第52話:南の航路と機織りの鯨
白波を蹴立てて疾走する船首が、どこまでも青く透き通る南の海を切り裂いていく。
頭上に広がるどこまでも高い青空には、太陽の陽光を受けて七色に眩く瞬く巨大な帆——異なる色の耐水魔術布を幾重にも縫い合わせた、美しいパッチワークの主帆が力強く潮風を孕んでいた。
「ひゃっほぉぉぉっ! 海だ、海だァァァッ!!」
船首楼の手すりに身を乗り出し、ガレットが潮風に短く刈り込んだ赤毛をなびかせながら快哉を叫んでいた。
帝都グランディスを出航して三日。
ルークたち五人を乗せた魔導探査船『シープ・パッチ号』は、帝国南部の港湾都市を抜け、未知の海洋領域——『南大陸・深帷海域』へと順調に針路をとっていた。
「ガレット、はしゃぎすぎて海に落ちても助けないわよ。サメの餌になりたいなら止めないけれど」
甲板のデッキチェアで日傘を差しながら、セラが呆れたように、けれど楽しげに笑う。
セラの装いは、帝都にいた頃の格式張った厚手の青い外套から、涼やかな青と白の薄手のリネンシャツとショートパンツに変わっていた。白磁のように透き通る柔らかな肌が陽光に眩しく輝き、海風に銀髪がふわりと揺れている。
足元には、ルークが以前修繕してくれた氷水晶のアンクレットが、波の音に合わせてチリンと澄んだ音色を奏でていた。
「へっ、サメなんざ俺の剛剣で三枚におろして蒲焼きにしてやるぜ! それにしてもよ、帝都のジメジメした地下洞窟に比べたら、この広々とした青空と海、最高じゃねえか! ルーク、お前もそう思うだろ!」
「うん! 潮の匂いって、村の川の匂いとも全然違って、すごく力強いね」
ルークは甲板の手すりに両手を置き、眼下に広がるエメラルドグリーンの波間を見つめて微笑んだ。
水深何十メートルもの海底まで見通せるほど透明な海の中を、色鮮やかな光の魚たちが魔力の尾を引いて泳ぎ回っている。
その光景を、ミーシャが甲板の丸テーブルに海図と古代文献を広げ、真鍮の羅針盤を指先で調整しながら記録していた。
「素晴らしい魔導生態系です……! 帝都グランディスから南へ約八百海里。この海域は、古代文献では『七つの結節海』と呼ばれ、原初の七人の紡ぎ手の一人——『潮紡ぎの聖女ルキア』が世界帷を縫い留めた場所とされています」
ミーシャは丸眼鏡を指で押し上げ、羊皮紙に描かれた古い海図を指差した。
「聖女ルキアは、荒れ狂う大海洋の海流を、目に見えない青い魔糸として織り上げ、大地の境界を安定させたと伝えられています。つまり、この海を流れる海流そのものが、世界を守る一本の巨大な魔導回路なんです」
「潮紡ぎの聖女、か」
マストの根元で腕を組んでいたヴァルドが、プラチナの瞳を細めて水平線を見つめた。
その金髪は海風に乱れ、かつて大院長の息子として冷徹に纏っていた近寄りがたい気品は、どこか吹っ切れたような清々しさを帯びていた。
「長閑なクルーズ気分でいられるのも今のうちだぞ。……見ろ、遥か南の水平線を。あの異様な大気の歪みを」
ヴァルドの言葉に、ルークも視線を凝らした。
ルークのオッドアイ——左の黄金の瞳が、水平線の向こう側を捉える。
穏やかな青海原の遥か彼方、海面と空の境界線が、まるで鋭利な刃物で乱暴に引き裂かれた布のようにグニャリと歪んでいた。
海水の青が唐突に途切れ、底知れぬ漆黒と紫色の霧が、空を食い破るように立ち昇っている。
「……あそこが、南の深帷域ですね」
「ええ」
操舵室から、太い煙管をくわえたオルカ・サージが重い足音を響かせて歩み出てきた。
褐色の肌、鋭い琥珀色の隻眼、そして肩に担いだ無骨な魔導測深器。
今回は『繕い屋』の移動要塞アイアン・キルト号を帝都の復興支援に残し、オルカ自らが精鋭の船大工たちを率いてこの船の舵を握ってくれていた。
「『海淵の裂け目』。海そのものが千尋の深淵へと吸い込まれ、空間の編み目が解けかかっている海域さ。あそこへ近づけば、コンパスも狂い、船の魔導機関もまともに動かなくなる。かつてステラ様も、あの海域の修繕には相当手を焼いていたよ」
「母さんも、ここへ来たことがあるんですか?」
ルークが振り返る。
「ああ。十六年昔、あそこの大裂け目を応急処置するために、ステラ様はこの海で一ヶ月以上も船上生活を送っていたのさ。……お前を身ごもる少し前の話だ。あの人は言っていたよ。『海のほつれは、大地のほつれよりも気まぐれで、そして寂しがり屋だ』ってね」
煙管から立ち上る紫煙を海風がさらっていく。
母ステラがかつて見つめていた海。
ルークが右手に触れた古い革の指貫が、まるで母の記憶に共鳴するように、トクンと微かな脈動を返してきた。
その時だった。
ゴォォォォォォォォォン……ッ!!
突如として、海底の奥深くから、骨身に染み入るような悲痛な重低音が響き渡った。
金属を擦り合わせるような、あるいは巨大な怪物が咽び泣くような、胸を締め付ける重々しい咆哮。
同時に、シープ・パッチ号の船体が大きく右へと軋み、穏やかだった海面に直径数十メートルの巨大な渦潮が次々と発生し始めた。
「な、何事だ!? 暗礁か!? それとも海流の異常か!?」
ガレットが甲板に足を踏ん張り、剛剣の柄を握りしめる。
「違います! この巨大な生体魔力反応……海底三千メートルの超深海から、何かが超高速で浮上してきます!」
ミーシャの魔導羅針盤の針が狂ったように回転し、警告の赤い光を激しく明滅させた。
ドバババババババッ!! ザバァァァァァァァァァンッ!!
船の右舷わずか百メートルの海面が爆発し、天を突くほどの巨大な白波とともに、途方もない巨影が姿を現した。
水飛沫が雨のように甲板へと降り注ぐ。
水煙の向こうから現れたのは、全長八十メートルを優に超える、超巨大な蒼白の鯨だった。
しかし、その姿は通常の海洋生物とは明らかに異なっていた。
滑らかな皮膚の至る所が、まるで絹糸で編まれたかのような美しい幾何学の織紋で覆われており、巨大な胸ビレからは無数の青白い光の魔糸が海中へと幾筋も垂れ下がっていた。
背中には古代の機織り機のような水晶の突起が並び、海流の魔力を調律するように微かに発光している。
「古代の守護魔導獣……『機織りの鯨』!?」
ミーシャが息を呑み、眼鏡を濡らしながら叫んだ。
「原初の時代から、南の海の結節点を守り、海流の魔糸を整え続けてきた伝説の聖獣です……! でも、どうしてこんなところで暴れているんですか!?」
ブフォォォォォッ!!
鯨の頭頂部の潮吹き孔から噴き上がったのは、清らかな海水ではなかった。
ヘドロのように黒濁したほつれの瘴気が、毒霧となって空を覆い尽くす。
狂乱の叫びを上げながら、巨鯨が巨大な尾ビレを天高く振り上げた。
厚さ数メートルの肉の塊が、シープ・パッチ号を木っ端微塵に叩き潰そうと、轟音を立てて振り下ろされる!
「総員、衝撃に備えろォッ!!」
オルカが操舵輪を力任せに回すが、荒れ狂う引き波に捕らえられ船体が垂直近くまで傾ぐ。
「迎撃するぞ!」
ヴァルドが全身にプラチナの雷光を滾らせ、ガレットが紅蓮の炎を剣に纏わせる。
「待って! 攻撃しちゃダメだ!!」
ルークの悲痛な叫びが、暴風の吹き荒れる甲板に響き渡った。
「ルーク!? あの巨体で直撃を受けたら、船ごと真っ二つよ!」
セラが両手を掲げ、氷の防壁を展開しようと叫ぶ。
「見て、セラさん! あの鯨の右ヒレの根元を……よく見て!」
ルークの左の金瞳が捉えていたのは、巨鯨の苦しみの正体だった。
激しく暴れる鯨の右ヒレの付け根。
そこには、太い錆びた鉄鎖のような、禍々しい黒紫色の破断魔糸が幾重にも食い込み、肉を骨に達するまで深くえぐり取っていた。
何百年も昔の難破船の残骸か、古代の防衛結界の残骸が、経年劣化によって悪性の『ほつれ』へと変質し、生きている鯨の肉体と魔力回路を締め上げ、狂わせているのだ。
巨大な瞳からは、痛みと狂乱に濁った大粒の涙が、海へとこぼれ落ちていた。
「あれは……昔の呪われた残骸が、ほつれになって絡みついているんだ! 敵じゃない……苦しくて、誰かに助けてほしくて暴れているだけなんだよ! あんなの……絶対に痛い! 息もできないくらい苦しいはずだ!」
ルークの胸が、激しく疼いた。
かつて「出来損ない」と呼ばれ、誰からも理解されずに孤独に泣いていたエッジタウンの自分。
壊れたものを、痛むものを、決して見捨てない。
それこそが、母から受け継ぎ、仲間たちと共に歩んできたルーク・アスキスという仕立て屋の存在理由だった。
「僕が……あの絡まった糸を解いて、傷を縫い合わせる!」
「海の上よ!? 足場もないのに、どうやってあの巨体に取り付くつもりなの!?」
ガレットが叫ぶ。
「セラさん!」
ルークは隣の少女の青い瞳をまっすぐに見つめた。
「僕を、あの鯨のヒレまで連れて行ってくれませんか?」
セラは一瞬息を呑み、それからふっと、世界で一番誇らしげな微笑みを浮かべた。
「……本当にお人好しなんだから。巨大な鯨まで仕立て直す気? ……いいわ、私の氷を使いなさい!」
セラが両手を海へと突き出した。
銀髪が眩い光を放ち、彼女の指先から極限まで純度を高めた氷の魔糸が、海面を滑るように紡ぎ出される。
「『氷織り・海上の滑走路』——!!」
バチバチバチッ! と凍結音が響き渡り、激しく揺れるシープ・パッチ号の甲板から、巨鯨の右ヒレの付け根へと向けて、幅一メートル、厚さ三十センチの強固でしなやかな氷の架橋が一瞬にして編み上げられた。
「行って、ルーク! 波の衝撃は私がすべて受け止めるわ!」
「ありがとう、セラさん!」
ルークは迷わず氷の橋へと飛び出した。
吹き荒れる塩の飛沫と、鯨の吐き出す黒い瘴気の嵐。
滑りやすい氷の上を、ルークは全速力で疾走する。
その右手には母ステラの革の指貫、そして手首の銀のブレスレット——ギルフォードから託された『原初の裁断刃』が、カッと眩い白銀の輝きを放った。
「暴れないで……もう大丈夫だからね!」
ルークは氷の橋の先端から大跳躍し、巨鯨の右ヒレの皮膚へと飛び移った。
ぬめりのある皮膚に片手を突き立て、左の金瞳を限界まで見開く。
肉をえぐり、魔力回路を締め上げる黒紫色の呪縛糸。その数千本の絡まり合った結び目の中心——『解くべき急所』が、ルークの瞳にはっきりと浮かび上がった。
「解糸——痛みの結び目を捉えよ! 裁糸——『原初裁断・白銀の一閃』ッ!!」
キィィィィィィィンッ!!
ルークが手首を翻した瞬間、原初の裁断刃から放たれた極小の銀の光刃が、鯨の肉を傷つけることなく、食い込んでいた悪性の破断魔糸だけを綺麗に切断した。
長年鯨を苦しめていた黒い鉄鎖のような呪縛が、パラパラと音を立てて解け、海中へと剥がれ落ちていく。
「そして……接糸!」
ルークは母の指貫から、清らかなエメラルドグリーンの光を放つ治癒の魔糸を紡ぎ出した。
十メートルにも及ぶ巨大な傷口。えぐり取られた皮膚と、断裂していた生体魔力回路を、ルークは空中に舞うように動きながら、一針、一針、力強く、そして温かく縫い合わせていく。
パチンッ! パチンッ!
心地よい針の音が響くたび、ルークの温かな魔力が鯨の全身へと染み渡っていく。
激しく暴れていた鯨の巨体が、フッと力を抜き、穏やかな凪のような静寂が海を包み込んだ。
やがて、傷口は完全に塞がり、鯨の皮膚には美しい七色のパッチワーク模様の縫い目が刻まれた。
ポッ……
傷の痛みが完全に消え去った瞬間、巨鯨の琥珀色だった瞳が、深く澄み渡った瑠璃色へと戻っていた。
『グォォォォォォォォォォォォン……』
大気を震わせるような、甘えるような優しい鳴き声。
巨鯨はルークをそっと乗せたまま海中へと潜り、シープ・パッチ号の真横へと優雅に浮上した。
甲板へと飛び戻ったルークの目の前で、鯨はブフォォォォォッ! と高く、高く、天を突くような潮を吹き上げた。
太陽の光を浴びた潮吹きは、空に巨大な七色の二重の虹を架けた。
それは、世界で一番大きな生き物からの、心からの感謝の贈り物だった。
「す、すげえ……! おい、見ろよあの虹! あの狂暴な伝説の魔導鯨が、まるで甘える子犬みたいになってやがるぞ!」
ガレットが目を丸くして叫ぶ。
「手懐けたんじゃないよ」
操舵室から降りてきたオルカが、満足そうに煙管を鳴らした。
「直してやったのさ。壊れていた体をね。……ステラ様の息子は、やっぱり大した仕立て屋だよ」
「ルーク……お疲れ様」
セラが歩み寄り、麻布のタオルでルークの濡れた髪と額を優しく拭ってくれた。
「怪我はない? 無茶ばかりするんだから」
「へへっ、かすり傷ひとつないよ。ありがとう、セラさんの氷の橋が完璧だったからだよ」
「……もう、調子いいんだから」
セラは照れくさそうに微笑みながら、そっとルークの手を握りしめた。
鯨は嬉しそうに尾ビレで波を叩くと、シープ・パッチ号の舳先の先へと泳ぎ出し、まるで船を護衛するように、一定の速度で南の海を先導し始めた。
鯨の巨体が切り拓く航路は、周囲の荒れ狂う渦潮を鎮め、滑らかな一本の海の道を作り出していた。
「見て、ルークさん!」
ミーシャが望遠鏡を覗きながら声を上げた。
鯨が導く航路の先——エメラルドグリーンの珊瑚礁に抱かれた無数の島々が、夕暮れの陽光に照らされて金色に輝いていた。
南大陸の外郭を成す群島国家『ペルラ諸島』。
そしてその中央の島に、白亜のドームと天を突く尖塔を持つ、巨大な神殿の姿がはっきりと見えていた。
「あれが……ペルラ諸島。三本目の原初の遺物が眠る島だね」
ルークが拳を握りしめる。
海の聖獣に導かれ、少年少女たちの新たな修繕の航海は、南の群島国家へと力強く漕ぎ出していった。




