第49話:帝都への進軍
アイアン・キルト号の甲板を吹き抜ける風が、徐々に土と石の匂いから、石畳と煤煙の混ざり合う都会の匂いへと変わりつつあった。
東の地平線に、かつてルークたちが逃げ出した白亜の巨塔——王都グランディスの輪郭が、夕暮れの空に浮かび上がってくる。
だが、その景色はルークたちの記憶にある美しい学園都市とは、まるで別物へと変貌していた。
「……あれは、何ですか……?」
甲板の舳先で、ミーシャが双眼鏡を構えたまま息を呑んだ。
帝都の上空全体を覆い尽くしていたのは、不吉な紫黒色の巨大な魔術ドームだった。
何千、何万本もの光の帯が、市街地全域から蜘蛛の糸のように立ち昇り、紡術院の天頂に浮かぶ巨大な幾何学構造物へと吸い上げられている。
天空でゆっくりと回転する、直径数百メートルの巨大な光の輪——古代魔導兵器『神衣織機』。
「強制抽出結界……市街地に住むすべての人間から、生命魔力を無差別に吸い上げているんだ」
ヴァルドが拳を甲板の手すりに叩きつけた。
そのプラチナの瞳には、かつてない怒りと悲哀が滲んでいた。
「父は……アーヴェルは、帝都の数十万の民を、自らの『大織直し』を起動するための燃料の糸としてしか見ていない。……すでに街の人間は、立ち上がる魔力すら奪われて倒れ伏しているはずだ」
「酷すぎる……! こんなの、救済なんかじゃない! ただの虐殺よ!」
セラが唇を噛み締め、怒りに肩を震わせる。
「ああ、許せねえ。とっとと突っ込んで、あの大院長をぶん殴ってやるぜ!」
ガレットが剛剣を地面に突き立て、闘志を露わにする。
だが、ルークは静かに目を閉じ、胸元に手を当てていた。
その右腕には、母ステラの古い革の指貫とともに、ギルフォードから託された『原初の裁断刃』が、銀色の腕輪となって装着されていた。
ギルフォードの絶対切断の魔力と、ルークの『裁糸』。
相反するはずの二つの力が、ルークの温かな魔力を介して溶け合い、指先から微細な白銀の波紋となって大気を震わせていた。
「ルーク……準備はいいの?」
セラがそっと隣へ寄り添い、声をかける。
「うん。……大丈夫だよ、セラさん」
ルークは目を開け、澄んだオッドアイで帝都を見据えた。
「ギルフォードさんの刃は、冷たく切り裂くためのものじゃない。世界の歪んだ結び目を解き、正しい糸に戻すための『鋏』なんだ。……僕に、使えるよ」
ルークの手首から放たれる魔力は、以前のように一本ずつ糸を切る繊細なものから、広範囲の術式構造を瞬時に見極めて断ち切る『広域裁糸』の領域へと進化を遂げていた。
壊すための力ではなく、救うために解く力。
出来損ないと呼ばれた少年は、旅路の中で仲間たちと出会い、強敵と心を通わせることで、真の『世界の仕立て屋』へと成長していた。
「ヴァルドさん」
ルークは隣に立つヴァルドへと向き直った。
「……何だ」
「約束します。僕は……アーヴェル大院長を殺しません。あなたの父親の心を、壊れたまま終わらせたりしない。……僕の針で、必ず縫い直してみせます」
ヴァルドは目を見開き、それからフッと自嘲するように息を吐いた。
「……つくづく、お人好しだな、貴様は。相手は神を気取る暴君だぞ」
ヴァルドはそう言いながらも、右手の手袋を強く握り直した。
「だが……頼む、ルーク。父の狂気を止めてくれ。……俺たちの手で」
「はい!」
* * *
ヴォォォォォォォンッ!!
アイアン・キルト号の巨体が、帝都の外郭城壁へと向けて突進を開始した。
八本の巨大な多関節脚が石畳を粉砕し、地鳴りのような重低音が鳴り響く。
「野郎ども、総員突入準備だよ!」
御者台でオルカが巨大な擲弾筒を構え、吠えた。
「帝都の外郭防衛線をぶち破る! お坊ちゃんたちを紡術院の正門まで送り届けるのがアタシらの役目だ! 弾薬を惜しむんじゃないよ!」
ドガガガガガッ! ズドォォォォンッ!!
城壁の上に配置されていた帝都防衛軍の魔導砲が一斉に火を噴き、アイアン・キルト号の装甲に炸裂する。
しかし、要塞のパッチワーク装甲はルークと職人たちが修繕・強化した至高の防護布。砲撃の衝撃を幾重にも分散し、ものともせずに前進を続ける。
「正門前、敵の防衛部隊が展開しています!」
ミーシャが叫ぶ。
紡術院の正門前広場には、漆黒の魔導鎧に身を包んだ百人を超える正規紡術師の精鋭部隊と、十体もの巨大な重装魔導ゴーレムが立ちはだかっていた。
彼らの瞳は虚ろな紫色に濁り、意思を奪われた操り人形のように一斉に魔術の杖を掲げる。
『排除セヨ……大院長様ノ……完全ナル織リ直シヲ妨ゲル者ヲ……排除セヨ……』
「操られているのか……!? 全軍がアーヴェルの精神支配の魔糸で縛られている!」
ガレットが歯噛みする。
「この数……真正面から突破するには、時間がかかりすぎるわ!」
セラが氷の矢を番えるが、敵ゴーレムの重厚な魔術障壁に阻まれる。
アイアン・キルト号の突入速度が落ちかけた、その時だった。
「——誰に時間をかけさせるつもりかしら、出来の悪い操り人形ども!」
凛とした、懐かしい女傑の声が、広場の天蓋に響き渡った。
「え……!?」
ルークが顔を上げた。
正門の左右の石柱の上から、無数の眩い鋼鉄の魔糸が降り注ぎ、前衛のゴーレム三体の関節を一瞬で絡め取った。
ギチギチと音を立ててゴーレムの動きが封じられる。
舞い降りてきたのは、破れた教官服をなびかせ、鋼織りの大剣を肩に担いだ女性——レイラ・ファーストだった!
「レイラ教官!!」
ルークたちが歓喜の声を上げる。
「無事だったんですね……! 憲兵隊に拘束されたはずでは……!?」
セラが身を乗り出す。
「ふん、あの程度の牢獄、私の鋼糸で切り刻んで脱出するなんて朝飯前よ!」
レイラは不敵に笑い、親指で背後を指した。
「それに……戦っているのは、あなたたちだけじゃないわよ!」
ドッ、と正門の脇の回廊から、何十人もの人影が武器や魔導具を手に飛び出してきた。
「ルーク先輩! セラ様!」
「僕たちの街を、大院長なんかに壊させないぞ!」
「仕立て屋のルーク! お前に直してもらったこの魔道具で、道を開けてやる!」
そこにいたのは、王立紡術院の落ちこぼれクラス『繕組』の生徒たち、下級紡術師たち、そしてルークがかつて魔道具や織紋を修繕して救ってきた、無数の学友たちだった!
「みんな……!」
ルークの胸が熱くなる。
かつて「出来損ない」と嘲笑われていた少年が、見捨てずに繋いできた人々の絆が、今、最大の力となって押し寄せていた。
「行ぎなさい、ルーク!」
レイラが大剣を振るい、ゴーレムの頭部を叩き割った。
「生徒たちにかけられた精神支配の糸は、私たちが外側から食い止める! あなたたちは、地下最深部の【オリジン・ノット】へ急ぎなさい! アーヴェル大院長の野望を……その手で断ち切ってきなさい!」
「はいッ!!」
ルークはアイアン・キルト号の甲板を蹴り、仲間たちとともに広場へと飛び降りた。
レイラと生徒たちが作ってくれた一本の道を、五人は風のように駆け抜ける。
正門を突破し、白亜の校舎を抜け、かつて地下裂け目を調査した巨大な螺旋階段へ。
深く、深く、世界の心臓部へと続く暗黒の地下空洞へ向けて、ルークたちは迷いなく飛び込んでいった。
* * *
螺旋階段の最下層。
重厚な古代の封印扉を押し開けた瞬間、五人の息が止まった。
そこは、果てしなく広がる地下の星空のような大空洞だった。
空洞の中央には、天を支える巨樹のようにそびえ立つ、純白の光で編まれた巨大な魔導構造物——【オリジン・ノット(天球の機織り場)】。
そしてその織機の中心壇上に、一人の男が静かに立っていた。
純白の法衣に身を包み、全身から一切の淀みのない絶対完全の魔力を放つ男。
王立紡術院大院長——アーヴェル・グラン。
男はゆっくりと振り返り、冷酷な光を湛えた双眸で、ルークたちを見下ろした。
「……よくここまで辿り着いたな、出来損ないの鼠ども。そして……愚かなる我が息子よ」
世界の運命を賭けた最終決戦の幕が、今、静かに切って落とされたのだった。




