第3話 名前呼びは反則だと思う
結論から言う。
名前呼びは、反則だ。
しかも――
耳元で囁くのは、完全にルール違反である。
その日、三時間目が終わった直後のことだった。
「ねえ、悠斗くん」
右耳が、死んだ。
正確には、俺の思考が停止した。
「……なに?」
必死に平静を装って返事をするが、声が少し裏返る。
ひなたはそれを見逃さなかった。
「今、ちょっと声変だった」
「気のせいだ」
「ふーん?」
疑うような声と一緒に、彼女は顔を近づけてくる。
距離、ゼロ。
近い。
息が、かかる。
「ねえ、悠斗」
――下の名前。
しかも、さっきより距離が近い。
「……やめろ」
「なにを?」
「名前呼びを」
「いいじゃん。呼ばれるの嫌?」
嫌じゃない。
むしろ、問題はそこじゃない。
「心臓に悪い」
「それ、昨日も言ってた」
ひなたは楽しそうに笑いながら、俺の様子を観察している。
完全に、遊ばれている。
「ねえ」
まただ。
耳元。
「悠斗くん」
俺は反射的に机を叩いた。
「近いって言ってるだろ!」
教室が一瞬、静まり返る。
やってしまった、と思った次の瞬間。
「……あ、ごめん」
ひなたは素直に距離を取った。
あれ?
怒らないのか?
俺が警戒していると、ひなたは少しだけ困ったように笑った。
「そんなに嫌だった?」
「嫌じゃ……ない」
正直に言ってしまった。
「じゃあ、どうして?」
「……意識するから」
その言葉を口にした瞬間、後悔した。
ひなたの目が、少しだけ見開かれる。
「ふーん」
そして、にやっと笑った。
「意識してるんだ」
「違う!」
「今、自分で言ったよ?」
しまった。
完全に言質を取られた。
「じゃあさ」
ひなたは椅子を少し引いて、俺の正面に向き直る。
「名字で呼ぶ方がいい?」
「それなら――」
「でも」
言葉を遮るように、彼女は身を乗り出した。
「私は、悠斗くんって呼ぶ方が好き」
ずるい。
その言い方は、ずるい。
俺は視線を逸らした。
「……勝手にしろ」
「うん、そうする」
即答だった。
そのとき、後ろの席の女子が小声で言った。
「ねえ、あれもう完全に付き合ってない?」
「付き合ってない!」
反射で否定する。
ひなたは首を傾げた。
「そんなに否定されると、ちょっと傷つく」
「えっ」
「冗談だよ」
すぐにそう言って、くすっと笑う。
だが、その笑顔が妙に胸に引っかかった。
チャイムが鳴り、次の授業が始まる。
俺は黒板に視線を向けるが、内容はまったく頭に入らない。
「……悠斗くん」
また囁き。
「今度は何だ」
「ちゃんと生きてる?」
「お前のせいで危ない」
「じゃあ、確認しよっか」
ひなたはそう言って、そっと指先を俺の胸元に当てた。
――ドクン。
心臓が、跳ねる。
「ほら」
彼女は満足そうに微笑んだ。
「ちゃんと動いてる」
「確認方法が間違ってる!」
声を抑えて叫ぶと、ひなたは楽しそうに肩を揺らした。
「今日もいい音だね、悠斗くん」
「俺の心臓を観測対象にするな……」
だが、その言葉とは裏腹に。
名前を呼ばれるたび、
近づかれるたび、
俺の心臓は確実に、彼女に慣れていっている気がした。
それが一番、怖い。




