第09話 ◇森界へ〈三〉:大樹幹路
明るい日差しを瞼に受けて、カエデはすぐに目を覚ました。
最初に瞳に映ったのは緑。
次に映ったのも緑。
見渡す限りの緑、緑、緑。
生い茂る草木。雄大な山河。
どこまでも続く空色も、流れる雲の白色も、堅い足元の土色も、すべてが緑を引き立てていた。
そして振り返る。
まるでそうするのが自然であるかのように。
決して、意図してではなく。
運命に導かれて、カエデは振り返った。
「……これが」
深く息を吐いて、カエデは静かに見入る。
否――魅入られて、いた。
世界樹。
それは空より高く思える巨木だった。
世界樹。
それは雲より深く若葉を茂らせていた。
世界樹。
それは大地より堅い幹を持っていた。
――これが、世界樹。
生まれて初めて見た、壮大過ぎる自然にカエデは、たったそれだけの言葉すら言い尽くすことができなかった。
嗚呼、しかし。
嗚呼――しかし生憎折悪しく、カエデは視界の隅に黒い影を見た。
それは瞬く間に膨らみ、存在感を増し――つまり影は、カエデに近付いていた。
横に細く広がる身体を持ち、小さく何かを垂れ下げている。
遠目には黒一色で分かりにくかったが、それらが翼と足であるとカエデはすぐに理解した。
そして陽光を受け、きらりと光る眼差しと嘴。
脳が影を、一羽のカラスだと判じると同時、カエデの思考に危機感が生まれる。
一直線にカエデへ向かうその身体は……あまりにも、巨大だった。
「っ――魔物か!!」
荘厳な世界樹から、敵意の一つへと思考が切り替わる。だがそれは、感覚としては『引き戻された』に近い。
おそらくそれは、誰もが体験したことのあるもの。
恍惚を。耽溺を。没頭を。
無粋な横槍によって妨げられる。
そういうときカエデは、怒りを覚えるタイプの人間だった。
おまけに原因は魔物。情けも容赦も必要ない。
だから。
カエデは怒りのまま紙切れを取り出す。
そして紙の先から、魔力の刃が伸びた。
されば魔物に未来はない。
たとえ怒りに打ち震えようと。
たとえ寝醒めの身体であろうと。
彼女は刃の継承者。
一合と、数えることすら烏滸がましい。
物悲しいほど呆気なく、カラスの魔物は屍になった。
「……なんだったのじゃ、一体」
目が覚めたのは大自然のベッドの上。
いるはずの同伴者は見当たらず、魔物に襲われる始末。
はぐれたと見るべきか、置き去りにされたと見るべきか。
時間にして数十秒ほど。
カエデが思案していると、背後で草むらを掻き分ける音がした。
「ふうっ、いいお湯だった」
そして現れたアルキスは、呑気にそんな台詞を吐いた。
「『いい湯だった』……ではないわ! 無防備な人間を魔物が跋扈する場所に放置して湯浴みなど、どういう神経をしておるのじゃ!?」
「どういう神経って……ちゃんとあのカラスが出たときは狙ってたわよ」
ぴっ、とアルキスが木々の間を指差す。
否、正確には間ではない。
木々の隙間の最奥には、僅かではあるが水面の反射があった。
距離にして百メートル前後。
「木と木の間が腕一本分もないではないか! そんなところ、を、狙える、わけが……」
カエデの言葉が尻すぼみに、力を失っていく。
喋っている途中に、己が過ちに気付くなど、よくあることだ。
「……そう。そうじゃったな。お主はアルキス・バルダインであった」
カエデは知っている。
たった百メートル程度なら、アルキスは跳んだり走ったりしながらでも目玉を射抜くような射撃ができることを。
「最近は突拍子もない話ばかり聞いていたからのう。くっくっく。影が薄いそなたの実力を、すっかり失念しておったわ」
ついでに煽るような台詞も付け足すのは、カエデの性というべきか、なんというか。
しかし残念ながら、その言葉は彼女が期待していたほどの効果を表さなかった。
「あんたねえ。……まあいいわ。そんなことを言われないために……言わせないために、あたしは森界へ来たんだから」
「ほう?」
カエデが口端を吊り上げる。
面白いものを見つけたときの邪悪な笑みだ。
「言ってなかったかしら。ここへ来たのは、あたしがもっと強くなるためよ」
◆◆◆
「『あたしがここへ来たのは、もっと強くなるためよ』」
何度目かも分からない声真似をしながら、カエデは岩壁のような幹を登る。
わざわざその台詞を選んだのは、今のところ『もっと強くな』りそうな目に遭っているのがカエデだけだからだ。
「あんまり繰り返すと置いていくわよ」
飛び寄ってきたカラスの魔物が射抜かれると同時、気の強い声が降ってくる。
既に三日。
道は半ばにも至らず。
頭上にはアルキス。
ジンならば眼福のあまり幹から滑り落ちそうな光景が広がっているが、カエデは現在それどころではない状況に陥っていた。
幼女ボディゆえに手足は短く。
ついでに言えばそのせいで身体能力が刃術師の中で最低に位置する彼女は、森人のように魚が泳ぐような速度で木登りはできない。
おまけにカエデはアルキスとは違って、木に張り付いたまま自衛する手段がなかった。
なにせ四肢の塞がる木登り中だ。地上にいるときのようにすれ違いざまに斬り捨てることもできない。
だから魔物に狙われ放題になっている。
「ああっ、もう鬱陶しい! カラスは賢いんじゃなかったの!?」
アルキスの声を荒げさせたのは、何度目かも分からない黒翼の襲撃だ。
カエデが動けない現状、アルキスの弓および奇跡だけが防衛戦力なので負担もそれだけ大きくなる。
ただその負担は体力的なものではなく、精神的なものだ。
魔物の襲撃は単騎によるもの。
一度の戦闘に限って言えば、連中はアルキスの敵ではない。脳を射抜かれれば死ぬ生き物が、馬鹿正直に直線で迫るなど射撃練習としても下の下だ。
ただしそれが、日中ずっと続くとなれば話は別。
平均すれば十数分に一度とはいえ、神経を削るには十分なペースだった。
実のところ、単発での襲撃を毎回一撃で墜としているので魔物に学習の余地はないのだが、アルキスはそのことに気付いていない。
まあ学ばせるにしても一匹を負傷させて撤退させた上、仲間を呼んで戻ってきたところを全滅させずに、しかもカエデを守りながら撃退するという手順が何度か必要なので、知っていても彼女は選ばなかっただろうが。
「ぐ、うぐぐぅ……アルキスよ、もう少し楽ができるルートはないのかの……?」
「ないわ。というか、知らないわ。あたしはいつもここしか通らないから」
「魔界でも似たようなことを聞いたのじゃが?」
「似たようなことを言ったもの。それより手足を動かしなさい。本当に置いていくわよ」
弓を放つアルキスを頭上に、カエデは再び四肢に力を入れ直す。
見上げた若葉の傘は、まだ遠い。
◆◆◆
世界樹を登り始めて七日目、夜。
アルキスとカエデはようやく枝がまばらに生えている一帯に辿り着いていた。
「もう、剥がれかけた樹皮にテントを張らなくて良いのじゃな……」
ぐったりと俯伏せになったカエデが疲れ果てた声で呟いた。
彼女が思い出しているのは樹上、ではなく樹皮上に設えた道中の寝床。
めくれた樹皮と幹本体の隙間を利用したハンモックだ。
自身の精神衛生のために、カエデは意図してそれをテントと呼んでいる。
「悪いけどもうちょっと上まで行くわよ」
枝葉のあるところまで来たとはいえ、目指すのはまだ先。
その事実を突き付けられてカエデの身体からより一層、力が失われていく。
「もうカラスは嫌じゃあ……」
「あたしも飽きてきたわね。でも、朗報があるのよ」
「朗報?」
くるりと仰向けに転がって、カエデは上目遣いで声のほうを見る。
その瞳に、ぴっと指を立てたアルキスが映った。
「あのカラスたち――あたしたちが上に来るほど増えてたでしょう? こんなに辺鄙な場所なのに」
「……なるほどのう?」
それだけの言葉で巣の存在を嗅ぎ付けて、カエデは七日ぶりの邪笑を浮かべた。




