一話
――いいか椿、お前がこの先どう人の役に立つのか、秘訣を教えてやる。
無精髭を蓄え、小麦色の無骨な手で私の頭を撫でた、あのおじさんを思い出す。
孤児として拾われ、赤目の災いとして煙たがれた私に、彼は「生きる術」を授けてくれた。
掃除の作法、道具の手入れ。
いつか誰かの居場所を作るための、確かな技術を。
「見えなくてもわかる。あんたは、本当に賢くて優しい子だ」
同じボロ小屋で過ごした老婆、灯さんの声が蘇る。シミの多いしわくちゃの手で、私の輪郭をなぞるように触れた、あの温もり。
光を失ったその瞳の代わりに、彼女の指先だけが、私の「人間としての価値」を認めてくれていた。
私は信じていた。おじさんがくれた知恵と、灯さんがくれた肯定。それらを使って村に尽くせば、私もいつか「仲間」になれるのだと。
けれど。教わったことは、すべて無駄だった。
「これで災いも、一時的に無くなる。村は清まるのだ」
安堵に濁った村長の目を、私は一生忘れない。
そしてその隣で、微動だにせず私を見下ろしていた焔様の、あの冷たい目も。
幼い頃、一度だけ彼が私に笑いかけてくれた気がしたのは、私の見間違いだったのか。
今の彼は、ただ眉を顰め、視界の端に映る不浄を切り捨てるかのような、冷え切った軽蔑を瞳に宿していた。
言葉すら与えられない。助けを求めることさえ許されない。
村人が私を連れ去る時、灯さんの手は、私の輪郭をなぞることはしなかった。彼女の手は枯れ木のように硬く、焔様の視線は氷のように鋭く、私の存在を拒絶していた。
分かっていたことだ。
でも、気づくのが遅すぎた。
雪の残る早春。私は朽ちかけた拝殿の、底冷えする板張りの床に横たわっていた。手足は縄で縛られ、薄汚れた着物一枚。空腹のあまり、死への恐怖すら他人事のようだった。
(やっと、終わる。これ以上、あの醜い人たちの顔を見なくて済むんだ)
頬を寄せる床板からは、逃れようのない冷気が伝わってくる。
ガタ、と建付けの悪い戸が震え、重い圧迫感が流れ込む。
獣のような唸り声。断末魔の準備をせねばと身を固くした、その時だった。
「……いた。本当に、いたんだ」
聞こえたのは、予想外に若い男の声。
ぐい、と強引に抱き起こされ、私の視界は強制的に上向かされた。
雪明かりに淡く輝く薄金色の髪が視界に飛び込んできた。
そして額には、二本の角。
……あぁ。村の人が言ってた通り。私を食い殺しに来たんだ。
「……おい、しっかりしろ! 生きてるか!?」
必死に呼びかける鬼の声を、私は鼓膜の端で聞き流す。
縄を解こうとする無骨な指先。人間を凌駕する剛力。隣に屈み込むその横顔。
肌の質感や背格好は、私と同じ年頃の少年にしか見えない。
けれど、太い手首から伸びる指先の爪はひどく鋭く、目の前で麻縄を容易く引きちぎるその様は、私の柔な皮膚など一息に切り裂き、肉を剥ぎ取ってしまいそうだった。
(……わざわざ縄を解くなんて。死体じゃなくて、生きたまま鮮度のいい状態で食いたいってことね。周到な化け物……)
自由になった手首が、冷たい夜気に晒されてじんわりと痛む。
私は強張っていた指を恐る恐る動かし、小さく握り込んでは開いた。
生きて動く自分の指先。その「鮮度」を自覚するたび、隣に座る鬼が、私の肉を切り分けるための最適な瞬間を値踏みしているように思えて吐き気がした。
「これ、食え! じいさんに『神社に人が来たら、お前の嫁になる奴だから、まずこれを食わせろ』って言われたんだ」
「……よ、め?」
聞き慣れない単語に、一瞬だけ思考が止まる。
けれどすぐに思い至る。村長が私を差し出したときも「神様への贈り物」と言った。この鬼が言う「嫁」も、きっと「特別な餌」を指す隠語に違いない。
「あ……」
差し出された握り飯を受け取る。ずっしりと重く、驚くほど熱い。
(……そうか。これを食べさせて、少しでも肉を肥えさせるつもりなんだ。灯さんに教わった通り、未知の食べ物はまず舌の裏で痺れを確認すべきだけど……。
……ふん、笑える。私を捨てた人たちの知恵を、私はまだ後生大事に守ろうとしているなんて。どうせ死ぬなら、空腹のまま毒で苦しむよりはマシか。それとも、この鬼が盛る毒なら、もっと楽に死ねるのかしら)
私は自嘲気味に口角を歪めると、毒味の作法も、灯さんの声も、すべて意識の外へ放り出した。
一口、大きく齧り付く。強烈な酸味が広がり、冷えた胃が熱を帯びる。
「……すっぱい」
「だろ? 元気が出るぞ!」
安心したように笑う鬼。その屈託のなさが、かえって恐ろしい。
村人たちだって、私を捨てる直前まで、あんな風に愛想笑いを浮かべていたのだから。
「顔色が真っ白だぞ。ほら、これ食え。じいさん秘伝の『命の粒』だ!」
(……今度こそ本当に毒!?)
私の返事も待たず、口の中にねじ込まれたのは、親指ほどもあるヌルヌルとした謎の青い果実。
咄嗟に吐き出そうとしたが、それは口の中で無残に弾け、強烈な「ハッカ」のような清涼感と、火が出るような「辛味」が同時に大爆発した。
「っ、ごほっ、……あ、熱い、何、これ……っ!!」
「はは、驚いたか! それを食うと、一晩中、体の中から火が出るみたいに熱くなるんだぜ! 雪山の行軍にゃ欠かせねえんだ」
鼻に抜ける刺激で涙が止まらない。胃袋が物理的に燃えるような熱を発し、指先まで血が巡るのがわかる。
あまりの刺激に、人間不信の考察どころではなくなった。
私の世界は今、喉元を焼く未体験の熱と、このデタラメな生命力を持つ化け物のことだけで、無理やり埋め尽くされている。
「よし、食ったな! おんぶしてやる」
迷う様子もなく自分の羽織を脱ぐと、それを私の肩に乱暴に、けれど隙間なく被せる。
日だまりのような温もりが肌を叩いた。
彼はくるりと振り返り板張りに片膝をつき、どっしりとした広い背中を私に差し出した。
「……わかりました」
掠れた声が、ひび割れた喉を削るように漏れる。
唾を飲み込むたび、ハッカの鋭い清涼感と火が出るような辛味が、荒い鑢となって気管を抉る。
震える指先を伸ばし、しぶしぶと、彼の厚い肩に手をかける。
おじさんに教わった「人の役に立つための手」が、今は化け物の背にすがるための道具に成り下がっている。
その惨めさを噛み締めながら、私はゆっくりと、彼の背中に自分の身を預けた。
(……凍え死なれたら、肉が硬くなって味が落ちるから。本当に、食欲に忠実な――)
「あ、そうだ。近道するわ。舌噛むなよ!」
「え……っ!?」
次の瞬間、肺の中の空気がすべて絞り出されるような衝撃が走った。
鬼は拝殿から飛び出すと道なき絶壁を、垂直に近い角度で蹴り上がったのだ。
「ひっ……、ぁ……っ!!」
視界が激しく上下し、冷たい夜風がナイフのように喉に突き刺さる。
人間なら確実に死ぬ高さ。下を見れば、先ほどまでいた拝殿が、箱庭のような小ささで遠ざかっていく。
絶望に浸る余裕など、凄まじい重力によって物理的に剥ぎ取られた。
「よっと! ……悪い、今の、人間にはちょっときつかったか?」
着地の衝撃を膝で殺し、けろりとした声で笑う鬼。
私は彼の首にしがみついたまま、激しい動悸と吐き気に支配され、思考の糸が完全にぶち切れていた。
「……おい、お前、なんて名前だ?」
背中越しに降ってきた問いに、私は一瞬、息を止めた。
名前。私をあの村という檻に繋ぎ止め、最後には「生贄」という札を貼って出荷するための、忌まわしい記号。
「……椿。そう、呼ばれてました」
雪の中に捨てられていた私を和尚が拾い上げた時、産着に赤い花が添えられていたから。
ただそれだけの理由で、私はこの村の『椿』として、災いを引き受ける器に指名されたのだ。
「椿か! 雪の中で一番に咲く、強い花だろ? 良い名じゃねえか!」
彼は底抜けに明るい声で笑い、ひょいと首を巡らせて私を覗き込んだ。
(……良い名? 嘘つき)
その名は、私が「捨て子」であることの証明でしかないのに。
おじさんや灯さんは、その名を優しく呼んでくれた。けれど、この鬼は土足で私の領域に踏み込み、呪いのようなその名を、まるで宝物のように扱い始めている。
「お、綺麗な目だな。朝焼けみたいだ。――俺たちの里じゃ、赤は『命の火』の色だ。縁起がいいぜ!」
(……命の火? 焼き尽くすための、間違いじゃなくて?)
私は「赤い瞳」を逸らし、彼の首筋を睨みつけた。
優しい言葉で私を甘やかし、油断させたところで、次はどんな「役割」を私に押し付けるつもりなのか。
ただ、今はまだ私を「利用価値のある獲物」だと思わせるために、耳に心地よい言葉で着飾っているだけだ。
どれほどの時間、風になっていただろう。
不意に、鼻をつく野生の匂いが濃くなった。
彼は獣道を踏み締め、シダの生い茂った巨大な岩の切れ目へと迷わず飛び込む。
そこには、古びた、けれど威圧感のある門がそびえ立っていた。
「着いたぞ、ここが入り口だ!」
門をくぐり抜けた瞬間、視界が急激に開ける。
眼下に広がるのは、延々と続く石畳の階段。
その先には、夜だというのに提灯の明かりが川のように連なり、眩暈がするほどの活気が渦巻いていた。
(……何、これ。村より、ずっと広い……)
階段を駆け降りる榛の背中で、私は呆然と景色を眺めていた。
並び立つ商店街からは、見たこともない肉を焼く香ばしい匂いや、鬼たちの野太い笑い声が響いてくる。
さらにその奥、整然と並ぶ長屋を抜けていくと、次第に腹の底に響くような轟音が支配を強めていった。
――轟々、轟々。
春の夜気を震わせる、圧倒的な水の音。
その巨大な滝のすぐそばに、ひときわ頑丈そうで、けれど驚くほど煤にまみれた屋敷が鎮座していた。
「ここが俺たちの……今日からお前の家だ!」
榛が誇らしげに言い放つ。
ゆっくりと背中から下ろされ、私の足が、勝手口の土間に着いた。
――ヌチャリ。
嫌な音がして、足裏に、冷たく、粘りつくような感触が走る。
それは舞い上がる煤ではなく、数十年分の煤とかまどの油が混ざり合い、地層のように固まった「脂垢」だった。
(……冷たい…、あとなんか水っぽく沈んでいくような…?なんて不潔なの)
足裏から伝わるその感触に、全身の毛穴が総毛立つ。よろめいた手を、とっさに横の「大黒柱」についた。
脳が絶望を命じるより早く、指先の神経がこの「怠慢」に対して猛烈な悲鳴を上げた。
その巨木は、私の僅かな体重を預けただけで、嫌な音を立てて微かに揺らいだ。
私の頭の中は今、目の前の柱を「どうすれば清められるか」という発想で埋め尽くされようとしている。
この煤の下には、きっと良質な杉の木目が眠っている。
この脂を落とすには、あのかまどの灰を水に溶いて、強い灰汁を作らなければ。
雑巾は……いや、この着物の裾でもいい。今すぐ、この『澱み』を剥ぎ取りたい。
「どうした、椿? 広いだろ!」
無邪気に笑う榛の顔が、今の私には「この惨状を放置した主犯」にしか見えなかった。
「榛さん。……一つ、確認させてください」
私の声から、先ほどまでの震えが消える。
先ほどまで私を支配していた「食われる恐怖」は、今、目の前の汚物に対する「殺意」に近い憤りへと上書きされている。
「おう、なんだ?」
「あなたは、私を『嫁』としてここに招いたのですよね?」
「ああ、じいさんもそう言ってたぜ!」
「……結構です。ならば、この屋敷の管理権は私にもあると見なします。この『腐敗の城』で、一分一秒でも長く呼吸をするために」




