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二話

 私は土間の縁に足をかけ、一段高いひのきの廊下を見上げた。

 意を決して踏み出した途端、ヌチャリ、と足の裏の体温で溶けて吸い付く脂の不快感。

 磨き抜かれた絹のような光沢を宿していたはずの檜は、今や煤と脂が幾層にも重なり、光を吸い込むよどんだ黒へと変じている。

 目の前には、横に長く並んだすすけたふすまが、厚い壁のように立ちはだかっている。

 かつては豪奢な山水画でも描かれていたのだろうか。今はただ、粘りつくような黒い脂に塗りつぶされ、その奥にあるはずの大広間の気配を、重苦しく遮断していた。


 片足を廊下に乗せた不格好な姿勢のまま、私は視線だけを動かす。

 廊下は左右に長く伸び、その右の突き当たり――闇が最も深く溜まった場所には、二階へと続く重厚な箱階段はこがいだんが、まるで見張りのように鎮座していた。


「……あの階段の先、二階もこの惨状なのですか?」

「おう! 上は風通しがいいから、蜘蛛の巣がもっとすごいぞ! じいさんの部屋とか、開かずの物置もあるしな」


 誇らしげなその言葉に、私は胃の底が冷えるのを感じた。

 背後の土間に立つはるは悪びれる様子もなく胸を張った。


「じいさんと二人じゃ持て余しちまうけど、ちょっと掃除すればすぐ見違えるぜ」


……ちょっと?

 私は、上げかけた足の裏から伝わってくる、ヌチャリとした脂の拒絶感に震えた。

 目の前には煤で塗りつぶされたふすまが並び、右奥の階段は闇を孕んで沈黙している。

 この男は、この惨状を「ちょっとした汚れ」だと言ったのか。


「……榛様。これの、どこが『ちょっと』なのですか?」


 私はギチギチと音を立てるような首の動きで、背後の彼を振り返った。

 土間に仁王立ちして「ふふん」と鼻を鳴らすその無垢な笑顔が、今の私には何よりも恐ろしい。 


「……っ、無理だわ。いきなりここを素手でどうこうしようなんて、自殺行為よ」


 私はたまらず廊下の縁から、再び土間へと飛び降りた。

 汚泥のような土間の感触の方が、今はまだマシに思えるほどだ。

 着地の際、バランスを崩しかけた私は、傍らに立つ太い大黒柱にすがりついた。

 だが、掌に伝わったのは、どっしりとした大樹の安心感ではない。

 ズレた建具の重みに耐えかねているのか、あるいは根元が腐っているのか――先ほどから気づいてはいたがその巨木は、私の僅かな体重を預けただけで、嫌な音を立てて微かに揺らいだ。


(……柱まで、死にかけている。このままだと、掃除をする前にこの家が自重で潰れてしまうわ)


 焦燥感に突き動かされ、私はそのまま、左へと続く通り土間を睨みつけた。その突き当たり、巨大な影となって鎮座する「かまど」と、僅かに水音がする水場。

 本来なら、そこには食事を作る際の喧騒を隠すための「中戸」があったはずだ。けれど今は、レールにあたる鴨居かもいが歪んでいるのか、戸板は斜めに立てかけられたまま、無用の長物と化している。

 かまどのある土間は、玄関よりも一段低く、冷え切った湿気が足元を這い上がってくる。


「……地獄の土間キッチンですね」

「地獄って! 飯を作るとこだぞ。ほら、そこを曲がればすぐかまどだ」


 はるが、立てかけられた戸板をひょいと避けて奥へと誘う。

 仕切られていたはずの「表」と「裏」が、汚れによって地続きになっている惨状。


「榛様、まずはあちら(キッチン)から手を付けます。掃除にはお湯と水、そして何より『火』の管理が必要です。……かまど、使わせてもらいますわ。」

「え? ああ、いいけどよ。……あそこが一番汚いぞ?」


 何を言ってるんだろう。

 視界に入るものすべてが、何層もの脂煤と埃に塗り潰されている。

 暗い廊下も、煤けた柱も、まるで「拒絶」されているかのように重苦しい。

 ふと、お腹の中に残るあの温かい梅干しの感触を思い出す。

 あの奇跡のように美味しかった握り飯。冷え切った私の命を繋ぎ止めた、あの至高の一品。


(……けれど、一体どこで握ったというの。)


 私は吸い寄せられるように奥の「勝手キッキン」へと向かった。

 そこは、文字通りの地獄だった。

 大きなかまどは吹きこぼれた跡が層を成し、化石のように固まっている。

 何より耐え難かったのは、足元から漂う、鼻を突くような酸っぱい腐敗臭だった。


「……ここですね、諸悪の根源は」


 私は流しの下、排水を受け止めている「木樋きどい」の床板を見つめた。

 木と木の隙間から、どろりとした黒い液体が溢れ出している。

 私は着物の裾を膝まで捲り上げ、かまどの隣に置かれていた煤まみれの薪を手に取った。


「榛さん。そこの板を、今すぐ全部剥がしてください」

「えっ、今から!? 寝床の準備とか……」

「いいから、剥がすんです。ここを『清めて』からでなければ、安心して死ぬこともできません。」


 かまどに火を灯す前に、まずはこの溢れ出した汚泥を食い止め、清浄な水を確保しなければならない。

 圧倒された榛が、なおも「でもよ、腹も減ったし……」と口を挟もうとするのを、私は鋭い眼光で黙らせた。


「……いいですか、榛様。この腐敗臭の中で火を焚けば、汚泥の毒を煮出し、家の隅々にまで回すことになります。かまどに火を灯すのは、この『澱み』を追い出してからですわ」


 私の、有無を言わせぬ断定。

 榛はごくりと喉を鳴らし、慌てて床板に指をかけ、鬼の怪力でバキリと引き剥がした。

 その瞬間――。

 百年分のよどみが凝縮されたような、凄まじい異臭が立ち昇った。


「うっ……! なんだこれ、目が痛えぞ!」


 鼻を押さえて飛び退く榛を尻目に、私は迷わず流しの奥へと手を伸ばした。

 脂煤あぶらすすで目詰まりを起こし、腐った苔に覆われていた竹筒。

 その先端に指を突き入れ、溜まっていた泥の栓を力任せに引き抜く。

――ガボッ、と空気が弾ける音がして、閉じ込められていた山水が勢いよく溢れ出した。

 濁りのない清流が、真っ黒なヘドロの海に真っ向から突き刺さる。


「さあ、水は来ました。……ここからは、掃除いくさの時間です」


 私は、かまどの脇に転がっていた煤まみれの薪を一本、手に取った。

 そのままでは触れることすら躊躇われる汚物だが、私は迷わず着物の裾を膝まで捲り上げ、その白い裏地で薪の中ほどを力任せにしごき抜いた。

――ビりりッ、と絹が擦れる鋭い音。

 純白だった裏地が、一瞬でどす黒い煤に染まる。

 だが、その犠牲と引き換えに、掌の中には煤一つない、滑らかな木の地肌が姿を現した。


「おい、椿! せっかくの着物が……!」


 驚愕するはるを一瞥もせず、私は剥き出しになった薪の端を「ヘラ」として握り直し、迷わず木樋の底に溜まった黒い深淵へと突き立てる。

 薪の先が、腐りかけたといの底板をガリリと削る感触。

 一掻き、泥を掬い上げたその時。

 ヘドロの奥で、カチリ、と木材とは明らかに異なる硬い金属の感触が手に伝わった


「……あ」


 指先を突っ込んで引きずり出すと、それは煤と泥にまみれた金属の塊だった。

 けれど、泥を少し拭った瞬間、私の指に伝わったのは、ザラついた錆の感触ではなく、吸い付くような滑らかな冷感だった。


(……信じられない。この深淵に沈んでいて、なぜ『肌』が死んでいないの?)


 通常、鉄なら朽ち果て、銅なら青錆に飲まれているはずだ。

 だが、この鍵の彫金は、まるで今朝打ち出されたかのように鋭く、汚れを寄せ付けない硬質な光沢を保っている。

 それは、作り手の「絶対に汚させない」という狂気にも似た執念が込められた、異常なまでの純度を誇る逸品だった。


「おい、椿! それ、なんだ!? すげえ古そうだぞ。何かの宝箱の鍵か?」


 はるが目を輝かせ、鼻をつまんでいた手も忘れて身を乗り出してきた。

 鬼の好奇心というやつだろうか。けれど、私はその鍵を無造作に勝手口のすぐ外にある濡れ縁へ放り投げた。

「キンッ……」という、泥にまみれているとは思えない清冽な音。


「……知りません。今はそんなことより、このヘドロです」

「えっ、気にならないのかよ!?」


 一瞬触れたその鍵は、しびれるような冷たさを保っていた。


(……今はいい。そんなことより、この目の前の不潔を殺すのが先よ)


「私の力では、この深淵のすべてを掻き出すのに夜が明けてしまいます」


 私は、手にした薪を榛に突きつけた。

 泥にまみれた真っ赤な瞳で、彼を獲物のように射抜く。

……この鬼の「力」だけは、利用してやる。

 私がこの地獄で一分一秒でも長く生き延びるための、便利な「道具」として。


「榛さん。あなたのその無駄に立派な腕は、飾りですか? 私の代わりに、このヘドロを根こそぎ掻き出してください。一滴も残さず、です」

「えっ、いや、でもこれ、めちゃくちゃ臭いぞ……?」

「……やらないのですか? さっきのおにぎり、このヘドロの真上で握られたものですよ」

「……うっ。……わ、分かったよ! やりゃいいんだろ、やりゃあ!」


 私の静かな、けれど逃げ場のない圧に屈したのか。

 榛は半泣きになりながらも、「よっしゃあ、見てろよ!」と気合を入れ直した。

 彼は大きな掌を、躊躇いもなく真っ黒な木樋きどいへと突っ込んだ。

ズチュ、という嫌な音が響く。

けれど、次の瞬間。


「おおおおおっ!!」


 鬼の怪力が爆発した。

 彼が腕をひと振りするたびに、数十年分の澱みが、バケツをひっくり返したような勢いで掻き出されていく。

 泥が飛び散り、床下の闇がみるみるうちに「物理的に」からになっていく。

 榛の指先が触れるたび、岩のように固着していたヘドロが、まるでもろい砂細工のように崩れ、剥がされているのだ。


(……すごい。これが、鬼の力)


 破壊ではなく、再生のために振るわれる暴力的なまでのエネルギー。

 私はその圧倒的な清掃効率を「便利な道具」として評価しながら、その光景を冷徹に眺めていた。

 ふと榛の薄金色の髪に、真っ黒なヘドロがべったりと付着している。あんなに綺麗だった髪も、顔も、今は泥まみれで見る影もない。

 私が嫌悪感を隠さず顔をしかめると、彼はそれに気づいて、泥だらけの顔でニカッと笑った。


(……不潔。理解できないわ。どうしてそんな泥まみれの顔で、私に笑いかけられるの?)


「……なんだよ、そんなにジロジロ見て。……ああ、分かってるよ。お前、ずっと震えてたもんな」

「え……?」


予想外の言葉に、私の思考が止まる。


「雪の神社で、おんぶした時も、さっきまで飯食ってる時もさ。……お前、小刻みにずっと震えてただろ。寒かったんだよな? 悪かったな、鬼の足は速すぎて、風が冷たかっただろ」


 彼は泥だらけの腕で、自分の鼻を無造作にこすった。


「だからよ、せめてこのヘドロくらいは俺が全部片付ける。……これ、放っておくと家の中が冷えるんだって、じいさんが言ってたから。綺麗にすれば、今夜はお前、あったかくして寝られるだろ?」


 打算も、裏も、何もない。ただ、私が「寒がっている」と思い込んだ男の、ピントのズレた、けれどあまりに真っ直ぐな言葉。


(……違う。私が震えていたのは、寒さのせいじゃない。あなたたちへの、恐怖と絶望のせいよ)


 喉まで出かかった反論は、なぜか声にならなかった。

 彼を「利用価値のある道具」と定義したはずの私の理論が、目の前の「泥まみれの笑顔」という理不尽な事実に、音を立てて侵食されていく。


「……榛さん。……じっとしてください」

「えっ? お、おう……」


 私は、自分の袖を伸ばし、彼の頬にべっとりと付着した黒い泥を、一撫でだけ、丁寧に拭い去った。

 指先越しに伝わってくる、鬼の、ひどく高い体温。


「顔に泥がついています。」

「……あはは、悪い。……ありがとな、椿」


 そう言って照れ臭そうに笑う彼の瞳が、月光を反射して、泥まみれの顔の中でそこだけが宝石のように澄んでいた。

 彼の瞳には、打算も、私が恐れていた「人間の醜さ」も、欠片ほども見当たらなかった。


(……バカね。本当に、ただのバカ……)


 私は、熱くなった指先を隠すように、乱暴に視線を逸らした。


「……榛さん。仕上げに滝の水を流します。準備を!」

「おう! 任せろ、椿!」


 弾んだ声が返ってくる。

 榛が先ほど綺麗にした外の竹筒を操作し、里の冷たい水を勝手へと引き込んだ。

 轟音と共に、濁流が木樋きどいを駆け抜ける。

 数十年分の澱みが、一瞬にして外の谷底へと押し流されていく。

――その瞬間。

 勝手を支配していたあの「腐敗した重苦しさ」が、微かな「水の匂い」に上書きされた。


「……はぁ、臭いで死ぬかと思った。……どうだ椿、綺麗になっただろ?」


 榛が満足げに笑う。

……その時、暗かった勝手に、窓から差し込んだ月光が反射した。

 榛の大きな手が、まるで巨大なかんなのように板の表面ごと汚れを削ぎ落としていったのだろう。

 数十年ぶりに姿を現した木の床が、濡れた艶を帯びて、真珠のように白く輝いている。……悪くない。私は、ほんの僅かに、肺の奥まで清浄な空気を吸い込んだ。


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