黒い種
愚かな男がいた。その男は、自らの愚かな願いを叶えるために、異界から一柱の魔神を召喚した。魔神は愚かな男の愚かな願いを叶え、その代償に自由を得た。自由を得た魔神は、手始めに愚かな男を殺し、世界に一粒の種を蒔いた。『黒い種』と呼ばれたその種は、芽吹き、枝葉を伸ばし、花を咲かせ、実を結んで、新たな『黒い種』を生み出した。そして、幾らかの時が過ぎた――
もはや誰が通ることもない、埋もれ朽ち果てるべき街道の残骸に、一つの人影があった。ぼろきれ、と言って差し支えないフード付きマントを身にまとい、砂混じりの強い風の中をしっかりとした足取りで歩いている。真昼なのにどこか薄暗い印象を受けるのは、風に舞う砂埃が視界を濁らせているからだろう。砂を避けるためか目深にかぶったフードによって、その人物の容姿も、表情も、外から伺うことはできない。背格好からすれば少年、あるいは女だろうか。しかしその人物がまとう気配は、世間が少年に期待する未熟さや未来への希望とも、世間が女に期待する柔らかさや包容力とも無縁だった。
迷いなく歩いていたその人物が、ふと足を止める。彼、あるいは彼女の視界に、小さな村の入り口が映ったのだ。村の入り口は木製の粗末な門が設えられ、門の両脇には武装した――といっても鋤や鍬を手にして目を血走らせているだけの――門番らしき男が立っている。門番たちも突然現れた来訪者に気付いたのか、各々の武器を構えなおし、緊張した面持ちでフードの人物を睨んだ。
「ふ、フードを脱いで顔を見せろ!」
門番の一人が叫ぶ。二十歳そこそこの青年である門番の声は震えており、フードの人物に対して明らかな恐怖を感じていることが分かる。手に持つ鋤を突き出し、腰が引けた立ち姿は、荒事に慣れているとは言い難い。フードの人物は軽くため息を吐くと、フードの脱いでその顔を晒した。夜の闇を染め抜いたような黒い髪が、はらりと肩に落ちる。
「お、女?」
門番の青年が戸惑ったように呟く。フードの下から現れたのは、漆黒の髪と黒真珠の瞳、そして白磁のような、あるいはある種病的なほどに白い肌をした少女だった。年の頃は十六、七といったところか。だが、温かみをまるで感じさせない視線と思考の読めぬ無表情は、彼女を年齢よりもずいぶんと年上に見せていた。
「わかってるな?」
少女の耳元で、誰かがそう囁く。よく見ると、少女の右肩に一匹の灰色ネズミが乗っていた。知性の光を宿したネズミの瞳は、じっと門番の姿を見据えている。少女は小さく頷くと、再び迷いのない足取りで門番たちのほうへと歩き出した。
「ど、どうして君みたいな女の子が、一人でこんなところに?」
来訪者が年若い女と分かり、門番の青年はやや警戒を解いたようだ。突き出していた鋤を下げ、代わりに少女に疑問をぶつける。もう一人の門番、こちらもやはり二十歳前後の男なのだが、彼も武器ではなく言葉を少女に向けた。
「よく無事にここまでたどり着けたもんだ。ここらは今、『悪魔』が出たって大騒ぎでさ。俺たちもこうして、怪しい奴を村に入れないように番してるんだ」
気安げに話しかけながら、青年たちは少女に近付く。少女もまた、青年たちに向かう歩みを止める様子はない。
「そうそう。君も知ってるだろ。人の姿をした化け物のこと。そいつらは人に化けて人に紛れ、人を装って人を襲う。文字通り悪魔みたいなやつらさ。そう、例えば――」
互いの距離が迫る。少女の右手側から鋤を持った男。左手側からは鍬を持った男。そして互いに手が届くほどの距離まで近づいたとき、門番たちの顔が腐れたように歪んだ。
「――僕ラみたイニ」
鋤を持った男の胸の辺りが弾け、そこから飛び出してきた左右十二本ずつの肋骨が串刺しにせんと少女を襲う。左手にいた男は口を人間ではありえないほどに大きく開き、ぬらりと毒々しい色に光る舌を伸ばした。しかし少女はそれを予期していたかのように身を沈めてかわし、腰の長剣を抜きざまに肋骨男の腹部を払った。切り裂かれた腹からはどす黒い、明らかに血液ではない、粘り気を帯びた液体があふれる。少女はすばやく肋骨男の背後に回り込むと、背後から袈裟懸けにその身体を断ち切った。肋骨男の上半身が斜めにずり落ち、地面に転がる。一呼吸おいて、下半身もどす黒い液体の中に倒れた。
「オノレェェェ!!!」
毒舌男は奇声を上げると、再び少女に向かって舌を伸ばした。少女はわずかに右に身体をずらし、紙一重でそれをかわす。舌にまとわりついていた液体が撥ね、不快な臭いと共に少女のマントに焦げ跡を作った。少女は動じる風もなく下げていた剣先を跳ね上げ、伸びきった毒舌を半ばあたりで切断した。毒舌男のひび割れたような絶叫が響く。少女は無造作に距離を詰めると、何の感情も宿さぬ瞳のままで、毒舌男の首を刎ねた。
「ごくろうだった、シェラーエン・トラストッド」
少女の肩にいた灰色ネズミが地面に降り、やけに尊大な態度でそう声を掛ける。シェラーエンと呼ばれた少女はネズミの言葉にまるで反応を返さず、無言で長剣の穢れを払った。
「ノリが悪ぃぞ」
灰色ネズミは不服そうにシェラーエンを見上げる。シェラーエンは興味の無さそうに灰色ネズミを一瞥すると、軽くため息を吐き、長剣を鞘に納めた。
「――バケモノ、メ……」
地面に転がる毒舌男の首が、ぎょろりとした目でシェラーエンを見据える。
「てめぇに言われたかねぇな」
灰色ネズミは口を閉ざしたままのシェラーエンに代わってそう答えた。それが合図であったかのように、二体の悪魔の骸が白い灰となって崩れた。灰は風に巻かれ、砂埃と共に吹き散らされて消えた。本来この世ならざる存在である悪魔は、死して骸を残すことはないのだ。悪魔が残すのは骸ならぬ、小指の爪ほどの大きさの黒い塊――『黒い種』だ。
「そんじゃ、いただきましょうかね」
灰色ネズミは悪魔たちの残した『黒い種』に駆け寄ると、大きく口を開け、その鋭い歯でガリリと噛み砕いた。
『黒い種』は人に寄生し、人を『悪魔』と化す。『悪魔』は人々を無差別に殺戮し、人々を恐怖に陥れた。『黒い種』に寄生されている人間を外見から見分ける術はなく、人々は常に隣人が『悪魔』ではないかと疑うようになった。疑心は人々を分断し、惑わせ、思慮を奪い、やがて人々は一つの結論を得た。
疑わしきはすべて処刑せよ。
とある地方都市で起こった集団ヒステリーは瞬く間に全世界へと飛び火し、罪を犯したことのある者、その縁者、あるいは病のある者、コミュニティに馴染めぬ者、どこかの誰かが『普通ではない』と断じた者はすべて、捕らえられ、火刑に処された。後に『悪魔狩りの七日間』と呼ばれたこの期間に、世界の人口の三分の一が失われたという。そして失われた命の実に九割以上が、実際には『悪魔』ではなかったことが確認されている。
『黒い種』が最初に蒔かれてより十年。人々は疑い、疑うことに疲れ、なおも疑うことを止められずにいる。他者を排斥し、自らの属する小さなコミュニティに閉じこもって、今この時の安逸を求め、運命を切り拓く力を失っている。『黒い種』がもたらした疑心は、未来を語ることを嘲笑い、理想を描くことを冷笑して、現実に立ち向かう勇気を人々から奪っている。
世界は、緩やかに滅びを迎えつつあった。




