失言だと気づいたらしい。
気まずい沈黙が一瞬落ちる。
レンが小さく舌打ちした。
「馬鹿」と口の形だけで言っている。
でもユウマは怒鳴らなかった。
ただ、タクミを見る目だけが少し冷えた。
「忘れていいなら、とっくに忘れてる」
タクミが眉を寄せる。
「いや、そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
分かっている。
悪気がないことも。
ただ空気を軽くしたかっただけだということも。
でも、忘れる、という言葉だけは駄目だった。
ユウマにとってマユは、気にしなくていい時にだけ気にする存在じゃない。
一日中、ずっと背中に引っかかっている。
病院にいても。
大学にいても。
こうして海にいても。
何もできないまま、気にし続けるしかない。
その状態そのものがもう生活になっている。
だから片付けなんかしてるのだ、とユウマは思った。
楽しい方へ飛び込めないから。
何かやることを見つけていないと、自分がここにいることを正当化できないから。
「ごめんって」
タクミが今度は素直に謝った。
ユウマは軽く息を吐いた。
「……もういい」
レンが空気を切るみたいに言った。
「もう終わりだ」
「は?」
「片付けはした。連絡も来てない。なら一回くらい海に入れ」
「命令かよ」
「そうだと思ってくれていい」
「何だそれ」
「お前、自分で止まれない時あるから」
そのままレンはユウマの腕を軽く引いた。
強引ではないが、断る余地を先回りで潰すような手つきだった。
「少しだけでいい。来い」
半ば連れ出される形で、ユウマもようやく砂浜を歩き出した。
熱い砂。
足裏に刺さる小石。
波打ち際へ近づくたび、潮の匂いが強くなる。
海水はぬるかった。
ふくらはぎ。
膝。
腿。
少しずつ体が水に馴染んでいく。
周りはすでに騒いでいた。
水をかけ合って、悲鳴を上げて、馬鹿みたいに笑っている。
ユウマもその輪の中へ一応入る。
肩口に飛んできた水を払い、適当に文句を言い返す。
そういうことはできる。
でも心だけはうまく入っていかない。
沖を見た。
青い。
晴れた昼の海は、底知れないというより、ひたすら無邪気に見える。
だからこそ、その下に何かがあるという噂は、妙に現実味を帯びた。
「そういやさ」
誰かが言った。
「この辺って、裏S市街の噂あるよな」
輪の空気が少し変わる。
「あー、出た」
「死人の街だっけ?」
「海の底に沈んでるってやつ?」
「昔この辺に街があって、それがまるごと沈んだんだってさ」
「それ絶対盛ってるだろ」
「でも、流れ着くゴミが昔のもんなんじゃないかって話あるじゃん」
「ラベル剥がれた変な容器とか?」
「あれ全部そこから来てるらしいぜ」
「うわ、やめろよ」
笑いながら、皆が少しだけ沖を見る。
遊び半分の怪談。
信じてはいない。
でも、信じていないからこそ言える話。
「行けるとこまで行ってみるか?」
タクミが言う。
「は?」
「いや、裏S市街チャレンジ」
「馬鹿だろ」
「どうせ何も見えねえって」
「だからいいんだよ。もし見えたら動画回せ」
「絶対バズる」
「バズる前に溺れるわ」
笑い声が広がる。
いつもの、何も起きるはずがない前提のノリだ。
でもユウマだけは、その名前に少し引っかかった。
裏S市街。
海の底の、死人の街。
失くしたものがそこに沈んでいる。
もう戻らないものが、形だけでも残っている。
そんな話に、自分が思った以上に弱いことを、ユウマは知っていた。
病院の白いベッドで眠るマユ。
もう二度と戻らない父母。
名前も輪郭も曖昧なのに、ずっと心のどこかで“自分は何かを失くしている”と思い込んできた空洞。
それが全部、海の底の暗さと混ざる。
「ユウマ、お前も来るか?」
レンが振り返った。
ユウマは少しだけ間を置いた。
「……別に」
「じゃあ来るな」
「人数多い方がそれっぽいし!」
「一人だけここで待ってる方が、逆に怖いって」
軽口が飛び交う中、ユウマだけがまだ動かないでいた。
レンが一歩だけ戻ってくる。
「無理にとは言わない」
「……じゃあ何だよ」
「来るなら来い。置いていかれるのが嫌なら、なおさら」
それだけ言って、レンは先に沖へ向かった。
ただ、完全には歩き切らず、ユウマがついてくる気配を確かめてからようやく前を向く。
その流れのまま、皆で少しずつ沖へ向かっていく。
最初は騒ぎながら。
そのうち水位が上がるにつれて、少しずつ口数は減っていった。
胸のあたりまで水が来る。
足元の砂が波にさらわれて、身体の重心が微妙に揺れる。
「この辺じゃね?」
「もう十分だろ」
「何も見えねえし」
「当たり前だろ、真昼だぞ」
「えー、ちょっとロマンないな」
「裏S市街、昼休み中なんじゃね?」
また笑いが起きる。
でもさっきより少しだけ小さい。
「あー、やっぱ行けないね」
「そもそもあるわけないし」
「戻る?」
その時だった。
レンが辺りを見回した。
「……待て」
「ん?」
「ユウマがいない」
一瞬、誰も意味を理解しなかった。
「さっきいたよな?」
「いたいた、後ろの方」
「どこ?」
名前を呼ぶ声が重なる。
「ユウマ!」
「おーい!」
返事はない。
波だけが来て、引く。
さっきまで確かにいたはずの男が、いない。
「待て」
それまで抑えていたレンの声が、そこで初めて強くなる。
「ユウマ!」
空気が一気に変わった。
遊びの温度が一瞬で消える。
何人かが慌てて潜る。
誰かが岸へ向かって手を振る。
タクミが顔色を変えて叫ぶ。
その頃、ユウマは海の底にいた。
本当に底かどうかは分からない。
ただ、途中から息苦しさが消えていた。
冷たさもない。
音も曖昧だ。
上も下もぼやけて、それでも不思議と怖くはなかった。
目の前に街があった。
沈んだ街。
輪郭だけの建物。
ひびの入った道路。
街灯みたいな影。
窓の割れたビル。
全部、水の膜の向こうで歪んでいるのに、なぜかはっきり見える。
その中を、一人の少女が歩いてきた。
金色の髪が、水にほどけるみたいに揺れていた。
白っぽい服。
裸足。
年齢はよく分からない。
近づけば近づくほど、顔の輪郭は見えるはずなのに、逆に曖昧になる。
でも、ユウマは目を離せなかった。
少女はユウマの前で立ち止まり、やわらかく笑った。
責める顔じゃない。
問い詰める顔でもない。
ただ、ようやく来てくれた相手を見るみたいな顔だった。
唇が動く。
音は聞こえない。
でも意味だけは胸に落ちた。
――来てくれたんだね。
ユウマは口を開いた。
何か言い返そうとした。
ごめん、だったかもしれない。
会いたかった、だったかもしれない。
助けられなくて、だったかもしれない。
でもうまく出てこない。
少女が腕を伸ばす。
抱きしめられる。
その瞬間、ユウマは初めて、何も求められない安心を知った。
大丈夫だ、と言われた気がした。
もう失わなくていい、と言われた気がした。
全部気のせいでもいいと思った。
ああ、とユウマは思う。
これだ。
片付けなくていい。
背負わなくていい。
助けられなかったことを思い出さなくていい。
何者でもなくていい。
ただここにいて、受け入れられていればいい。
このまま沈んでもいい。
というより、このまま沈んだ方がきっと楽だ。
意識が白くほどけていく。
最後に、右手へ何かが触れた。
ぬるい。
柔らかい。
生き物みたいな感触だった。
「いた! いたぞ!」
怒鳴り声が、水の向こうから無理やり引き戻してきた。
ユウマが浜へ運び上げられた時には、顔色は悪く、まぶたは半分閉じたままだった。
咳き込むでもなく、ただぼんやりと呼吸している。
「ユウマ! おい、分かるか!?」
「救急車呼ぶ!?」
「息してる、してるけどやばいって!」
「何か言ってるぞ」
レンがすぐにしゃがみ込み、ユウマの口元へ耳を寄せる。
ユウマの唇が震える。
「……きて……くれた……」
レンの表情がわずかに強張る。
「……何だって?」
「……もう……ひとり……やだ……」
その声は、気味が悪いほど幸福そうだった。
「右手、何握ってんだよ」
タクミが指さす。
ユウマの右手には、容器があった。
最初はただのゴミに見えた。
透明だったはずのプラスチックは日焼けし、擦れて曇り、形も少し歪んでいる。
ラベルは完全に剥がれ落ちて、何の容器だったのかも分からない。
なのに中には、どす黒いゼリー状のものが詰まっていた。
海底から拾ったゴミにしては、生っぽすぎる。
ぬらりとしている。
光を吸っている。
昼の太陽の下なのに、妙に湿って見える。
「何それ……」
「知らねえよ、こいつが握ってた」
「気持ち悪」
誰も触りたがらない。
しばらくして、ユウマは目を開けた。
眩しい空。
波音。
砂の熱。
肺の奥が痛い。
視界の端にレンがいる。
タクミもいる。
他にも何人か、心配と戸惑いを混ぜた顔で見下ろしている。
ユウマは喉を鳴らし、かすれた声で言った。
「……どこ」
「え?」
「彼女」
空気が凍った。
「彼女、どこ行った」
レンの目がわずかに揺れる。
タクミが顔をしかめた。
「何言ってんだよ」
ユウマはその時、自分の手にまだ容器があることに気づいた。
ぬるい。
陽に温められたプラスチックの熱とは違う。
もっと、皮膚に近いぬくもりだった。
見た瞬間、ひどく飲みたくなった。
「おい、ユウマ?」
誰かが止めるより先に、ユウマは蓋をひねっていた。
固着しているはずなのに、するりと開く。
中身を口へ流し込む。
「ちょっ、やめろ!」
甘い。
まず最初にそう思った。
腐っているような匂いがするのに、舌に触れた瞬間だけは、壊れるほど甘い。
何かを思い出しそうで、思い出さなくていいような、そんな味だった。
次の瞬間、猛烈な吐き気が来る。
ユウマはその場で吐いた。
喉が焼ける。
胃液が逆流する。
黒い液体が砂に落ちる。
周囲から悲鳴が上がる。
それでもユウマは、また容器を口へ運んでいた。
「やめろって!」
「お前何してんだよ!」
飲む。
吐く。
また飲む。
そのたびに、海の底の抱擁が一瞬だけ戻ってくる。
責められない。
求められない。
失わなくていい。
あれがまた来る。
「ユウマ!」
レンが腕を掴む。
ユウマは振り払う。
「離せ」
「離さない」
「離せって!」
容器の中身は減っていなかった。
何度飲んでも。
何度吐いても。
黒いゼリーは最初と同じだけそこにあるように見える。
ぞっとするより先に、ユウマは安堵した。
なくならない。
だったら、またあそこへ行ける。
もう一度だけ。
もう一度だけ、ちゃんと会えれば。
「いい加減にしろよ!」
タクミが怒鳴った。
「しっかりしろ!」
ユウマはぼんやりと顔を上げる。
タクミの顔は怒っていた。
怒っているのに、その奥に怯えがあった。
「お前、そもそも彼女なんかいなかっただろ!」
その一言で、何かがぶつりと切れた。
波音が遠くなる。
喉の奥の甘さが、一気に腐臭へ変わる。
頭の中で無理やり繋がっていたものが千切れる。
彼女。
会いたかった相手。
死んだ彼女。
……誰だ、それ。
記憶を探る。
名前がない。
顔がない。
付き合っていた時間も、別れた日も、何も出てこない。
最初から、そんなものいなかった。
「あ……」
ユウマは盛大に吐いた。
今まで飲んでいたものが一気に逆流する。
胃の奥が空っぽになるまで吐く。
目の奥が熱い。
いなかった。
じゃあさっきのあれは何だ。
あれだけ気持ちよかったのに。
あれだけ救われた気がしたのに。
全部、偽物だったのか。
「……邪魔、すんなよ」
自分でも驚くほど低い声が出た。
タクミが一瞬ひるむ。
「は?」
「それでも、幸せだったのに」
ユウマは容器を抱えたまま、砂浜に座り込んだ。
笑っているのか泣いているのか、自分でも分からない顔だった。
「やっと……やっと、何も考えなくてよかったのに」
「ユウマ」
レンが低く名前を呼ぶ。
「やっと、助けられなかったとか……俺だけ残ったとか……そういうの全部、消えたのに」
喉が震える。
「……死にたかった」
誰も何も言えなかった。
冗談じゃない声だった。
軽く言ったんじゃないと分かる声だった。
しばらくして、ユウマはふらつきながら立ち上がった。
右手の容器を見下ろす。
黒いゼリーは何もなかったみたいに静かだった。
ユウマはそれを、海へ向かって放り投げた。
小さな音を立てて、波打ち際の少し先に落ちる。
「……帰る」
それだけ言って、ユウマは背を向けた。
誰も止めなかった。
その夜、ユウマは一人で海岸へ戻った。
昼の喧騒は跡形もない。
砂浜には人影がなく、遠くの街灯だけが湿った空気を鈍く照らしていた。
波は黒い。
昼間の海と同じ場所のはずなのに、別物みたいだった。
本当は、戻るつもりなんかなかった。
あんなものは捨ててしまった方がいい。
もう二度と触れない方がいい。
頭ではちゃんと分かっていた。
なのに、あれから何度も思い出してしまった。
海の底。
沈んだ街。
あの少女の腕。
責められもせず、何も求められもせず、ただ抱きしめられたあの瞬間。
自分の中でずっと欠けたままだった何かが、あの時だけ一瞬、埋まった気がした。
助けられなかったことも。
置いていかれたことも。
自分だけが生き残ったことも。
あの腕の中では、全部どうでもよかった。
その感覚が、忘れられなかった。
気づけば足が海へ向いていた。
戻る理由なんて、あとからいくらでも作れる。
でも最初にあったのは、もっと単純で、もっとみっともない衝動だった。
もう一度だけ、あれに触れたい。
ユウマはまっすぐ、昼に容器を投げたあたりまで歩いていく。
あると分かっていた。
流されていてもおかしくない。
埋もれていてもおかしくない。
誰かが拾っていてもおかしくない。
それでも、あると思った。
案の定、容器はそこにあった。
最初から置かれていたみたいに、濡れた砂の上へ転がっている。
ユウマはしゃがみ込み、それを拾った。
ぬるい。
昼と同じだった。
いや、もっとはっきり人肌に近い。
中身は減っていない。
あれだけ飲んで、あれだけ吐いたのに、黒いゼリーは容器の中で静かに揺れている。
ユウマはしばらくそれを見つめていた。
頭のどこかでは、まずいと分かっている。
こんなものを持っていていいわけがない。
飲んでいいわけがない。
病院へ持っていくなんて、なおさらおかしい。
それでも別の思考が、もっと強く浮かんだ。
――これで、マユに夢を見せられるかもしれない。
ただ一度だけでも。
苦しくない場所を。
何も背負わなくていい時間を。
眠ったまま終わるしかないなら、せめてその前に。
ユウマは容器を強く握った。
これは依存じゃない、と自分に言い聞かせる。
自分がまた飲みたいわけじゃない。
海の底へ戻りたいわけじゃない。
これはマユのためだ。
そう思った瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。
病院は夜でも白かった。
消毒液の匂い。
規則正しい機械音。
薄いカーテン。
ここだけは昼も夜も関係ない。
マユの病室は窓際だった。
ベッドの上の妹は、今日も眠っている。
三つ下。
事故に遭った時はまだ高校生だった。
今は時間だけが過ぎて、身体だけが大人に近づいている。
ユウマは椅子に座った。
「……来た」
当たり前だが返事はない。
何年もそうだ。
それでも毎回、最初の一言だけは口に出る。
沈黙の中で、ユウマはマユの顔を見た。
事故の前より少し痩せて見える。
髪には病院の匂いが染みついている。
でもちゃんとマユだ。
この世で、自分と事故の前を繋いでいる最後の相手。
「今日、海行ってきた」
何でもないことみたいに言う。
「別に行きたくて行ったわけじゃないけど」
少し間を置く。
「お前、海好きだったよな」
返事はない。
もちろんない。
ユウマはポケットから容器を取り出し、ベッド脇のテーブルに置いた。
黒いゼリーが小さく揺れる。
「変なもん拾った」
自分でも、ひどく馬鹿なことをしている自覚はあった。
でも、マユの寝顔を見ていると、その自覚が鈍る。
いつまでこうしていればいいのか。
どこまで待てばいいのか。
自分だけが年を取り、マユだけが眠ったままなのか。
それならせめて。
「……一回くらい」
ユウマは容器を見つめた。
「一回くらい、いい夢見てもいいだろ」
それは善意だった。
少なくとも、ユウマ本人は本気でそう思っていた。
起きないかもしれない。
このままずっと。
だったら、せめて夢でも。
せめて苦しくないところを。
助けられるかもしれないものを、使わない方が悪い。
そういう声が、ユウマの中には最初からあった。
事故のあとからずっと。
蓋を開ける。
甘い匂いが病室の静けさの中へ滲んだ。
その奥に、古い腐臭が混ざる。
さすがに、全部を飲ませるつもりではなかった。
ただほんの少し。
ひとかけらだけ。
夢を見るきっかけになる程度に。
そうすれば、自分はまだ引き返せる気がしていた。
ユウマは指先でごく小さくゼリーをすくい、マユの唇へそっと触れさせた。
冷たい唇の上に、黒い艶がわずかに残る。
それだけでやめるつもりだった。
本当に、そのはずだった。
だが次の瞬間、マユの唇がかすかに動いた。
ぴくり、と。
眠ったままのはずの口元が、ほんの少しだけ開く。
そして舌先が、そこに触れていたゼリーをゆっくりと取り込んだ。
ユウマは息を呑んだ。
今の動きは、気のせいじゃなかった。
反射なんかじゃない。
何年も見てきた。
何年も、呼吸と脈以外の反応なんてほとんどなかった。
なのに、今、確かに。
「……マユ?」
思わず名前を呼ぶ。
返事はない。
だが、わずかに喉が動いた。
ごくり、と。
その小さな音だけで、ユウマの胸がひどくざわついた。
次いで、唇の奥からかすかな息が漏れる。
うなされるみたいな、夢の底で何かに触れたような、ひどく弱い声だった。
ユウマは凍りついた。
呼吸以外の音を、何年ぶりに聞いたのか分からなかった。
それがたったひとかけらのゼリーのせいだとしたら。
心臓が速くなる。
これで終わりにするべきだ、と頭のどこかで思った。
ほんの少しで反応したなら、それで十分だ。
ここで止まれば、まだ――
けれど、その“まだ”は続かなかった。
気づけばユウマは、容器を手に取っていた。
自分でも、そこまでするつもりはなかった。
本当にひとかけらで踏みとどまるはずだった。
なのに、さっきの小さな反応を見た瞬間、何かが切り替わった。
助けられるかもしれない。
夢を見せられるかもしれない。
起こせるかもしれない。
その衝動が、理屈より先に身体を動かしていた。
「……ごめん」
何に対しての言葉か、自分でも分からないまま、ユウマは容器の口をマユの唇へ寄せる。
黒いゼリーが、ゆっくりと傾く。
拒絶はなかった。
それどころか、マユの喉は驚くほど素直にそれを飲み込んだ。
ごくり。
ごくり。
夢を見ているみたいだった。
眠ったままの身体が、自分からそれを受け入れている。
まるで、ずっと待っていたものみたいに。
ユウマはもう止まれなかった。
自分が何をしているのか分からないまま、容器を支える手に力が入る。
少しずつ、少しずつ、黒いゼリーがマユの口の中へ流れ込んでいく。
やめろ、と思う声と、もう少しだ、と思う声が同時にあった。
でも勝ったのは後者だった。
マユの喉がまた動く。
そのたびに、ユウマの中の何かが決定的に踏み越えていく。
そして――
ボトルの底が、空になっていた。
ユウマはそこで初めて手を止めた。
呼吸が浅くなる。
自分がどこまでやったのか、一瞬遅れて理解する。
全部飲ませるつもりなんてなかった。
本当に、ほんの少しだけのつもりだった。
夢を見るきっかけになる程度に。
そこまででやめるはずだった。
なのに、マユが飲み込んだ。
眠ったまま、自分から受け入れるみたいに。
そのたびに、もう少し、もう少しだけと手が止まらなくなった。
気づけば、容器は空だった。
ユウマは空になったボトルを握ったまま、しばらく動けなかった。
機械音だけが一定の間隔で鳴る。
外では遠くで救急車が走っているらしい。
ほんの少しだけサイレンが聞こえた。
やってしまった。
その実感だけが、じわじわと遅れてくる。
これで何も起きなければ、ただ自分は眠った妹に得体の知れないものを全部流し込んだだけだ。
奇跡なんてあるはずがない。
そんなものを今さら信じる歳でもない。
やっぱり、ただの狂った考えだったのか。
そう思った瞬間、マユの睫毛が震えた。
ユウマは椅子を蹴るように立ち上がる。
「……マユ?」
もう一度、まぶたが動く。
指先もわずかに持ち上がる。
それは痙攣なんかじゃなかった。
もっとゆっくりで、もっと確かな、意思の通った動きだった。
「マユ」
胸が痛い。
苦しい。
期待しすぎるなと思うのに、どうしても止まらない。
ベッドの上の身体が、眠りの底から少しずつ浮かび上がってくる。
肩。
喉。
指先。
呼吸に合わせて、今までただ生きているだけだった体が、ゆっくりと“動き”に変わっていく。
奇跡なんて信じなかった。
でも今、目の前で起きていることは、そう呼ぶしかないように思えた。
ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと、マユの瞳が開いた。
焦点が合うまで少し時間がかかる。
夢の底から浮かび上がるみたいに、視線が揺れて、それからユウマの顔を捉える。
ユウマの喉が詰まる。
何年も待った。
何年も。
「……マユ」
震える声で名前を呼ぶ。
ベッドの上の少女は、ユウマを見つめていた。
その目には、マユにはなかった柔らかさがあった。
その瞬間、病院全体の電気が落ちた。
不意打ちみたいに、白い光が一斉に消える。
世界が一度、真っ黒になる。
次の瞬間、非常電源が立ち上がった。
低い駆動音。
遅れて点く非常灯。
いつもの白い病室が、薄暗く不安定な色に塗り替わる。
機械音の調子もわずかに変わった。
同時に、廊下の向こうで何かが倒れる金属音が響く。
がしゃん。
その瞬間だった。
少女の肩が大きく跳ねた。
呼吸が乱れる。
目の焦点が一気に不安定になる。
怯えた獣みたいに周囲を見回して、それからユウマへ縋るように腕を伸ばした。
「や……」
ユウマが反射的に手を取る。
「大丈夫」
言った瞬間、自分でも何が大丈夫なのか分からなかった。
でも少女はユウマの手首にしがみつき、そのまま少しずつ呼吸を戻していく。
涙のにじんだ目が、ユウマを見上げる。
そして、夢みたいに幸福そうに微笑んだ。
「……ヒロト?」
ユウマの全身が凍った。
「え」
少女は、ようやく迎えが来た恋人を見るみたいな顔で、かすれた声を落とした。
「迎えに、来てくれたんだ」
その手は熱かった。
ちゃんと人の体温がある。
でもその感触の奥に、昼の海のぬるい抱擁がよみがえる。
これはマユじゃない。
見れば分かる。
声も、目も、笑い方も違う。
それでもユウマは、その手を振り払えなかった。
振り払えるはずがなかった。
だってその瞳は、怯えていて。
助けを求めていて。
そして何より、自分が来たことを心の底から喜んでいたから。
ユウマは立ち尽くしたまま、少女の細い指が自分を掴む感触を受け入れるしかなかった。
非常灯に照らされた病室は、もう元の白さではなかった。
機械音は変わらず鳴っている。
暗がりの気配だけが、そこかしこに残っている。
なのにその瞬間だけ、ユウマはまた海の底へ引きずり戻されたような気がした。




