第10話 ◇エルヴンズ・アンド・レイヴンズ
葉のように。
黒羽が散る。
枝のように。
黒翼がしなる。
一枚で二メートル近い翼のはためきは、巻き起こす風だけでなくその直撃すら凶器となる。
しかし距離を取れば、カラスの如き魔物――"業欲の羽"ヴィシャス・スケイルの翼は命奪う風を生み出せる。
ここは森界で最も高い――否、六面世界、どころか両界で最も高い場所にある集落だ。
住んでいるのは森人だけ。
ほとんどが金と茶の混じった髪色の雑種森人だが、まったく茶色のウッド種も混じっている。
ここは世界樹の最新部。
日々成長し、世界の始源より空を目指し続ける天然のバベル、その尖端。
ゆえに森人の戦士たちに退路はなく、阿鼻叫喚の戦いを展開していた。
世界樹に突如として現れた黒飛の群れ。
既に九つ、地表から近い順に他の集落は襲われ、落とされている。
そして今日。
十つ目の集落が――世界樹そのものに住まう森人たちの、その最後の一群れが、その命脈を断たれようとしている。
世界樹を襲っているのは、たった一匹の魔物だった。
名を、"戴罪の蛇"ペルネコア。
ヴィシャス・スケイル――カラス紛いの魔物たちは、その脱皮殻から生まれた眷族に過ぎない。
彼らの生まれる仲間の数は日によって違う。
百匹喪えばちょうど百匹生まれる。
十匹しか喪わなければ十匹しか生まれない。
だから総数は、ずっと六百六十六匹だった。
夜毎繰り返す脱皮。
そこから生まれる総数六百六十六の魔物たち。
黒い波は止まない。
蛇の姿は、まだ見えない。
◆◆◆
名もなきカラスたちが、森人の集落を襲っていた。
自分と同じように生まれた仲間たちと、本能の赴くまま。
ある一匹のカラスは――仮称として、『アルファ』と呼ぶことにしよう――生後六日、今いるヴィシャス・スケイルの中では歴戦と呼んで差し支えない長寿の一匹だった。
かといって、彼らに大した知能の差異はない。
精々が森人どもの動きに、少しばかり早く反応できる程度。
しかし似たような手段、同じような練度しかない森人を縊り殺すには、それだけで充分だった。
だが、この日は違った。
視界に捉えたのは剣、剣、槍、弓、剣、弓。
合計六人。
そのうちの一人、完全金髪の女森人が弓を手に駆けていた。
珍しい。と、考える能はない。
ただアルファの目に、純度百パーセントの金髪は目立った。
それだけ。
剣と槍の届く距離ではない。
もう一人の弓はこちらを見ていない。
当の金髪森人も、こちらへ向かって走っているし弓も握ってはいるものの、まだ撃てる状態ではない。
判断、というより学習だ。
あの状態の森人は弓を射られない。
己の生きた六日間で、アルファはそれを知っている。
だから安全なうちに、その弓使いを切り刻もうとした。
森人が右足を前へ出し、左足で地面を蹴る。
人間が(その種族の割には)高速で移動するときの動きだ。攻撃ではなく移動。
間隙を突いて、アルファが両の翼を大きく後ろへスイングする。
このまま翼を振るえば、風が屍を作り出す――はずだった。
金髪の森人が、右足と一緒に振り上げた左手。握られた弓。
それが最後に見た光景だった。
彼女の右足が再び地面を蹴るより早く。
矢は放たれて、アルファは六日間の生涯を閉じた。
◆◆◆
「なんか、思ってたより弱いわね」
「妾らが強いだけじゃろ。ほれ、見てみよ。あっちの葉の端で弓使いが一匹――」
「あら、本当。でも嘴で突こうとしたのは失敗ね」
言い終えたときには絶命している。
弓使いの森人が、ではなく。
話題に上った彼を襲おうとしていた魔物が、である。
アルキスの射撃によるものだった。
「脚で掴もうとしたのも失敗じゃと言うておらんかったか?」
「頭を分かりやすい軌道で動かしたら全部失敗よ」
「……怖気のするような腕じゃの。あやつらの目玉は人の掌ほどしかないはずじゃが」
ヴィシャス・スケイル――カラスの魔物の羽毛は厚い。
場合によって矢が羽根に絡め取られたり、絡め取られなかったりするのを嫌ったアルキスは、仕方なく魔物の目玉だけを射抜いていた。
「人の掌ほどもあるんだから充分でしょ。指先に当たろうが手首の付け根に当たろうが殺せるって考えれば」
喋り終わるまでの間に、また新たに五匹の魔物が死んでいる。
対してカエデの撃墜数は、戦闘開始からここまで総計して十に満たない。
サボっているわけではない。しかし半径にして二百メートル近い空間を決死圏にできるアルキスと比べると分が悪い。
幼女の身体と紙切れの間合い、確実に殺せるのはそこまで。
残りはちゃんと当たればようやくダメージを与えられるくらいの威力しかない儀霊と、早撃ちには難がある魔法のみ。
申し訳程度に奇跡もあるが、属性が偏っている以外は魔法の劣化版だ。
この戦場では使えない。
「図体の大きいくせにちょこまかと飛び回りおって。鶏肉が食べたくなる忌々しさじゃ」
「あたしは久しぶりに樹液の朝露煮が食べたいわねー」
「それはただの薄めた樹液では……?」
カエデの見解は残念ながら外れている。
朝露は人の知覚でこそ単なる水と変わらないが、栄養価なら数食分のサラダに匹敵し。
樹液は食用油のような味だが、同じく数食分の肉に優る。
つまり薄めた樹液どころか、『完全に混ざった水と油』を煮詰めたような味なのだ。
純・世界樹産なので、栄養的には価値が百点を超えて二百点くらいある――森人が過剰摂取分を世界樹に還元するように、その『水油煮』は人体から過ぎた栄養を奪い去っていく――ことを除けば、あまり口にしたくはないものである。
無論、世界樹を母とする森人たちだけはそんなものでも美味しく頂けるのだが。
「まあ、森人がなんでも美味いと食うのはお主に始まったことではないからのう。気にするだけ無駄かの」
あるいは何もかもを美味に感じるからこそ、朝露煮もそうなのだと、言えるかもしれない。
ともかく。
重要なのはアルキスとカエデが食事の話をしている間に、魔物の生き残り数十匹あまりが撤退を開始したという事実であり。
決して二人が話した食事の内容ではない、ということだけは書き収めておこう。
◆◆◆
森界最高標高、アレム・シャールの村。
世界樹の成長を追うように意欲的な生き方をしてきた彼らは、住民の四半を失った。
武器と防具の被害は大きくない。
唯一、矢弾だけは外れた場合に落下したり、あるいは仕留めても魔物そのものが落下したりと回収が捗らずに損耗が激しかったが、そういう事態も踏まえて備蓄は多いので問題にはならない。
家屋は半数ほどが被害に遭ったものの、防衛施設としての役割を果たした名誉ある損壊がほとんどだったし、元より数年おきに移住を繰り返す彼らにとって建造物の価値は低く、この点において被害は微々たるものと形容できるだろう。
ただ、人手は問題だった。
村の復旧ではなく、戦力という意味で。
アレム・シャールの人々は知っている。
他に滅ぼされた九つの村も魔物の撃退そのものに成功したことはあるのだ。多くは一度、精鋭の多い村ならば数度、アレム・シャールが援軍を送った隣下の村――フェツェ・サリッサなどは両手で数え切れぬほども撃退を繰り返した。
だが、だからこそアレム・シャールの人々は知っている。
夜が明けるたび、連中は再び数を揃えて襲来すると。
そして幾度となく奴らを追い返しても、やがてそれが現れ――すべては終わるのだと。
漆黒の蛇。
無数のカラスと無双の蛇の間に、如何様な契約が存在するのか。
我らは何も知らないのです――と、族長のユナー・シャールが語りを終える。
「それで妾らに力を貸してほしいと。……ふむ。勝手に助太刀したのはこちらじゃが、改めて頼まれるとなると貰うものは貰っておかねばならんの。一応訊いておくが、うぬらは同族を救うために行動はしたのじゃな?」
カエデがぺかりと発光しながら問う。
これは天人の心読みではない、という事実はアルキスだけが知っている。なにせ彼女は混血でこそあれど、心読みの性質そのものを受け継いでいないので。
だからこの発光は、魔法でちょっと肌スレスレに光源を出しているだけだ。
しかし効果はあった。
目の前の老婆――アレム・シャールの村長にして世界樹の森人の族長ユナーは、カエデが光ったのに僅か驚き、慎重を期すように言葉を選ぶ。
「……もちろんです。二つ目の村までは知る由もありませんでしたが。三つ目の村からは物資の援助を、七つ目の村からは戦える者を送りました」
嘘はない。
三つ目の村に届く前にそこは滅ぼされ、命令を果たせなくなった部隊が間抜けにも――と評するのは、些か厳しいかもしれないが――アレム・シャールへと帰り着き、その間に四つ目の村が落ちたとしても。
戦力派遣も七つ目の村には間に合わず、おまけに八つ目の村へ向かう前にその彼らは各個撃破され、結局戦力派遣が成ったのは九つ目の村だけだったとしても。
送ることだけはしたのだから、嘘は言っていない。
あとついでに、心の中でユナーは『試すような真似をして申し訳ありません』とちゃんと考えている。
ユナーがわざわざ回りくどい真似をしたのは試すためだ。
奇跡や魔法でちょっとした発光をする手段があることくらい、彼女だって知っている。
肌が光っているように見せるのは難易度こそ高いが、魔法としては初歩中の初歩だ。奇跡にいたっては最も多情とされる太陽神がそのもの光明の奇跡を授けるのだから、カエデは疑うべくして疑われているのである。
「三つ目。と、七つ目。……くっくっく。そういうことにしておこうかの」
しかしカエデは口端を吊り上げた。
心の仔細までは読めずとも、祓心斬徹があれば心の凪風は読める。
おまけに女王として現役で十年、それまでにも女王になるために二十年近く、こういうテーブルには慣れさせられているのだ。
カエデの邪笑は緩やかに、しかし蝕むように深くなっていった。




