第74話:世界の仕立て屋
「ギルフォードさん、母さん……僕に力を貸して!!」
ルークの放った白銀の大鋏——『原初の裁断刃』が、眩い神話の軌跡を描きながら、大院長アーヴェルの左胸へと滑り込んだ。
シャキィィィィィンッ!!
澄み渡る刃音が、虚空の祭壇に木霊した。
ルークのオッドアイが寸分の狂いもなく捉えていたのは、アーヴェルの肉体の心臓と、『原初の虚無針』を固着させていた狂気の黒い結び目——かつてアーヴェルが自らの絶望によって縛り上げた、魂の呪縛糸だった。
神話の裁断刃は、アーヴェルの心臓の筋肉や血管には傷一つ負わせることなく、その呪縛糸だけを完璧に両断したのだ。
「ぐ……あ……あ……っ!?」
アーヴェルの口から、激しい吐血と共に苦悶の叫びが漏れた。
心臓との接続を断たれた最後の神体——『原初の虚無針』が、少年の手によってゆっくりと、しかし確実に引き抜かれていく。
「お願いです、大織樹の命……カナンの時間……! この人の傷を、塞いで!」
ルークは即座に『原初の絹糸針』から新緑の生命魔糸を紡ぎ出し、『原初の金砂針』で傷口の時間を巻き戻しながら、アーヴェルの引き裂かれた胸を一針、一針、優しく縫合していった。
パチンッ、カチィィィンッ。
心地よい針音が響くたび、アーヴェルの胸元から吹き荒れていた漆黒の虚無の霧が消え失せ、代わりに温かな血の温もりが老いた肉体へと満ちていく。
そして——ルークの右手の平の上には、漆黒と白銀が美しく溶け合った一本の細身の針が、静かにその熱を鎮めて横たわっていた。
七本目の原初の遺物——『原初の虚無針』の奪還!
「あ……あ……あ……」
虚無の呪縛から解き放たれたアーヴェルが、両膝から崩れ落ちた。
機織り機『オリジン・ルーム』から白い光の供給が途絶え、巨大な綜絖がギギギと音を立てて停止する。
そのアーヴェルの目の前に——奇跡が起きた。
サァァァァッ……
虚無針から解放された魔力の粒子が、淡い光の霞となって舞い上がり、祭壇の上に一人の女性の姿を形作ったのだ。
柔らかな金髪に、慈愛に満ちた穏やかな笑みを浮かべた女性——十数年前に命を落とした、ヴァルドの母であり、アーヴェルの最愛の妻——エレナの魂だった。
『……アーヴェル。もういいのよ、あなた』
「エ……レナ……? エレナなのか……!?」
アーヴェルの瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出し、白大理石の床を濡らした。
『あなたはずっと、一人で背負い続けてくれたのね。私の死を悲しんで、痛みのない世界を創ろうとしてくれた……でもね、あなた。私は、あなたとヴァルドと過ごしたあの日々を、一瞬たりとも後悔したことなんてないわ。痛くても、悲しくても……愛し合えた記憶は、私の永遠の宝物よ』
エレナの幻影は優しくアーヴェルの頬を撫で、次いで、涙を堪えて立ち尽くす我が子——ヴァルドへと向き直った。
『ヴァルド……立派に育ってくれたわね。あなたのお父さんを……救ってくれて、ありがとう』
「母上……っ! 母上ぇぇぇッ……!」
気高き貴公子だったヴァルドが、子どものように泣きじゃくりながら膝をついた。
エレナは二人を優しく抱きしめるように微笑むと、光の粒子となって天へと溶け込み、夜空の星々へと還っていった。
「……すまなかった……ヴァルド……私は……私は何を……」
アーヴェルは震える手で顔を覆い、号泣した。
ヴァルドはその父の震える肩を、自らの逞しい両腕で力強く抱き留めた。
「父上……もういいのです。僕たちの手で、明日を……新しい世界を織り直しましょう」
父と子の長年にわたる呪縛が、温かな涙と共に解き放たれた瞬間だった。
* * *
だが、まだ終わっていなかった。
祭壇の足下——数千メートルの奈落の底で、世界の裂け目『大綻び』が、主を失ったことで激しく暴走を始めていたのだ。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!
帝都の上空を覆っていた『白い偽天蓋』がバリバリと音を立てて砕け散り、その亀裂から、大陸全土を呑み込まんとする漆黒のほつれの嵐が噴き上がり始めていた。
大綻びを塞がなければ、世界そのものが崩壊する!
「ルーク殿! 帝都の結界が持ちません! 大綻びが世界を呑み込もうとしています!」
レイラ教官が叫び、ミーシャが手帳を広げて絶叫した。
「七つの遺物が揃った今しかありません! 古代の創世神話に記された、究極の縫合術式——『原初万象大縫合』を発動できるのは、ルークさん、あなただけです!」
「うん……!」
ルークは立ち上がった。
少年の頭上に、七本の神話の道具が浮かび上がり、完全なる円環を描いて神々の歌を奏で始めた。
母ステラの形見——『原初の指貫』(万象の縫合)。
ギルフォードから託された——『原初の裁断刃』(断絶の切断)。
南大陸ペルラ諸島の聖女——『原初の真珠針』(海洋と水流の結束)。
極北エターナル・ピークの巨匠——『原初の鋼骨針』(空間と骨組みの補強)。
東大陸シルク・フォレストの世界樹——『原初の絹糸針』(生命と循環の活性)。
西大陸カナンの古代王国——『原初の金砂針』(時間の修繕と復元)。
そして帝都の最深部より解き放たれた——『原初の虚無針』(不純物の白紙化と無垢の創造)。
七つの遺物が、ルークの魂を中心にして一つに溶け合う。
母ステラすら到達し得なかった、神話の開闢の領域。
ルークの身体から溢れ出たのは、白でも黒でもない、この世に存在するすべての色を抱きとめた、温かな七色の魔糸の奔流だった。
「ルーク、手を取りなさい!」
セラの澄んだ声が響いた。
少女はルークの左手をしっかりと握り締め、自らの胸にある最も清らかな氷の魔糸を注ぎ込んだ。
「私も、あなたの針になるわ。不完全な私たちの想いを、世界中に届けて!」
「俺の炎も持ってけぇぇぇッ!!」
ガレットがルークの肩に手を置き、紅蓮の熱き命の糸を注ぎ込む。
「僕の雷も、すべて君に預ける!」
ヴァルドがルークの背中に手を当て、紫電の誇りを注ぎ込んだ。
「皆さんの記録、すべての祈りを、私が糸として紡ぎます!」
ミーシャの記述魔術の光文字が、七色の魔糸を幾重にも束ねていく。
五人の仲間たちの魂が、完全に一つに結ばれた。
不揃いで、不完全で、出来損ないと呼ばれた者たちが寄り添い合って生まれた、世界で一番強くて温かな布。
「世界は……真っ白な布一枚で出来ているんじゃない!」
ルークは両目をカッと見開き、大綻びの奈落、そして天蓋の亀裂へ向けて、両手を天へと突き上げた。
「色んな色があって、色んな傷があって、色んな形の布を、誰かの温もりで縫い合わせていくからこそ……世界は、こんなにも美しいんだ!!」
ルークの放った七本の神体が、光の流星となって虚空を駆け抜けた。
「七位一体・原初万象大縫合——『世界のパッチワーク』ッッッッ!!!!」
パチンッ! カチィィィンッ! シュパパパパパパパパパッ!!
それは、世界が生まれた日の朝の光だった。
ルークの放った無数の七色の魔糸が、足下に口を開けていた巨大な『大綻び』を一針、一針、力強く、そして限りなく優しく縫い合わせていく。
紫黒色の悪夢の亀裂が、新緑と白銀、紅蓮と黄金、群青と紫電の美しいパッチワークの布となって塞がれ、二度と開かぬよう強固に縫い止められていく。
そして——光の針は地下を突き破り、帝都の上空、大陸全土の空へと広がっていった。
サァァァァァァァッ……!
帝都を覆っていた冷酷な白い天蓋が、一枚の巨大な布となって解け、代わりに満天の青空と、七色に輝く雄大なオーロラが世界中を優しく包み込んだ。
宿場町で心を奪われていた母親の瞳に光が戻り、腕の中の赤ん坊が「おぎゃあ」と元気な産声を上げて笑った。
帝都の生徒たちが顔を見合わせて歓声を上げ、遠く南大陸のペルラ諸島では鯨が潮を吹き、極北の砦では戦士たちが杯を天に掲げ、東の樹海では花々が咲き乱れ、西の砂漠のオアシスでは民たちが踊り明かしていた。
世界中のすべての傷が、優しく縫い直されたのだ。
* * *
地下空洞の天井から、崩れた大聖堂のステンドグラスの隙間を通じて、温かな朝日の光が差し込んできた。
七色の光の粒子がキラキラと粉雪のように舞い落ち、祭壇の瓦礫を優しく包んでいる。
ドサリ、とルークの膝から力が抜けた。
七本の遺物をすべて操り、世界の傷口を縫い合わせた少年の身体は、完全に限界を迎えていた。
だが、その身体が冷たい床に触れる前に、柔らかな温もりがルークを優しく抱き留めた。
「……本当にお疲れ様、ルーク」
セラだった。
少女はルークの頭を自らの膝の上に乗せ、愛おしそうにその泥だらけの頬の汗を拭った。
その瞳からは、安堵と誇らしさの涙が零れ落ち、ルークの頬を温かく濡らしていた。
「直せたよ……セラさん。世界の傷口も……みんなの心も」
「ええ。見上げたわ……世界で一番温かくて、世界で一番美しいパッチワークの空よ」
セラは微笑み、そっとルークの手を取って自らの胸元へと当てた。
そこからは、かつての冷たい拒絶ではなく、トクトクと力強く脈打つ、生きている少女の熱い鼓動が伝わってきた。
「おいおいおいっ! 俺たちを置いて二人でいい雰囲気になるなよな!」
ガレットが頭をかきながら駆け寄り、ルークの黒髪をくしゃくしゃと乱暴に撫で回した。
「やったな、ルーク! 出来損ないが世界を救っちまったぞ! 歴史に残る大快挙だ!」
「ガレット、手荒に扱うな。ルークは満身創痍なんだ」
ヴァルドが父アーヴェルの肩を支えながら歩み寄り、穏やかに微笑んだ。その瞳には、長年の重荷から解放された、誇り高き青年の澄んだ光が宿っている。
「ありがとう、ルーク。……僕に、本当の家族を取り戻させてくれた。この恩は、一生かけても返しきれない」
「ミーシャも、泣きながら手帳にペンを走らせていた。
「『世界修繕完了……継ぎ手ルーク、壊れた世界を繋ぐ』……! ううっ、最高の記録です……! 私、この物語を絶対に後世へ語り継ぎます!」
レイラ教官が温かな眼差しで生徒たちを見守り、大聖堂の入り口からは、エリオットたち紡術院の生徒たちや、正気を取り戻した老騎士バルバロッサが、歓喜の声を上げて手を振っていた。
ルークは右手中指に嵌められた、母ステラの古い指貫を見つめた。
指貫は役目を終えたかのように、静かで温かな銀の光を湛えている。
——ありがとう、ルーク。立派に縫えたわね。
そんな母の優しい声が、朝風に乗って胸の奥に届いた気がした。
かつて魔術の出来損ないと呼ばれ、村の納屋で一人ボロ布を縫い合わせていた少年。
その少年は、傷つき、不揃いで、不完全な仲間たちと共に、壊れた世界のすべてを繋ぎ、人々を笑顔にする——世界でたった一人の、本物の『仕立て屋』となっていた。




