20 開戦
一艘の船が浅い水面をすべるように進み、やがてラヴェンナ近くの桟橋に横付けした。潟と運河とが入り組み、水路が陸の奥へと延びている。
ペトロスは外套の裾を押さえながら岸に降り立った。足もとの石は長く水気を含んでいるらしく、苔を含んだような色をしている。水路に沿って家々が並び、屋根のむこうに城壁と塔の陰が重なっていた。
荷を担ぐ者や通りかかった女たちが、手を止めて新たに着いた一行を見ている。宮城へと通じるとおぼしき道を探しながら歩を進めるうち、耳に入ってくる声の調子がただならぬことにペトロスは気づいた。
「湖の島から戻られぬまま、亡くなられたそうだ」
「まだお若くあられたのに」
「せめて都で見送らせてほしかった」
すれ違う男たちが小声で交わす言葉が、その一片一片をつないでゆく。名を口にする前に互いの顔を見て言葉を呑み込み、それからまた囁きへ戻った。
「訴えを持ってゆけば耳を傾けてくださった。文字の読めぬ者の嘆きでも、巻物の上に載せてくださった」
「王の御母でありながら、わたしたちのことを忘れぬ方であった」
「アマラスンタ様があのような最期を遂げられるとは」
あちこちで同じ名がかすかに上り、途切れがちな嘆きが通りから通りへと伝わっている。
ペトロスは足を止め、目立たぬ場所に身を寄せてその声に耳を澄ました。帝都を出る前、彼はアマラスンタの名を羊皮紙の上で見ている。皇帝がその身を守ろうとしたことも承知していたが、彼女が湖の島へ移されたのち、そこでいかに暮らし、いかなる噂に囲まれていたかまでは知らぬ。
今、この都はそれを教えている。敷石の上で交わされる嘆きと憤りが、死者の姿をありありと立ち上がらせていた。
「どのような御用向きでございましょうか」
宮城のほうへ続くと思しき道をたどっていると、槍を持った兵がひとり行く手に立ちふさがった。佩刀や衣の様子からすると、城門の警固にあたる者であろう。
ペトロスは歩みを止めると、衣の胸元から印章を示す飾りを取り出した。
「帝国の使節、ペトロスである。テオダハド殿にお目通りを願いたい」
兵はその名を聞いて眉をひそめる。それから周囲の者と視線を交わし、通りの向こうをうかがった。
「こちらへ」
そう告げると兵は向きを変え、城壁へ向かう道を先に立って歩き出す。石を高く積んだ壁が近づくにつれて通りの影は深くなった。
運河に沿って曲がりくねる道を抜け、やがて城門の前に出る。塔の上には見張りの兵が控え、厚い扉には幾度も塗り重ねられた鉄が煌めいていた。先を行く兵が言葉を交わすと、門は内側から開く。城内へと続く石の廊は、その向こうに待つ言葉と決断を待ち受けているようであった。
案内の兵に導かれ、ペトロスは石の廊を抜けてひとつの間に通される。
卓の奥にはテオダハドが坐し、灯りがその顔を照らしていた。その指先は物憂げに杯の縁をなぞっている。
「ペトロスと申します。ユスティニアヌス陛下の命を受け使節として参りました」
ペトロスが礼を取ると、テオダハドも形式どおりに頭を傾けた。
「先王アタラリックの跡を継いだテオダハドだ。遠路よく参られた」
言葉とは裏腹に、その眉間には深い皺が刻まれている。ペトロスは挨拶を短く切り上げ、本題に踏み入った。
「トスカーナの島にアマラスンタ殿が移されたという報せに、陛下は案じておられました。そして、私にあの方の身を庇護せよと命じられたのです」
テオダハドの手がわずかに止まる。
「されど街に入るや、人々はみなアマラスンタ殿が殺されたと囁いているではありませんか。先々代の王の娘御にして、先の王アタラリック陛下の母君が、です。それはまことにございますか」
問いにテオダハドは束の間視線を卓の端に落とし、それから顔を上げた。
「私は出来うる限りのことをしたのだ」
ペトロスは一度瞼を伏せ、すぐに顔を上る。
「湖に孤立した堅牢な城にまさか賊が入るわけもあるまい。命じたのがテオダハド殿であることは明白でありましょう」
テオダハドは身を乗り出した。
「待たれよ! 私はそのようなこと望んではおらぬ!」
「では、なぜ止められなかったのです」
ペトロスの一語一語は、逃れ場を与えぬ気迫を持っている。テオダハドは言葉を探すように口を開き、すぐに閉じた。
「奴らは血に酔っていた。かつてアマラスンタの一族に刃を向けた家の者どもがやったのだ。私が命じたのではない。私の意思に背いて走ったのだ」
「ではその者らは捉え、処断したのですか。いいえ、そのようなことはなされていないはずです。民衆の声は正直だ。貴公の言葉よりよほど」
ペトロスは、街路に満ちていた嘆きの声を思い起こす。
「皇帝はかねてより、この国の者たちと和を保とうとしておられました。ですが、このような恐るべき所業が行われた以上、もはや昔日のような休戦は望み難い。陛下と貴公、ならびにこの国を預かる者たちとのあいだの戦いは、終わりの見えぬものとなりましょう」
テオダハドは片手で額を覆った。
「私はこの穢れを是とせぬ。皇帝陛下にもどうかそうお伝え願いたい。私が心ならずもこの坐にあることを、分かっていただきたいのだ」
「私は見聞きしたことをそのまま帝都へ持ち帰るのみです。ここで交わされた言葉もこの都で聞いた声も、全て。それを聞いて判断されるのは陛下です」
テオダハドは思わず唇を噛む。卓上の杯の水面が揺れ、崩れた顔を歪んだ形に映していた。
ペトロスは一応の礼を尽くすと、そのまま踵を返して部屋を辞す。扉が閉じられ、彼はどの文から報に書き起こすべきかを思案しながら石の廊を進んだ。
× × ×
ビュザンティオンの厚い石の壁にも窓枠に光の縁が生まれ、執務の卓の上に並ぶ羊皮紙の束が浮かび上がっていた。その一隅にはアマラスンタが記した書簡が伏せられている。
その傍らに新たな封書が一通置かれていた。ユスティニアヌスは手に取り、封を割って羊皮紙を広げる。
端正な文字で綴られた報は、一人の女の死を告げていた。加えてラヴェンナの街はその死を悼む声に満ちているとも記されている。
ユスティニアヌスはそれを巻き直すと卓に置いた。
「書記官を呼べ」
命を受けた近習が走り、ほどなくペンと羊皮紙を携えた者たちがひざまずく。
「テオダハドに向けて文を出す。卑劣な手段でアマラスンタを殺害し王位を簒奪した者どもに、もはや休戦の約は結ばれぬとな」
続けて、諸方の将に宛てた命を口にした。
「ムンドゥスにダルマティアへの進軍を命じ、ベリサリウスに艦隊を率いて海へ出るよう伝えよ。この期にゴートの蛮族どもからイタリアの地を取り戻す」
書記官たちはペン先をインク壺に浸し、羊皮紙に文字を刻んでいく。書簡には封泥が施され、箱に収められる傍から伝令の腕に抱えられて宮城を出ていった。命は各地を巡り、そのたびに兵馬と船とが用意されていく。
やがて季節が改まるころ、帝国の港には戦いの準備を終えた男たちが列を作り始めた。甲冑の留め金が陽をはね返し、盾と槍が束ねられて運ばれる。船が岸に寄せられて板橋が架けられると、兵たちは隊ごとに乗り込んでいった。陸路へ向かう軍の列もまた城門の外へ伸び、軍旗が風をはらんで翻る。
号令がかかり、櫂が水を押した。船首が波を割り、港の外へと向きを変える。城壁の上には見送る人々が並び、その眼差しは西へと向かう船列を追っていた。
西暦五三五年。国にその人生を捧げた一人の女の死が、その後十九年間に渡るゴート戦争の幕を開く。




