三 匿う
空気を変えようとして、俺は言った。横殴りの雨が、窓に当たって音をたてている。カーテンを閉めようかな。俺は窓に近づいた。
「すい」
少女が、唐突に呟いた。
「ん?」
思わず振り返ると、イスに座ろうとしていた少女が初めて表情を明るくしている。
「何だか、すいという言葉が頭に浮かんできて」
「思い出したのか!」
「いえ、まだ全部は……今、雨を見て思い出したのです」
「雨、か」
ぼんやりと空を見上げると、さっきよりは雨が弱まってきていることに気づいた。このままにしておこう。彼女の記憶の鍵かもしれない。俺はカーテンを閉めずに、テーブルに戻った。
「ねえ、年齢は? 思い出せないの?」
おやつを食べて機嫌を直した琳がスイ(仮)に聞いた。どうやら敬語が面倒くさくなったようだ。でもスイはそれを気にせず、琳に向き直った。うっすら微笑んでいる。
「たぶん、十七歳です。先ほどまで着ていた服に、こんなものがついていて」
スイは元々身に着けていたずぶ濡れのワンピースをビニール袋から出し、首元を指差した。琳と一緒に覗き込んで見ると、プラスチックのタグのようなものが付いている。『A‐十七』と書いてあった。
AGE‐十七の略か? それだったら十七歳で納得がいく。でも、洋服に人の年齢を書くだろうか。しかもプラスチックのタグ。着ていて邪魔なはずだ。趣味で付けるとは思えない。
「思い出せたのなら何でもいいよっ!他には?」
琳が言ったので、俺の思考は別の方へ向かった。スイが眉をひそめ、考え込む。でも、すぐに首を振った。
「ダメ、です――黒い靄に包まれて見えないのです」
「変だな。記憶喪失ってそういうもんなのか?」
「聞いたことないね、お兄ちゃん」
俺たちは首を傾げた。とはいえ、とりあえず俺たちのことも知ってもらわなくてはならない。
「ともかく、俺は神代匡輝」
「あたしは妹の琳祢。よろしくね」
スイが微笑み、大きく頷いた。すると琳が真面目な顔をして言った。
「病院はどうするの? 覚えてないから、お父さんお母さんには連絡出来ないでしょ。でも病院は連れてってあげなきゃ」
「病院、な。ただ今日は日曜日だからな……どうしようか」
すると、スイがきょとんとして聞いた。
「病院、とは?」
病院もわからないのか。機械でもないのに。とはいえ、これはだいぶ手こずりそうだ。
俺は二人に少し待つように言い、二階へ行って自分のノートパソコンをとってきた。スイはじぃっと俺がいじっている手元を見ている。そして典型的な大きい病院の画像をスイに見せた。
「これが病院。人が助けてもらえる場所だ」
「いやぁっ!」
病院の画像を見た瞬間。スイが目を覆う。
「どうしたの?」
心配そうに琳が聞くと、スイは肩を震わせながら答えた。
「怖い、です……それ、見たくない……」
俺は急いでノートパソコンを閉じた。そしてスイが落ち着くのを待った。
五分くらい経っただろうか、やっとスイが顔をあげ、力のない笑みを浮かべた。
「すみません、その病院というのは何だか、とても嫌な印象で……」
病院嫌いという人はたまにいるが、今の反応にはまた違う意味が含まれていそうである。どうしてこの典型的な病院の外観がダメなのだろうか? わからない。でも、こんなに拒否反応を示していると、実際の病院も見せない方がいいだろうと考えざるを得ない。怖がって記憶の扉がさらに閉まってしまっては元も子もないし。
「でも、どこにも何も言わないではここにいられないよね?」
「ああ。こんな雨じゃ交番まで行くのが大変だから、とりあえず通報してみるか」
不安そうな琳と不思議そうなスイの顔を見ながら、俺は電話に手を掛けた。番号を押し、受話器をあげる。
「はい。警察です。事件ですか、事故ですか?」
「あーっと……」
事件とも事故とも言い切れない。
「どうなさいましたか?」
「あの、迷子を見つけたんです」
咄嗟に迷子としか言えなかった。少し幼稚で恥ずかしい。
「では、見つけた場所とその迷子の方の特徴を教えてください」
さすが警察、冷静である。
「えーと、場所は自宅の目の前、特徴は白髪に青い目、すごい美人で記憶喪――」
「……警察は遊び道具ではありません」
「いや」
「君、名前は? これ以上は公務執行妨害ですよ」
俺はため息をついて受話器を置いた。
「どうだった?」
そりゃ俺だって信じない。言ってることが非現実的すぎる。記憶喪失なんてそうそういるもんじゃない。ましてや子供だけで『家の前で拾いました』なんて言ったら、子供の悪ふざけ、と取り合ってもらえない可能性の方が高くて当たり前だ。信じてもらうしかなかったんだが……。
「ダメだ。信じてもらえない」
「交番まで行っても?」
「直に見れば信じるかもしれないが……」
正直、どうされるかわからない。もしも交番その場所でも髪を染めたカラーコンタクトの女の子を前に出すいたずら集団だと思われたら、スイが心に傷を受けるだろう。
琳が目を伏せ、スイが曇った顔をする。俺は顎に手を当てた。
いいことを考えた。
ここで――この家で、スイが記憶を取り戻すのを待てばいいんだ。
俺はそれが今とれる唯一の方法だと思った。これならスイも怖い思いをせずにゆっくり記憶を戻せるだろう、と。病院に行くのが最善の方法だけど、本人が嫌で怖くて無理なら仕方ない。幸い、家には俺たち兄妹しかいないから、誰にもバレずにこの子を匿ってやれる。匿うって言い方はおかしいか。でも何か引っかかるんだよな。何か……この子と一緒にいたい、って感じか? いやいや、一目惚れとかそういうんじゃない。家に置いておく方がいいという理論の下であるのは確かだが、ここで一緒で暮らした方が良いという『勘』も、その決定の理由として大きく占めていた。
だから、うん、そうしよう。それがいい。
とりあえずこのままじゃ不便なことがあるので口を開いた。
「じゃあ、ここでスイの呼び名を決めたいと思う」
「スイじゃダメなの?」
「それじゃ何かなぁ。 真面目な名前、ないか?」
「うーん」
琳は顎に手を当てて考えている。スイがわくわくしているように前のめりで俺たちを見た。
「水美は?」
俺が言うと、琳に横目で睨まれた。
「センスなーい」
「悪くはないと、思いますが……」
ちぇっ。スイにも苦笑いをされる始末だ。
「翡翠はどうかな?」
ぽんっと手をたたいて言った琳を、ほっとした顔でスイが見つめた。
「いいじゃん。目、宝石みたいに綺麗だしな」
「いえいえ……でも、翡翠は素敵なお名前ですね。ありがとうございます、琳祢さん」
簡単に名前が決まった。この子は、記憶を取り戻すまで『翡翠』だ。
「ううん。あと、琳でいいよ。ねぇ翡翠、敬語やめようよ!」
「琳祢さ……琳が、言うなら」
翡翠は淡く微笑んだ。俺もにっと笑った。この分なら、うまくやっていけそうだ。
「これからのことだが……」
俺はそこで一度言葉をきり、琳と翡翠の顔を交互に見てから言った。
「まず、本当の名前や住所がわかるまで、翡翠にはこの家で暮らしてもらう」
当然のことだ。でも翡翠は驚いたように首を横に振った。
「ダメです! これ以上ご迷惑をおかけするわけには……」
それを見て、琳がアハハと笑った。
「敬語出てるよ。それに、あたしは翡翠がいてくれた方がいい。楽しそう!」
「俺もだ。言っておくが、完全なお客様ではない。家事とかは手伝ってもらう」
翡翠がまたほっとした顔をした。普通、いくら記憶喪失でも他人の家に居候するというのは怖いという意味で気が引けるだろう。でも、琳にはカリスマ性がある。いつも周りに人がいるんだ。それはきっと彼女の性格の根っこにある、優しい、明るい、楽しいという三拍子から来る人気なんだろう。まあ、単純に可愛いという理由もあるとは思うが。翡翠もそれに惹かれて、俺たちのところに身を寄せることに安心して納得してくれたのかもしれない。俺は平凡だから、そんな魅力はないけど。
「それなら、お願いします」
「でもそれなら、どうやって身元を探すの?」
「ネットで検索する。翡翠は特徴が多い。すぐに見つかるだろ。それに、ニュースになるかもしれないから、テレビやネットの情報には注意しよう」
「もし見つからなかったら、ずっとここにいていいからねっ」
ずいぶんと翡翠が気に入ったようで、琳は翡翠に満面の笑みを浮かべた。
実際、話はここまで単純じゃないかもしれない、と俺は思った。雨の中、傘も持たずに道に倒れていたなんて、どう考えてもおかしい。なにより、記憶喪失になるきっかけがあったはずだ。それを踏まえると、最悪の場合、誘拐されたと考えるのも必要だ。こんな美少女だし。もしそうだったら……。翡翠は、心理的ストレスで記憶喪失になったのかもしれない。こんなこと考えたくないけど、それも翡翠を家から出したくない一つの理由だった。犯人がまだ近くにいるなら、今外出させるのには危険が伴う。
「では、これからよろしくお願いします、匡輝くん、琳」
そんな俺の思案を余所に、翡翠は影の無い笑顔を見せた。