第51話:仕立て屋の診療所
あの大決戦から三日。
王立紡術院の白亜の大講堂では、帝国最高評議会と紡術院合同の「名誉回復記念式典」が厳粛に執り行われていた。
登壇した臨時大院長代行のレイラ・ファーストが、威厳に満ちた声でルークたち五人の反逆罪撤回と特別勲章の授与を高らかに読み上げ、貴族や議員たちの拍手が鳴り響いている。
——だが、その主賓席には、肝心の主役の姿がなかった。
「……ふう。やっぱり、あんな窮屈な場所は僕には向いてないや」
中庭の木陰。初夏の柔らかな風がそよぐ草の上に座り込み、ルーク・アスキスは大きな伸びをした。
式典用の豪奢な正装は脱ぎ捨て、着慣れた繕組の作業着。
右手には、いつもと変わらない母の古い革の指貫と、ギルフォードから託された銀の裁断刃がブレスレットとなって静かに光っている。
「やっぱりここにいたのね、脱走犯さん」
鈴を転がすような声とともに、木漏れ日を浴びて現れたのはセラだった。
セラもまた、式典用の重苦しいドレスではなく、白と淡い水色の清楚な私服姿。
手には湯気の立つハーブティーが入った二つの陶器のカップが握られていた。
「セラさん! あっちの式典、抜け出してきちゃったんですか?」
「当たり前でしょう。あなたがいない式典なんて、ただの退屈な貴族の社交辞令よ。……はい、お茶」
「ありがとうございます!」
カップを受け取ると、指先が触れ合い、セラはフッと頬を緩めた。
かつて氷のように冷たく張り詰めていた表情は完全に消え去り、今のセラの笑顔は春の陽だまりのように穏やかだった。
「ヴァルシュタイン家からの勘当も、正式に取り消されたそうですね」
「ええ。父から直筆の謝罪状が届いたわ。『一族に戻ってきてほしい』ってね。……でも、断ったわ」
「えっ……断っちゃったんですか?」
ルークが驚いて目を丸くする。
「当然よ」
セラはルークの隣に腰を下ろし、そっと肩を触れ合わせた。
「私はもう、ヴァルシュタイン家の完璧なお人形じゃないもの。……私は、繕組のセラ。世界で一番腕の良い仕立て屋さんの、専属の助手なんだから」
「専属の助手……えへへ、すごく心強いです」
「ふふ、お給料は弾んでもらうわよ?」
からかうように微笑むセラの青い瞳に見つめられ、ルークは照れ隠しに熱いハーブティーを一気にすすった。
命懸けで世界を縫い繋いだ先に手に入れた、穏やかで愛おしい日常のひととき。
* * *
だが、その平穏は長くは続かなかった。
「おい、ルーク! こんなとこでサボってんじゃねえぞ!」
中庭の向こうから、ガレットが大声を上げながら走ってきた。
その後ろには、山のような書類を抱えたミーシャと、珍しく困惑した表情を浮かべたヴァルドの姿もあった。
「ガレット、どうしたの? そんなに慌てて」
「どうしたじゃねえよ! 繕組の実習棟を見に行ってみろ! とんでもねえことになってるぞ!」
ルークたちが実習棟へと向かうと、そこには信じがたい光景が広がっていた。
中庭から実習棟の入り口を通り越し、中央噴水広場まで続く、果てしない人の列。
並んでいたのは、紡術院の生徒たちだった。
それも、かつてルークを「出来損ない」「無能」と嘲笑していた上級クラスの生徒や、貴族の子弟たちまでが、真剣な面持ちで並んでいたのだ。
「な、なんですか、これ……!?」
「ルークさんの『診療所』を求めて集まった生徒たちですよ!」
ミーシャが手帳を開いて説明する。
「帝都決戦でルークさんがアーヴェル元大院長やギルフォード総隊長の『壊れた魔力回路』を修繕したという話が、一瞬で学園中に広まったんです。……無理な鍛錬で魔力回路を焼き切ってしまった生徒や、先天的に魔糸が絡まってうまく織れない生徒たちが、藁にもすがる思いで殺到しているんです!」
「俺とヴァルドで整理券を配ってるんだが、さっきから増える一方だ!」
ガレットが悲鳴を上げる。
「……父の独善的な規律教育の犠牲者たちだ」
ヴァルドが静かに目を伏せた。
「完璧を求められるあまり、自らの体を壊して脱落していった者たちが、この紡術院には何百人もいる。……ルーク、お前の力で、彼らを救ってやれないか」
ルークは並ぶ生徒たちの顔を見渡した。
かつて自分を嘲笑った生徒の姿もあった。
だが、その瞳に宿っているのは傲慢さではなく、魔術を失うことへの怯えと、深い後悔だった。
「……うん! もちろんやるよ!」
ルークはエプロンを締め直した。
「壊れた魔道具も、痛んだ体も、直すのが僕の仕事だからね!」
* * *
実習室の中は、即席の『仕立て屋の診療所』となった。
「次の方、どうぞ!」
セラの呼び声で入ってきたのは、二年生の男子生徒だった。
火織りのクラスで優秀だったが、半年前に魔力を暴走させて以来、右腕の魔力回路が完全に麻痺していた。
「あ、あの……ルーク君。昔、君のことを悪く言って本当にすまなかった。……俺のこの腕、もう二度と火を織れないって医務室で言われて……」
「大丈夫ですよ。怒ってなんていませんから」
ルークは優しく微笑み、生徒の右手を両手で取った。
「失礼しますね。——解糸」
ルークの左の金瞳が光を宿す。
生徒の腕の皮膚の下を流れる、無数の赤色の体内魔糸。
肘のあたりで魔糸が酷く毛玉のように絡まり合い、黒く焦げ付いた結び目ができていた。
(これだ……無理に高密度の火を織ろうとして、糸が窒息して結び目が壊れているんだ)
ルークは右手にはめた母の指貫に意識を集中させた。
大決戦を経て、ルークの継ぎ接ぎ魔術は新たな領域——【体内魔糸の修繕】へと覚醒していた。
「少しチクッとしますよ。——裁糸」
ルークの指先から放たれた極微細な銀の光刃が、焦げ付いた不要な結び目だけを、肉体を傷つけることなく精密に切除する。
「そして……接糸!」
切断された魔糸の末端に、ルークの温かな白銀の魔糸が割り込み、パッチワークのように新しい通り道を縫い合わせていく。
絡まっていた火の魔糸が、まるで清らかな小川のようにスルスルと解け、滑らかに循環を再開した。
ポッ……
生徒の指先から、小さく、温かな赤い炎が灯った。
半年間、ピクリとも動かなかった腕から生まれた、奇跡の火。
「あ……あ……火が……俺の火が、戻った……!?」
男子生徒の目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
「直った……本当に直ったぞ……! ありがとう……ありがとう、ルーク君……!!」
「よかったです! でも、まだ繋いだばかりですから、一週間は強い魔術を使っちゃダメですよ」
深々と頭を下げる生徒を見送り、ルークは額の汗を拭った。
隣でカルテを整理していたセラが、愛おしそうにルークを見つめる。
「お見事ね、ルーク。魔力回路の外科手術だなんて、宮廷魔導医でも不可能な神業よ」
「へへっ、神業なんかじゃないよ。絡まった毛糸を一本ずつ解いて、千切れたとこを繋いだだけさ」
その後も、ルークは夕暮れまで何十人もの生徒たちの魔力回路や、壊れた大切な魔道具を修繕し続けた。
かつて「出来損ない」と蔑まれていた実習棟は、いまや感謝の涙と笑顔が溢れる、学園で最も温かい場所に変わっていた。
* * *
夜。
診療所の受付を終え、実習室に静けさが戻ってきた。
疲れ果てたガレットがソファに倒れ込み、ヴァルドが淹れたてのコーヒーを配る中、ミーシャが一冊の重厚な古代文献を机の上に広げた。
「皆さん、お疲れ様でした。……ですが、ここからが本題です」
ミーシャの真剣な声に、ルークたちも姿勢を正した。
「帝都の地下【オリジン・ノット】から回収した古代記述の解析が、ようやく完了しました」
ミーシャがページをめくると、そこには古代の七つの紋章と、世界地図が描かれていた。
「アーヴェル元大院長を救い、帝都の結節点は安定しました。ですが……世界の世界帷の崩壊そのものは、止まっていません」
「崩壊が……止まっていない?」
ルークが眉を寄せる。
「はい。数千年前、世界を縫い合わせた『原初の七人の紡ぎ手』は、それぞれ異なる【原初の七針】を用いて、世界各地の巨大な裂け目を塞ぎました。……ルークさんの持つ『指貫』、ギルフォードさんから託された『裁断刃』。それは七つの遺物のうちのふたつに過ぎません」
ミーシャの指が、世界地図の未踏域——南の海上、北の凍土、そして東の霊峰を指し示した。
「現在、残る五つの結節点でも、経年劣化による大規模なほつれの活性化が始まっています。……このまま放置すれば、あと数年で外大陸から世界帷が剥がれ落ち、世界は完全にバラバラになってしまいます」
「五つの原初の遺物を集め、世界中の結節点を縫い直す必要がある、ということか」
ヴァルドが呟く。
「はい。そして、その『万象の修繕』を成し遂げられるのは……原初の継ぎ手の力を受け継ぐ、ルークさんしかいません」
実習室に、心地よい沈黙が落ちた。
重い使命。
けれど、誰一人として怯えた表情を浮かべる者はいなかった。
「望むところだぜ!」
ガレットが拳を打ち鳴らした。
「帝都を守れたんだ、世界中を回って全部縫い直してやろうじゃねえか!」
「ええ。どこへだって、一緒に行くわ」
セラがルークの瞳をまっすぐに見つめ、優しく微笑む。
「僕たちの旅は……ここからが本当の始まりなんだね」
ルークは右手にはめた母の指貫をギュッと握りしめた。
出来損ないと呼ばれた少年と、かけがえのない仲間たち。
壊れた世界を巡り、人々の心を繋ぐ『世界の仕立て屋』たちの壮大な旅路が、今、新たな地平へと向けて力強く動き出した。




