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姉妹

 ――ザッ、ザッ、ザッ


 落ち葉を踏む足音が聞こえる。慌てる様子もなく淡々と刻まれるその音は、聞く者の焦燥をあおるように少しずつ近づいて来る。


(お願い! 気付かないで!)


 大木の根元に、一人の少女が身を縮めて座っている。年の頃は十四、五というところか。呼吸の音さえ立てぬよう可能な限り浅く息をしながら、全身を耳にして近づいて来る足音を聞いている。彼女の腕の中ではまだ幼い妹が、今にも泣きそうな顔をして懸命に恐怖に耐えている。少女は妹の口に手を押し当て、強く目をつむった。


(シスターの言うとおりだった! 森に入っちゃいけないって、あれほど言われてたのに!)


 少女がいるのは、街道から少し外れた森の中だった。まだ日は高く、森にも柔らかな日差しが降り注いでいる。だから油断したのだ。異形の『悪魔』は闇に潜むものだと、思い込んでいたから。

 足音は確実に、彼女たちのいる場所に近付いている。自らの鼓動すら厭わし気に、少女たちは大木の影で身を固くしている。見つかれば命はない。彼女たちにできることは、ただ『悪魔』が立ち去ってくれることを祈るのみであった。


 ――ザッ、ザッ、ザッ


 足音が間近に聞こえる。彼女たちが身を隠す大木のちょうど裏側に、どこか歪な何者かの気配が感じられる。足音が、止まった。


「この辺りに、誰かいたような気がしたんだけどなぁ」


 若い、少年と言ってもいいくらいの男の呟きが聞こえる。おそらくは少女と同じくらいの年齢だろう。出会い方が異なれば友人になれたかもしれない。少年が、人間であれば。しかし少女は見てしまった。少年が空を飛ぶ小鳥を、その口で食いちぎる様を。少年の首があり得ないほどに伸び上がり、小鳥を捕える瞬間を。


「気のせいだったのかな?」


 少年は立ち止まったまま、きょろきょろと辺りを伺っている気配が伝わってくる。早く、早くどこかへ行ってと、少女は妹を抱く手に力を込めた。妹が苦しそうに身をよじる。しかし少女は力を緩めることができなかった。そうしなければ、身体の震えを抑えることができなかったのだ。

 ふむ、と軽くため息を吐いて、少年は歩き出した。大木の脇を通り、急ぐでもなく規則正しい足取りで、森の奥へと進んでいく。足音が、遠ざかっていく。やがて足音は聞こえなくなり、少年の気配も完全に消えた。


「……はぁぁぁーーーーっ」


 少年の足音が去ってさらにしばらくの後、少女はようやく大きな安どのため息をついた。妹を抱いたまま、前かがみに俯く。生きている。その喜びをかみしめるように、少女は目を閉じた。彼女の腕の中で、小さな妹がもぞもぞと動く。ああ、もう解放してあげなければ、しかし手足が冗談のように硬直し、うまく力を抜くことができない。力を抜くにはどうすればいいのだったか。少女がその方法を思い出そうとしていると、不意に妹が小さく悲鳴を上げ、全身を固くした。その不穏な気配に目を開け、顔を上げた少女の目の前に、


「ミぃつケた」


 腐れたように歪む、少年の顔があった。足音も気配も届かぬ森の奥から、首だけを長く伸ばして、少年の濁った瞳が少女の目の前にあった。


「いやぁぁぁぁーーーーーーーっ!!!」


 恐怖と絶望をはらんだ少女の絶叫が、森に響いた。




 街道は辛うじて森を引き裂き、未だその役割を果たしている。街道が役割を果たしているということは人の手によって管理されているということであり、管理できるということはそれなりの力を持った領主が治める都市が近くにあるということだ。

 『悪魔』の出現によって人の生存圏は大幅に縮小し、人類のほとんどが、大洋に浮かぶ島のように点在する都市にひしめき合って暮らしている。王侯貴族や教会勢力が住まう強固な防護壁を持った都市以外の場所は死地とほぼ同義となったが、主要都市間の交通路は諸侯が擁する騎士団によって辛うじて維持されていた。今や騎士の最大の使命は、街道の保全とそこを行き交う隊商の護衛であるという。

 二体の悪魔を屠ってより数日、シェラーエンたちは朽ちかけた山道を抜け、主要街道を東へと進んでいた。シェラーエンの左肩でくつろぐ灰色ネズミが、益体もないことを延々としゃべり続けている。


「この世における最大の幸福とは何か。それは、酒を飲むことだ。この世における最大の不幸とは何か。それは、酒が無いということだ」


 灰色ネズミは拳に力を込めて演説のように酒を語る。耳元で酒への愛の告白を強制的に聞かされ、シェラーエンは迷惑そうに顔をしかめた。酒好きは昔からだが、今日は特にしつこい。灰色ネズミに最後に酒を与えたのはもう一ヶ月も前のことだから、いい加減しびれを切らしているということなのだろう。


「ああ、麗しき琥珀。さわやかな苦み。鼻に抜ける果実の香り。至福へと誘う甘やかな堕楽。おお、汝の名は酒。我が永遠の恋人」


 陶酔した表情で灰色ネズミが空を見上げる。一滴も飲んでいないにも関わらず、すでに酔いどれている灰色ネズミの芝居がかった台詞に、シェラーエンは密かにため息を吐いた。ネズミの魂胆は知れている。次の町に着いたら酒を買えと、そう言っているのだ。シェラーエンが酒を買うと約束するまでこの嫌がらせが終わることはあるまい。逆に言えば、約束さえすればネズミは黙る。


「その口を閉じたら、次の町で酒を買ってやる」

「オレは今から貝になる」


 根負けしたシェラーエンの言葉に、灰色ネズミはそう言って両手で自らの口をふさいだ。毎度のこととはいえ、このネズミの酒への執念には恐れ入る。そうまでして飲みたい理由が、酒を飲まないシェラーエンには理解できない。酒よりも重要なものはいくらでもあり、そして酒は決して安い買い物ではないというのに。

 朝の穏やかな日差しが辺りに降り注ぐ。秋の風は徐々に冷たさを増しているが、肌を刺すほどのこともない。魔神が世に出でて後、太陽は力を奪われたかのように弱々しくなったが、夏が暑く冬が寒いことに変わりはない。『悪魔』がどれほど世界を乱しても、四季の移ろいは変わらずに繰り返す。それが人にとって希望なのか、それとも自然が人と隔絶していることを示しているだけなのか、分からないが。

 灰色ネズミが口を閉ざし、心なしか軽やかになっていたシェラーエンの足が、不意に止まる。その表情は鋭く厳しいものに変わり、油断なく周囲の気配を探り始める。灰色ネズミがシェラーエンの肩の上で背を伸ばし、クンクンと鼻を鳴らした。


「いるぞ。『悪魔』も、その餌もな」


 不快そうに鼻にシワを寄せ、ネズミが森の奥を指さした。シェラーエンはわずかのためらいもなく、ネズミの指す方法へと駆けだした。




 すさまじい速さで木々が後方に流れていく。およそ人の身にはあり得ぬ脚力で、シェラーエンは人の手の入らぬ森を駆けていた。その一足ごとに地面に深い傷痕を刻み、その代償に得た力を速度に変える。倒木を飛び越え、せり出す枝を長剣で斬り払って進むその姿には、淀みも迷いもない。


「見えたぞ!」


 灰色ネズミの声と、まだ年若い少女の悲鳴が重なる。シェラーエンの視界に、はるか森の奥から首だけを伸ばした異形の『悪魔』と、恐怖に震える姉妹の姿が映った。『悪魔』は大きく顎を開き、今にも少女の首筋に食らいつこうとしている。まだ長剣の届く距離ではない。『悪魔』の目がおぞましい悦びに歪む。間に合わない! シェラーエンは手近にあったものを掴むと、『悪魔』の横面をめがけてつぶてのように投げつけた。


「うっそぉーーーん」


 驚愕に目を見開いた灰色ネズミが、吸い込まれるように『悪魔』の側頭部に突き刺さる。ゴッという鈍い音と共に、灰色ネズミの身体が弾かれて宙を舞う。思いもよらぬ側面からの衝撃を受けて、軌道を逸らされた『悪魔』の口が少女の首の横をかすめ、背後の大木を喰いちぎった。


「ダれだぁ! 邪魔をスるナぁ!」


 口から木片を吐き出し、『悪魔』がシェラーエンに顔を向けて歯をむき出しにする。幹を半ば以上抉られた大木が、メキメキと音を立てて倒れた。シェラーエンが『悪魔』の眼前に迫る。灰色ネズミが稼いだ数秒の間に、シェラーエンは『悪魔』との距離をゼロにしていた。銀色の閃きが水平に走る。


「あレ?」


 長剣の一閃で引き裂かれた『悪魔』の下あごが、舌と共に地面に落ちる。『悪魔』に何が起きたかを理解させる暇も与えず、シェラーエンは唐竹に『悪魔』の頭蓋を断ち割った。黒くどろりと変質した脳漿が断面から溢れる。しかしそれは地面に落ちる前に、身体ともども白い灰となって崩れ落ちた。シェラーエンは軽く息を吐き、長剣を振って穢れを払う。


「褒め讃えろ、オレ様の英雄的活躍」

「黙れ」


 シェラーエンは灰色ネズミの戯言を一蹴し、長剣を鞘に納めた。灰色ネズミがキーキーと抗議の声を上げる。シェラーエンは未だ硬直して動かない少女に近付き、地面に片膝をついて目線を合わせると、穏やかに話しかけた。


「ケガはないか?」


 恐怖に瞳を収縮させ、少女は浅く早い間隔で呼吸している。心にようやく追いついたように、少女の身体がカタカタと震えた。その両目から涙があふれ、頬を伝い落ちる。少女の腕の中の幼子が、火が付いたように大きな声で泣き始めた。シェラーエンはそっと手を伸ばし、二人を抱き寄せた。


「大丈夫だ。もう、大丈夫」


 少女がシェラーエンの肩に顔を押し付け、嗚咽を漏らす。幼子はシェラーエンの腕にしがみついて泣いている。シェラーエンは優しく二人の背を撫でた。


「よく、生きていてくれた」


 少女の嗚咽は徐々に大きくなり、森にこだまする。それが生の証明であるかのように。『黒い種』をパキリと噛み砕いて、灰色ネズミが微かに笑った。


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