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三話

 私は、ヘドロを出し切った勝手を背に、土間から一段高い濡れ縁の端へフラフラと這い上がった。

 まだ足裏には廊下の脂垢あぶらあかの感触があるけれど、あの排水溝の腐敗に比べれば、今はここがマシである。

 背中を煤けた柱に預け、私は重い瞼を閉じた。


「おい、椿。そんなとこで寝たら凍えるぞ。じいさんの部屋に布団が……」


 榛はそう言いながら、土間から濡れ縁へひらりと飛び乗った。そのまま部屋の奥へ布団を取りに行こうとしたのだろう。

 だが、私は彼の言葉を、力なく、けれど明確に遮った。


「……いりません。……今は、この『水の匂い』だけで、十分ですから」


 差し伸べられかけた親切を、私は正面から、淡々と拒絶した。

 榛は「……やれやれ」と小さく吐息をつくと、穏やかに頭をかいた。


「……分かったよ。なら、寒いからその羽織は脱ぐなよ。いいな。」


 彼はそのまま、開け放たれた襖のすぐ内側

 ――私の背後からほんの数歩、手を伸ばせば届くような板の間に行き倒れ込んだ。

 歪んだ鴨居のせいで、閉まることのない襖。その開いた隙間から、板の間に大の字で寝転ぶ榛の、自分より一回り大きな背中が見える。

 夜の静寂しじまの中、滝の音だけが屋敷を震わせていた。

 私は、彼から借りた羽織の重みを肩に感じながら、そっと目を閉じた。

 鼻腔をかすめる水の匂いに、ほんの少しだけ、獣のような野性味のある、けれど清潔な「彼」の匂いが混じっていた。

 ふと、自分のすぐ傍ら――月光に照らされている濡れ縁の端を見る。

 ……そこには、先ほど私が無造作に投げ捨てた、あの「鍵」が転がっていた。

 私は音を立てずに手を伸ばすと、煤けた板の上で異質な光を放つそれを拾い上げた。

 指先に伝わる、心臓を射抜くような冷感。こびりついた煤を軽く拭うと、闇の中でも彫金が銀色に浮き上がる。

 

(……不気味なほど、清浄な鍵。煤に塗れたこの屋敷でこれだけが異物のように透き通っている。……何故かしら。これに触れている時だけ、胸の奥の動悸が静まる気がするわ)


 私はそれを着物の裾の奥深く、肌に近い場所へと隠し、再び深く眠りについた。


――翌朝。

 東の空が白み始めるのと同時に、私の意識は覚醒した。肺の奥まで洗われるような、早春の清冽せいれつな空気。

 濡れ縁で強張った体をほどく間もなく、私は勝手キッチンへと向かう。

 昨夜、はるが文字通り「根こそぎ」にしてくれたおかげで、流しの周囲に漂っていたあの腐敗臭は消え失せている。

 私は、まだ煤に覆われていた「かまど」の表面を一気に磨き上げた。

 本来の鉄の肌が露出したところで、私は一晩吸水させておいた桶を抱え、昨日磨き上げた流しへと向かう。


(……ああ、水が濁らない。なんて清々しいのかしら)


 清流で米を最後の一研ぎし、準備を整える。あとは火だけだ。

 私は火打ち石を探して辺りを見渡す。


「……ん……椿? 朝か……?……寒っ」


 背後で、板の間に転がって寝ていた榛が、大きなあくびをしながら身を起こした。

 見れば、昨夜のガサツな寝相のせいで、彼の短い髪の片側が不格好に跳ね上がっている。


「榛様、火打ち石はどこですか。そろそろ飯を炊く準備を……」

「火? なんだ、そんなもん探してんのか。貸してみろよ」


 榛は寝ぼけ眼のまま、跳ねた髪をさらにぐしゃりと掻き回すと、ふらふらとかまどの前までやってくると、その大きな掌を焚き口へと差し向けた。


「え……?」


 ボォッ、と低い音がして、彼の掌から青白い炎が溢れ出した。

 熱いはずなのに、どこか冷たささえ感じる不思議な光。


「……何ですか、それは」


 私の驚きをよそに、はるは事も無げに笑った。


「んあ? 『鬼火』だけど。こっちの方が早いだろ?」


 彼が指先を弾くと、その青い火は吸い込まれるように薪の奥へと消え、次の瞬間には、ゴオッ、と力強い黄金色の炎となってかまどを内側から爆発させた。


……綺麗。


 煤けた台所に、突如として生まれた鮮烈な熱量。私はその光に目を細めながら、ふと、この里の「夜」を思い出した。

 私の村では火は貴重だった。夜は早々に寝てしまうのが常識。

 けれど昨夜、私がここへ来た時、里の提灯には煌々と明かりが灯っていた。


「……火打ち石より、よっぽど実用的ですね。」

「里の提灯も同じだよ、人間のところと違ってこの火は特殊でね。」


 榛は、寝癖のついた頭をぽりぽりと掻きながら、黄金色の炎に照らされて白い歯を見せた。

 私は、その熱気に目を細めながら、吸水させておいた米の桶を手に取る。

 二口ふたくち並んだかまどの一方へ、重い釜を据えた。黄金色の炎が釜の底を舐め、あとは炊き上がりを待つばかり。

 私はその勢いのまま、隣に転がっていた鉄鍋をひったくる。こびりついた煤を、砂を噛ませた布で力任せに削ぎ落とした。

 勝手の隅、竹筒から絶え間なく流れ落ちる清冽な水の下へ鉄鍋を差し込むと、ジョボボッ、と景気のいい音を立てて煤混じりの水が弾け飛ぶ。


「……榛様、突っ立っていないで板の間にある古布をすべて持ってきてください。煮沸の準備をします」

「へ? ああ、あのボロ布か。……了解、了解」


 鉄鍋を一気に濯ぎ上げ、かまどに据えるのと、榛が布の束を抱えて戻ってくるのは同時だった。


「榛様、こちらにも火をお願いします」

「へーへー。……ほらよ」


 彼が指先を弾くと、二つ目のかまどにも黄金の炎が爆ぜる。

 グラグラと煮え立つ湯の中に、榛が切り分けた布を放り込む。

 私はそれを竹箸で掬い上げ、熱気が逃げる前に一気に絞り上げた。


「……おい椿。そんなに熱湯でグツグツやって、何の意味があるんだ? 汚れなんて水で洗えば落ちるだろ。」


 榛の問いに、私は絞り上げたばかりの布巾を広げ、鋭く答えた。


「榛様。この里を覆う煤には、濃度の高い『瘴気』が染み付いています。……いえ、この煤そのものが瘴気の拠り所になっていると言ってもいい」

「瘴気? そんなの、どこにでも……」

「鬼のあなたには『どこにでもあるもの』でしょうが、人間わたしにとっては肺を腐らせる毒です。熱湯でその毒気を飛ばし、無力化しなければ、ここでの生活そのものが死に直結します。」


 椿は煮沸したばかりの熱い布巾を、作業台の隅――数十年分の油と煤が層になっている場所へ、ピシャリと叩きつけた。

 熱い湯気がじゅうと音を立てる。椿がぐっと力を込めて一拭きすると、真っ黒な闇の中から鮮やかな「木目」が剥き出しになった。


「……うわっ、なんだそれ!そこ、そんな色してたのかよ。」


 榛が身を乗り出す。昨日まで「黒い壁」だと思っていた場所から、見たこともない鮮やかな色が飛び出したのだ。じっとしていられるはずがなかった。


「俺もやる!」

「……分かりました。では榛様、布巾を絞ってください。私は菜箸で熱湯から布巾を引き上げます。」


 私が煮え繰りかえる鍋から、湯気を立てる布巾を菜箸でひょいと持ち上げる。普通の人間なら悲鳴を上げるような熱さだが、皮の厚い鬼の榛は、それを素手でひったくるように受け取った。


「っし、任せろ!」


 榛がその剛腕で布巾をひねり上げると、滝のような熱湯が絞り出され、布巾は一瞬で「最高温度の武器」へと変わる。

 最初はぎこちなかった動作も、数枚をこなす頃には言葉すら必要なくなっていた。

 気づけば、私と榛の間には、「除菌布巾」の山が築かれていた。

 榛は、自分の大きな掌で絞り上げたその山を見て、少しだけ得意げに鼻を鳴らした。

 ちゃうどその時、釜の蓋がカタカタと鳴り、真っ白な湯気が炊き立ての米の甘い匂いと共に勝手キッチンを満たし始めた。

 黄金の炎が消え、かまどから下ろされた釜が、パチパチと小さく爆ぜるような音を立てて鎮まった。

 私は、炊き上がった米を磨き上げた寿司桶へと移す。


「榛様、おにぎりにしてしまいましょう。……何か合わせるものはありませんか?」

「おにぎり? ……ああ、それならじいさんの秘蔵っ子があったはずだ。」


 榛は寝癖を揺らしながら、流しと壁が交わる角に据えられた堅牢な腰棚こしだなの最下段に膝をつき、ひんやりとした床に近い暗がりから、ずっしりと重い陶器の壺を抱え上げた。

 作業台の上で蓋を開ければ、鼻を突くような酸味と、天日で干し上げられた豊かな紫蘇の香り。見事な梅干しだ。


「ついでに海苔も出してくる。じいさんが客用にとっておいたやつが上の戸棚にあったはずだ。」


 作業台から背後の壁、一番高い位置にある乾物箱に向かって背伸びをして手を伸ばす。

 私はその間に、しゃもじで空気を切り込むように米をほぐし始めた。

シャッ、シャッ。

 米の粒を潰さぬよう、優しく、けれど迅速に。

 余分な水分が蒸気となって逃げ、一粒一粒が月光を吸い込んだ真珠のように輝き始める。


「……すげえ。米が光ってる」


 乾物箱を手に戻ってきた榛が、桶の中を覗き込んで呆然と呟いた。箱の中身は黒々とした上質な海苔。

 私は彼に小さく頷くと、熱を帯びた米を手早く結び、梅干しを芯に据え、海苔で包み込む。

 私はおにぎりを握る傍ら、二つ目のかまどで布巾が踊る鉄鍋の端に視線をやった。

 煮え繰りかえる湯の中に、あらかじめ乾燥薬草を詰めた小さな土瓶をけておいたのだ。布巾を煮沸する熱を利用した、いわば「湯煎」である。


「榛様、湯呑みを。……布巾を煮沸したついでですが、『腹を温める薬草』を煎じておきました」


 私は菜箸で土瓶を引き上げると、煤けた棚から取り出した無骨な木の器に、琥珀色の液体を注いだ。

 立ち上る湯気が、寒々とした勝手の空気を和らげた。榛は「おっ、気が利くな」と、熱い器を物ともせずに受け取り、おにぎりの隣に置いた。

 勝手の作業台の一角。

 私はそこを布巾で清め、おにぎりを並べた寿司桶を置いた。板の間から持ってきた小さな腰掛けに、私とはるは向かい合って腰を下ろす。


「……ッ、旨い……! なんだこれ、甘いな。いつも食ってる飯と同じ米のはずなのに、全然別物だ」

 

 榛は、大きな口で次々とおにぎりを放り込んでいく。米一粒一粒を噛むほどに甘みが溢れ出す私自慢の炊き加減を、彼は全身で味わっているようだった。


「……あのさ、椿。俺、親がいないから……誰かと一緒に食べるとこんなに美味しいんだってこと、久々に実感したよ」


 不意にこぼれた榛様の言葉に、お茶を注ごうとした私の手が止まる。

 榛様は少し照れくさそうに笑い、「ま、まあ、じいちゃんはいるけどな!」と慌てて付け加えた。

 ……親が、いない。

 その言葉が、私の胸の奥に冷たい石を落とした。


「……私も、親の顔は知りません」


 気づけば、口が勝手に動いていた。

 榛様が「えっ」と驚いたようにこちらを見る。私は視線を落としたまま、静かに続けた。


「……灯さんという育ての親がいたけれど、彼女は私を助けてはくれなかった。黙って私を見送る彼女の目が、今でも忘れられなくて。……感謝はしているわ。でも、同じくらい、彼女が私を突き放したあの瞬間が肺の奥に棘のように刺さっているの」


 自分を育ててくれた恩義。そして、最後の最後で見捨てられた絶望。


「……だから、親という存在がどういうものなのか、私にもよく分からないんです」


 少しだけ突き放すような声になってしまったかもしれない。私は視線を落としたまま、自分の器に二杯目のお茶を注いだ。

 注がれる液体の音だけが、静かな勝手に響く。

 捨てられた自分を守るための、無意識の防御反応。

 震えそうになる指先を、熱い器の温度で無理やり押さえつけた。

 けれど、それを聞いた榛様は、嘲笑うことも同情することもなく、ただ「そっか」と短く言った。


「じゃあ、一緒だな。俺も親父のことは、じいちゃんの話の中でしか知らないし。……今の俺たち、どっちも一人ぼっちってわけだ」


 榛様はそう言って、最後の一つになったおにぎりを口に放り込んだ。

 「一人ぼっち」という言葉が、不思議とトゲを持たずに私の心に染み込んでいく。

 ——この鬼の少年も、私と同じ。


「……そうですね。せめてご飯の間くらいは、この静寂を埋める努力をしましょうか。」


 私は先ほどより少しだけ柔らかい手つきで、彼の空になった湯呑みにお茶を注ぎ足した。


(……おかしいわ)


 私は、おにぎりを握る自分の指先を見た。

 二つのかまどを全開にし、炊き立ての米の熱気があれほど立ち込めていたはずなのに。


(……火を止めた途端、どうしてこれほどまでに『底冷え』がするの?)


 足元から這い上がってくる冷気は、まるですぐ傍に氷の壁があるかのよう。

 勝手を満たしたはずの温もりが、壁や床に吸い込まれて消えていくような、不自然な寒さ。


「……ねえ、榛様。この屋敷、冬はいつもこんなに冷えるのですか?」

「ん? ……ああ、里の連中はみんな言ってるぜ。『鬼の家は、火を消せば氷の城だ』ってな。」


 はるは淡々と答えながら、桶の中に残った最後のおにぎり二つに視線を落とした。彼は迷う素振りも見せず、その皿を私の前へと静かに滑らせた。


「これ、お前の分だ。……本当に美味かった。明日も食べれるって考えるだけで嬉しいぜ。」


 彼は自分が食べるのをやめ、私が手をつけるのを静かに待っている。

 その淀みのない気遣いに、私は毒気を抜かれた気分になり、一つを手に取った。


「……ありがとうございます。ですが、二つは多いですから、榛様も一つどうぞ。」


 私がもう一つを差し戻すと、榛は一瞬だけ意外そうに眉を上げたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。


「……そうか。なら、ありがたくいただくよ。ありがとう、椿。」


 榛は、私から受け取った最後のおにぎりを、一口一口確かめるように、丁寧に口へと運んだ。


「ご馳走様。……さて、朝の里を案内しよう。景色も綺麗なんだぜ、みんなにも合わせたいしさ」


 榛は立ち上がり、私へと手を伸ばす。

 私はその手を取らず、自分で立ち上がって羽織の襟を合わせた。

 足裏から伝わる冷気が、まるで目に見えない「汚れ」のように私を急かしている。


(……ただの寒さじゃない。この里を覆う『何か』を、この目で確かめなくては)


 私たちは、霧の立ち込める勝手口から、凍てついた朝の里へと踏み出した。

 一歩外へ踏み出した途端、鋭い冷気が頬を叩いた。

 昨夜の闇が隠していた里の姿が、白々と明ける朝光の下でその全貌を露わにする。


「……ひどい」


 思わず、独り言が漏れた。

 昨夜は必死で気づかなかったけれど、はるの屋敷は里を見下ろすかなりの高台に位置していたらしい。

 霧に沈む商店街へと続く緩やかな坂道が伸び、両脇には病に伏した獣の背のような長屋の群れ。その外壁は、本来の建材が何であったかも判別できないほど、幾層もの煤が化石のような地層を成してい

 歩を進めるたび、鼻を突く匂いが変わる。

 昨夜は幻想的に見えた軒先の提灯は、どれもドロドロに溶け出した真っ黒な煤脂すすあぶらまみれ、無惨にぶら下がっている。


(……一体、何十年放置すればこれほどまでの厚みになるの?)


 それはもはや「汚れ」という生易しいものではなく、家そのものを飲み込もうとする黒い病蝕にみえた。


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