五 視線
翡翠登校三日目、帰宅後。リビングにて。
「うまくやれそうか?」
「ええ。みなさんとても優しいの。休み時間も私のところに来てお話ししてくれるのよ」
転校生ってのはそんなもんだろう。入った頃、すんげぇ興味をもたれる。そこでうまく溶け込めるかが腕の見せ所。完全に溶け込むことはなかなか難しいけど、存在感を薄れさせるくらいなら簡単に出来る……と言われてはいるが、俺にはやり方がわからない。
翡翠を学校に入れるのは本当に大変だった。帰国子女で、もともと通っていた学校がなくなったため日本に帰ってきた、とかなんとかそれらしい嘘をつき、家のハンコを勝手に使って転入届を提出する。でもそれだけじゃなくて、面接を受けさせられた。何とか切り抜けた翡翠に拍手。でも問題は他にもある。翡翠は機械に疎い。パソコンの授業なんかがあったらすぐ嘘がバレる。気をつけるように念を押してあるが、一応俺も気を配らなければならないだろう。
俺が今通っている羽風高校は平和だ。ちょっとしたヤンキーっぽいヤツはいるが、可愛いもので、俺は前の学校よりもずっと楽しく暮らしている。カズの存在が大きいのだろう。海の近くなので潮の香りが強く、購買では魚系の食べ物が多く売られている。部活も盛んで、俺の所属しているサッカー部は県内でもトップ八に入るほど。翡翠も、俺と出来るだけ一緒に行動するためにサッカー部のマネージャーになった。
俺は制服を脱ぐために二階へ向かった。ドアを開けると、一瞬翡翠の匂いがした。優しい、野花の匂い。それは、翡翠が俺の部屋で眠っているからだ。いやいや、違う。そういうことじゃない。翡翠が俺の部屋で、俺がソファで寝ているんだ。父さんの部屋には絶対に入ってはいけないと言いつけられていて、何より鍵がかかっていて開かない。一度悪ふざけで琳のヘアピン(部活の時だけつけるやつ)で開けようとしたら、防犯ブザーが鳴ってすぐ父さんから電話があった。さらに開かないとくる。ピッキング防止の仕掛けがあったらしい。あのときはさんざん叱られ、帰ってきたらベランダからつるし上げてやると脅された(あの温厚な父さんがあれだけ怒るんだ、相当のことだったに違いない)。帰ってきたときに忘れていたのが不幸中の幸いだったけど。だから、父さんの部屋のベッドでは寝られない。そして、家にはこれ以上の布団がない。つまり、俺か翡翠の寝る場所はないということだ。ここで布団を貸さなければ男がすたる。ってなわけで、俺はソファで寝ている。初めはやっぱりベッドがよかったけど、だんだん慣れてきた。俺は机の横に鞄をかけ、着替えようと部屋の窓のカーテンを閉めに行った。
「ん?」
思わず窓を開け放ち、身を乗り出した。今、誰かいなかったか? しかも、リビングの方を見ていた――というより、観察していた?
何だよ。近所のおっちゃんか。鼻歌交じりで自転車に乗っているおっちゃんを見て、俺は首を傾げた。おかしいな。今、絶対に人がいたはずなのに。気を取り直してカーテンを閉め、クローゼットに制服をしまう。スウェットに着替えて、俺は急いでリビングへ駆けた。ちょっと心配になったんだ。
「翡翠?」
「どうしたの?」
翡翠は、リビングで制服姿のまま食材を出していた。急いで窓の方を見ても、やはり誰もいない。カーテンは開いているから、観察は確かにできる。通りがかりの人が可愛い子がいると思って見ていたのだろうか。俺は何だか怖くなってカーテンを閉め、何も気取られないように翡翠に聞いた。
「何してんだ?」
「今日は琳と本で見たお菓子をつくるから、卵を常温に戻そうと思っていたの。あ、お風呂は今温めているところよ。もう少しかかるかもしれないわ」
つくづく気の利く娘である。時刻は午後七時。もうじき琳も帰ってくるだろう。
「お、おう。サンキューな」
「さんきゅう?」
「ありがとうって意味だよ」
たまにこうなることがある。翡翠にはわからない英語があるから。
「そうなの。難しいわね」
頬に手をあて、さんきゅう、さんきゅうと口ずさみながら翡翠は階段を上がっていった。部屋はあるんだよ、部屋は。ゲストルーム。ただ、ベッドがないだけ。だから昼間、翡翠はゲストルームで過ごしている。
「ただいまー!」
「おかえり」
玄関から元気な琳の声が聞こえた。あんなに大きな声ではきはきと話しているんだ、今日はそう悪い日じゃ――。
「あのね、さっきね、おじさんに話し掛けられた」
制服のリボンをするりと抜き取りながら琳がテンション高めに話し出す。
「どこで? 何の目的で?」
少し身体が強張った。大切な妹。ちょっとの情報でも敏感になってしまう。
「目が綺麗だねって言われた。あたしの瞳の色、珍しいもんね」
「ナンパか?」
「すっごく背が高くて、ずんぐりしたハゲのおじさんだった。真っ黒のコート着てて、タバコみたいな匂いがしたよ。ナンパじゃないよ、きっと」
おじさんでもナンパするだろ。
「ここらへんに住んでるの、って聞かれたから、頷いたら、アメくれた」
おいおい、どう考えても怪しいぞ。琳は素直で人懐っこく、他人を警戒しない。でもこれは小学生でもわかるような『危険』だ。
「それ、俺が預かる。いつも言ってるだろ、人ははなから疑ってかかれって。どんなヤツかわからないんだ」
「でも、どんな人かわからないのに初めから信じてあげなかったら可哀想だよ。人って信頼で出来てるでしょ」
「あのなあ」
どうしてそんなに純真でいられるんだ。俺は教育を間違えたのか? 言っていることはわかる。心理もわかる。だが、そうして欲しくない。こいつは他人の怖さをまだ知らないだけだ。知る時は心に傷を受ける時。琳が落ち込むのなんて、見たくない。
琳がアメを俺に手渡し、説教されるとわかったのだろう、走って階段を上っていった。
「待て、スカート短い!」
「普通だもん!」
「下からパンツ見えてるぞ!」
「……エッチっ」
ったく、どうして言うことを聞いてくれないんだ。琳のためなのに……。
手の中でひんやりしているアメを見る。毒でも入っているかもしれない。
ん?
俺はアメをリビングの照明に透かした。さっきまで緑色だったアメの色が、今は白くなっている……?
いやいや、あり得ない。気のせいか。
今日の夕飯は、食事の定番であるハンバーグにしようか、それとも焼きそばで簡単に済ませるか? そんなことを考えながらキッチンで冷蔵庫をあさり始めた俺の心の中で、やはり嫌な気持ちは消えなかった。
さっきの視線。見られている、と強く感じた。何事もなく過ごせれば、ただの思い違いであれば一番いいが、何かあれば俺が絶対に二人を守らなければならない。頼れるのは自分だけ。何が何でも、仲間と家族は守りたい……。
「はぁ……」
一瞬、眼がかゆくなった。幼少時からたまにある、眼の強いかゆみ。でも小さいころから眼はかくなと強く教えられてきて、その言葉が身に染みついているのでかけない。俺はとりあえず目薬をしようと思い、リビングに戻った。




