第2話・トイレとは、人類史的に見ても極めて重要な開発なので
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本話には、排泄・衛生環境に関する描写が描かれます。苦手な方はご注意ください。
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営業スキルの一環として心理学を少しだけかじった事がある。
日本において、欲望の三大欲求と言えば『食欲・睡眠欲・性欲』であるが、これの提唱者である心理学者が最初に唱えたのは『食欲・睡眠欲・排泄欲』だった。
排泄欲が三大欲求? というのは、解る気持ち半分、共感不能が半分だったというのが本音だ。
食欲は、生きるのに必要な量以上を求めて過食に至る。
睡眠欲は、生きるのに必要な量以上を求めて過眠に至る。
性欲は、生きる、又は繁殖するのに必要以上を求めて避妊してまで性行為をしたり、自力発散のためのコンテンツが多様に生み出されたりするに至る。
うんこしたくて必要以上の排泄をしたがる人を見た事がない。排泄欲なんかが三大欲求だっていうんなら、呼吸欲とか鼓動欲とかだってあるじゃーん、くらいのノリだった。
だから俺は、三大欲求のひとつだった排泄欲が格下げされた事には、おおいに納得していた。
前世のうちは。
この世界に転生して、俺は思い知った。
トイレが、したい。
安全にトイレがしたい。
安心のトイレがしたい。
この世界の、この時代のトイレは、安全でも安心でも無い。恐怖と不快感の対象でしかない。極力したくない。でも、しなきゃ生きられないからするしかない。それがこの世界の排泄である。
「上下水道、っすか? この川と湖があれば十分整っていると思いますけどね」
と、シンシアが首を傾げる。まぁ、この世界水準ではそうだろう。
だが、前世の衛生観念を知っている俺にとって、こんなただの川のひとつやふたつで俺を安心させる事が出来ない。
「いや……ここから先は中で話そう。村長、案内、ありがとうございました。また何かありましたら、相談させてください」
「ええ、かしこまりましたぞ」
差し障り無い挨拶で別れを告げ、家の中に入る。
玄関から入ると、こじんまりとしたロビーがあり、正面には階段。左右には廊下が広がっていた。階段の裏にも廊下があるようだ。見栄えの広さよりも、部屋の多さを重視してくれたようだ。流石お父様。人を見る目において右に出る者は居ないだろう。せっかくなので見物して回りたい気持ちもあるにはあるが、そんな事よりも生活改善だ。
食事の間を探すのもひと手間掛かりそうだったので、俺はロビーで話し始めた。
「クリスティーナ、構わないかな」
先日正式の結婚し、俺の妻となったクリスティーナに念のため確認する。
クリスティーナは金色のカツラを外して首を振り、ピンクのショートヘアをぶんぶんと振り回した。一瞬「え、ダメなの?」と勘違いしかけたが、カツラで蒸れていただけらしい。すぐに微笑み、こう言った。
「それは、アルメルがどうしたいか次第じゃないかしら」
と。
俺がどうしたいかに任せてくれるというなら、選択肢は無い。
俺は意を決して――と言うにはあまりにも気楽に、すんなりと言葉を紡いだ。
「シンシア。サーシャ。実は俺、異世界から転生してきたんだ」
と。
「…………」「…………」
当然の沈黙。
シンシアは多分、冗談と判断してツッコミを考えている所だろう。サーシャは何を考えているか解らない無表情のまま、ただ首を傾げる。
いや本当に、この沈黙は当たり前の現象なので、俺は気にせずに話を進める。
「魔法が無い変わりに魔獣とか魔物も居なくて、文明がやたら発達した世界だったんだよね。そこで30歳くらいまで生きてたけど死んじゃって、でも、気付いたらこの世界の、この身体に意識が引き継がれたんだ。つまり、俺には……アルメル・オース・ファランには、前世の記憶と知識がある」
「…………」「…………」
当然の沈黙。いや、普通に考えたら「お前頭大丈夫か?」みたいなノリが挟まってもおかしくは無いかもしれないが、生憎シンシアにとってもサーシャにとっても、思い当たる節があるようで、強いツッコミは入らない。
「この世界の魔法を除いた技術水準は、俺の前世の世界と比較すると1000年くらい前の文明だ。つまり……俺はこの世界にとって、1000年先の未来人だと思って貰って過言は無いという事だ」
そこまで説明すると、先に口を開いたのはサーシャだった。
「承知した。それで、指示は?」
以上。
簡潔過ぎる。
結構大きな話をしたのにいつも通りなサーシャに苦笑を向けると、隣のシンシアもまた、いつも通りだった。
「冗談だとしたらアルメル様の才能が異常っすもんね。文明が発展した異世界から生まれ変わってきたって現象は確かに異常っすけど、ぶっちゃけどっちも同じくらい異常なんで、まぁそういう事もあるか、くらいの感覚っすね」
戦闘や作戦行動中は繊細なのにこういう所で大雑把になってくれる性格、すごく助かる。
「ありがとう。これ、パラノメールでは極秘だから。よろしくね」
ひとつウインクを送る。サーシャは変わらず無表情。シンシアは苦笑する。
「それで、何故その話を今?」
と、シンシアが尋ねる。簡単な質問だ。俺は答える。
「1000年後の技術水準を体験してる俺からすると、この世界の生活水準は、とてもじゃないけど耐えられないんだ。だから変える。俺に出来る事は限られているけど、それでも、例えば」
言いながら、手首を何度かスナップさせる。
「こんな感じで、手首を捻るだけで綺麗な水が出てくる仕組みがあるとしたら、どう思う?」
そう、蛇口だ。
この世界、この時代は、おおよそが壺に水を溜めておいて使うか、近くの川や井戸まで移動して水作業を行う。
もしそれが、各家庭まで流れる水を提供できるとしたら?
サーシャが答える。
「水汲み、料理、掃除。効率化する」
「正解。まだあるよ」
効率化なんて物では無い。水汲みに至っては、一回につき数十分、土地によっては数時間を要した作業が0秒になるのだ。
まだあるよ、と伝えたのに、続きの回答が無い。思いつかないらしい。
だから、俺が答えを言う。
両手を広げ、得意げに語る。
「水洗トイレを開発するのさ!」
と。
水洗トイレ。その名の通り、水で洗うトイレだ。
現代日本では当たり前の、水で洗い流すトイレ。だが、それは近代の技術であり、なんならほんの数十年前までは『ぼっとん便所』と呼ばれる仕組みだったくらい、水洗トイレは最新の技術だ。
「水洗トイレ? トイレが改善されるの? 本当に? どうやって?」
と、クリスティーナが身を乗り出す。それもそのはず。この世界での排泄は、1日のうちに何度かしなければならない、本当はしたくない事という意識で、皆共通だろう。
何故か?
「この世界のトイレの様式は、俺の前世において表現するなら『ぼっとん便所』と呼ばれるシステムと一致する」
ぼっとん便所。形は和式トイレに近いが、その仕組みは現代人にとっては耐えがたいものだ。便器があって、仕切り板があったり無かったりして、開いている穴に向かって排泄する。そして排泄物はその穴の中に溜まる。終わり。
……終わりである。本当に。
排泄物をトイレの下にあるタンクに溜めて、溜まった汚物を一斉に汲み取り、別の場所に運んで除去するのだ。
「地域によっては川の上にトイレを作って川に垂れ流したりする仕組みも導入されているけど、基本は近所に垂れ流している」
つまり、一定期間、トイレの近くには汚物が存在しているのだ。匂いも勿論最悪だし、何よりの問題は病気だ。
これは流石にここのメンバーには隠すが、衛生設備の未熟さが社会に与えているダメージは甚大だ。
赤痢、腸チフス、コレラ等の名前を聞いた事はあるだろうか。どれも衛生設備が未熟だったが故に大流行した病気だ。
公には原因は特定されていないが、とある病気もまた、衛生設備の未熟が引き起こした病気という説がある。
――ペスト。またの名を、黒死病。
中世ヨーロッパにおいて、人口の3割から5割を死亡させた、歴史的大疾病。
①処理されていない排泄物が溜まる→排泄物という名の有機物を食料・苗床にするためハエが集ったり、ネズミ、ユスリカ等が大量発生する。
②排泄物の中で生まれ育った生き物が人の食べ物に触れる事で食べ物が汚染されるor体内が細菌で汚染されている蚊等の吸血生物が人から吸血し、変わりに最近を人の体内に打ち込む。
③疫病が暴走する。
このようにして、衛生設備の未熟が引き起こす疾病は、幾度となく人類史を脅かしてきた。
この国、ディグステニア王国も、人口が増えればいずれそうなる事が決まっている。なんなら、大量発生する虫やネズミが魔化する事で、前世よりも大きな被害を産む可能性もある。
とまぁ、その話は必要な時が来た場合はするとして、現段階では不安を煽るだけなので、隠すが吉だろう。
俺は諸々を誤魔化して、こう言う。
「手首を捻れば水流れて排泄物を押し流してくれて、排泄物を臭くないものに処理してくれる設備まで届けるというのが、前世にはあったんだよ。俺が作りたいのは、そのシステムだ」
と。




