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一 朝帰り

 今日も雨だ。しかもどしゃぶりの。昨日から降り始めた大雨は、なかなか勢いを落とすことなく降り続いている。大粒の滴がコンクリートにバシバシ当たる音がうるさくて、俺は換気のために開けていたリビングの窓を閉めた。こんな雨じゃ朝から憂鬱だぜ、まったく。


「お兄ちゃん、お風呂湧いたよ!」

「ああ」


 お兄ちゃん、と言う呼び名は正しい。俺は兄だ。

 風呂場に向かうと、妹の琳祢が『あたしって優しいでしょ、褒めて褒めて!』という顔をして俺を見上げた。とりあえず、照れくさいので彼女の頭をぽんぽんした。目を細めて気持ちよさそうにしている。俺が手を離しても、まだ満足げな表情をしているのが可愛かった。


「ありがとな」

「うん!」


 しかしその時、俺の思考は別の所に向かい始めていた。

 どうやって風呂に入るか。彼女は風呂場の目の前に立っている。俺が風呂に浸かるには、服を脱いで、気が利かないのか脱衣所に突っ立っている妹を退かして風呂場に入らなければならない。


「風呂、入りたいんだけど」

「入ったら?」


 にこにこしながら見上げてくる妹を見て、俺は密かにため息をついた。ここではっきりと言うほど、妹の扱いに不慣れな兄ではない。

『退けよ、風呂入れねぇだろ』

『退け、って何?! 言い方悪いっ』

 特に彼女は俺の一言一言に敏感で、すねたりはしゃいだりと忙しい。退いてくれ、路線で攻めよう。


「琳」

「なぁに?」


 面倒くさいので俺は彼女を琳と呼ぶ。まあ発音としては一文字しか変わらないのだが、愛称で人を呼ぶことはそれが変なものでなければいいものだ。親密度が増す気がするし。

 俺を無垢な顔で見上げている琳が心配になる。気が利かない、という意味もあるのだが、まあ察して欲しい。

 彼女がなかなか可愛い外見をしているというのは、俺が兄バカなわけじゃない。生まれつきの茶髪は首までの長さ、というショートヘアに、クリクリとした二重の目は純日本人のはずなのになぜか若草色をしている。一五五㎝という小柄な背丈は俺が頭を撫でてやるのにちょうどよい高さである。とはいえ、小柄なのと胸がないのがコンプレックスな琳はこれを言うとすねるので、我が家では禁句である。

 俺は兄だから、こういう状況には慣れてるつもりだ。


「宿題終わったか?」


 この子は中学二年生。宿題は普通に出されるから、これを口実に退かそうと思った。


「終わったよ! 週末だからいっぱい宿題出たんだけど、今日はね、頑張っちゃった」

「そ、そうか」

「あ、べ、別にお兄ちゃんと一緒にいたいからって訳じゃないから!」


 慌てた様子の琳に、俺は真顔で返す。


「そりゃそうだろ、俺のために勉強するんじゃ意味がない。勉強ってのは自分のためにやるもんだ」

「はーい」


 琳がちょっと傷ついたような目でぷっと頬を膨らませた。俺は自然な感じで風呂上りに着る服を棚に置いて言った。


「今日の飯は何がいい?」

「うーん」


 飯を作る→冷蔵庫の中身を調べる、という構図で攻めよう。

 琳は顎に手を当てて考えている。

 まだ考えている。

 ……長くね? 俺は間接的に自分へのものである助け舟を出すことにした。


「冷蔵庫に何が入ってるかで決めようか。見といてくれよ」

「うんっ」


 よし、やっと出て行った。長かった。

 脱衣所のカーテンをさっと閉めると、俺はトレーナーとインナーを脱ぎ、ベルトを外し始めた。


「お兄ちゃん、お電話!」

「あ、ちょっ!」


 開けるな、という言葉が俺の口から出る前に、カーテンがシャッと開き、琳が電話の子機を持った状態で姿を現した。

 いや、この状況は勘弁してくれ。何だこれ。辱めか。

 琳が目を見開いたと共に、家の電話の子機を投げつけてきた。そして走って逃げて行った。


「お兄ちゃんのバカー!」

「いやそれこっちのセリフ!」


 何とか子機をキャッチしながら言い返す。脱衣所で服を脱いで何が悪い! ってかカーテン閉めろ!

 電話の向こう側で何やら声が聞こえるので、繋がっていたのかと一瞬ヒヤッとした。ズボンを引き上げながら、とりあえず電話を耳に当てる。


「代わりました」

「ああ、匡輝。何だか楽しそうだね」

「父さん? 楽しいなんて生易しいもんじゃないよ」

「ハハハ、我が神代家のモットーは仲良く、だろ?」

「まあそうだけどさ……」


 なかなか帰って来ないくせに、という言葉を飲み込む。


「電話なんて珍しいよな、何かあった?」


 俺は電話を肩で支えながら靴下を脱ぎ始めた。


「いやね、会社でミスがあってさ」

「父さんが?」

「父さんがするわけないだろ、部下がちょっとね……だから、家に帰るのはまた先のことになりそうなんだ。それを伝えに電話したわけ」

「そう、か」


 父さんの仕事はかなり忙しく、滅多に家に帰って来ない。帰ってくるのは一年に数える程度。

 今回の引越しも彼の仕事の都合によるものである。住宅街の外れにある一軒家に越してきた俺たち神代一家は、引越し当日だけ家族全員である三人がそろったものの、次の日にはもう父さんは会社に行ってしまって、帰って来なくなった。きっと籠って仕事をバリバリやっているんだろう。父さんはやり手だから。

 俺には母親がいない。だから普段は俺と琳の二人で生活しているのだ。


「変わりない?」

「特には」

「高校はどうだ? 二年だし、あの羽風高って結構勉強難しいって有名だけど、ついていけてる?」


 引っ越した先で通うことになった羽風高校。


「ぼちぼちやってる」

「そうか。よかった。琳はどんな様子? 新しい環境だから心配しちゃうな」

「困ってる様子はないよ。琳も成長したなと思って」

「そんなのわかってるよ。二週間前に会ったばかりじゃないか」


 あはは、という電話越しの笑い声を聞いて、俺は無表情な自分に気づいた。

 親と二週間前に会ったきりのことを、『会ったばかり』というのだろうか。


「じゃあ、お金は送るから。琳と家をよろしく」

「わかってる」


 家事は全般俺がやっている。財布のひもを締めるのも俺である。遊びたい盛りの高校生に財布を預けるのはどうなのか、と思いつつも、別に父親のことを嫌っているわけではない。残っている、たった一人の肉親だ。憎めない。


「またね」

「ああ、父さんも仕事頑張って」


 そして父さんは電話を切った。ツーツーと音が聞こえる。

 子機を棚に置き、風呂のドアを開けた。湿気が疲れた身体を包み込む。

 シャワーで髪を濡らし、琳が使っている女の子らしいいい匂いがするシャンプーとは別のノーマルな自分用で頭をごしごし洗った。お湯で流すと、少しクセのある黒髪が指に絡まっていた。

 一通り身体を綺麗にしてからやっとこさ風呂に浸かると、緊張が解けてほっとするのを感じた。昨日はあんな変なヤツに出会ったし、何か走り通しだったし、今朝は……。

 そうだ。今朝、ひどい目にあったんだ。

 あの件があり、ほぼ朝帰りという状態だったのだが――。

 やっと家に着いた、とくたくたでドアに鍵を差し込み、ドアノブに手をかける。しかし、チェーンがかかっていてほんの少しの隙間しか開かなかった。

 これはまずい、と思った。家に入れない、という問題ではなく。いやそういう問題でもあるんだが、もっと大きな問題に、妹が怒っているというものがあった。彼女は嫉妬深い。そして、どうも俺に変な勘違いをしていたらしい。俺は生憎、不機嫌なまま寝ていると思われる琳のことを、ドアに向かって呼ぶという勇気を持ち合わせていなかった。しょうがないので屋根のある玄関先に雨なのに座り込み、うとうとと微睡むことにする。本当は自分のベッドにごろんと横になりたいが、琳を怒らせてしまった以上、下手なことは言えない。朝の空気になってきたなぁとぼんやり思っていると、ふとドアが開いて家に引きずり込まれた。もちろん、琳に。そして転んでいる俺に向かって仁王立ちをし、


「こんなフシダラな人だと思わなかった!」


 と言うのだ。

 ……誤解である。


「何言ってんだ?」

 

 ところが俺もイライラしていたのでけんか腰だった。そりゃそうだ、外は雨、鍵を持っているにもかかわらず玄関で朝まで立ち往生。さすがに俺もムカついてくる。


「朝帰りなんて、お兄ちゃん不潔! まだ高校二年生のクセに。しかも引っ越してばっかり! 相手は誰?」


 てん、てん、てん。


「違う違う! 何考えてるっつーか何てことを知ってるんだお前は?! 誰に聞いた?」

「新しい学校のお友達が言ってた」


 二週間でそんな深い話をする友達が出来たのか(喜べるような内容ならよかったのに……)。


「いいか琳、そういうことに興味を持つのはな、まだ早いんだ。別にそんなことをしてきたわけじゃない。俺は貞操を守ってる」

「テイソウ?」

「あああ! 何でもない! とにかく違う、誤解だよ」


 それでも彼女は不機嫌そうに腕を組んで、正座に切り替えた俺を見下ろしている。


「じゃあ、どうしてこんな時間に帰ってきたの?」


 ここで何と言うかで俺は考えた。クマっぽいヤバそうなヤツに遭った、と言っても、信じない、もしくは心配と恐怖から泣きだすだろう。まず、もし遭ったなら真っ先に家に帰ってきていいはずだ。正直に全てを話すのも気が引ける。危険そうなことには巻き込みたくないというのがやはり人情だろう。


「森で転んで、警官に見つかったんだ。それで事情聴取されてたわけ」


 苦しい嘘だ。なぜ転んだのか、なぜ警察がいたのかも説明できない。なぜ事情聴取されたのかさえ。まずい。これが嘘とバレたら、本当に俺は――。


「大丈夫? どっか痛い?」

「い、いや、転んだというより倒れたっていう方がいいか。貧血でな、ちょっと意識がなかったんだ。でももう大丈夫だよ」


 こいつ騙された!


「そっか。ならいいの。ごめんね、疑って。冷えたでしょ?」

「いや、まだ九月だからな」

「お風呂温めてくるね。おかえり、お兄ちゃん」


 そう言って琳は、廊下をぺたぺたと駆けて行った。

 ――そしてこうやって風呂に入れているわけだが……思い出せば出すほど気分が悪くなるので、もうやめにすることにした。

 身体が温まってきたと同時に風呂がぬるく感じたので、最後に追い炊きをした。しかし、何だか熱くならない。設定温度を見ると、三八度になっていた……こりゃぬるいわけだ。あいつ、熱い風呂苦手だからな。四三度に設定温度を上げ、目を閉じる。

 脳裏に浮かんだのは、あの黒いナニカ。異様な雰囲気で、正体不明なモノ。あんな生き物は見たことがない。

 でも、今さらどうにも出来ない。写真を撮る余裕なんかなかったし、第一そんな気もない。

 関わらない方がいい。そんな気がした。

 風呂釜のお湯で顔をパシャッとやってから風呂を出る。いつまた琳が入ってくるかわからないので急いで服を着た。

 タオルで髪をごしごしやりながらリビングに戻って時計を見やると、昼近かった。琳がソファで横になって寝ているのを見て、不思議と頬が緩んでいた。


「風邪引くぞ」


 小声で呟き、ソファの背もたれに置いてあった毛布を掛ける。琳がむにゃむにゃ言いながら身じろぎした。

 俺はテーブルのところのイスに座り、テレビをつけた。昼のニュースがやっている。


『今日は様々な学校で運動会が行われました。山地にある、菜花小学校から中継が繋がっています。リポーターの花子さん!』

『はーい! こちら菜花小学校です。世界中の国旗が繋がれたこの装飾を見ると、運動会という感じがしますね。ご覧ください、元気に小学生が徒競走をしています!』


 楽しそうな子、一生懸命に走っている子。にこにこしているその親たち。

 無意識にチャンネルを変えた。


『ジェイト監督最新作。涙が止まらない、笑いが止まらない、犯人への怒りが止まらない! そんなお楽しみ満載の新感覚映画、九月二六日ロードショー。一部地域では公開されません』


 この監督、いっつも新しい試みして全部空回りしてるんだよなぁ。そんな溢れるほどの悲しみと喜びと怒りが一時間三〇分に収まるか? 結構難しいぞ。まあこの人の映画見たことないけど。第一映画自体あんまり観に行かないし。

 CMだったので、またチャンネルを変える。しかし変えた先もまたCMだった。


『スレイプニル社の新製品。深爪を早く治す薬、その名もニューネイルキュア!』


 この会社は、日本で有数の医療関係の大企業である。インフルエンザの新薬や、凄まじく評判のコンタクトレンズなど、夢のようなものを次々と編み出している。何年か前からあるけど、そのときから大注目されていた。海外からも。みんなスレイプニル社と聞けば安心する。安心・安全・低価格のすげぇ会社だ。その反面、いろいろなボランティアや募金もしている。もうこの世界には欠かせない。

 ただ、今回の製品はどうかなぁ。ネイルキュアって。ってか、ニューってことは旧作があったのかよ。

 何個かさらにチャンネルを回して、やっとローカル番組に落ち着いた。


『この地域は昨日から雲が厚く広がり、現在も多量の雨が降っています。週明けも降り続き、次晴れるのは来週半ば以降になるでしょう。さて、次は美味しい定食屋を探すコーナーです』


 そういえば腹が減った。そうだ、今日は朝飯も食ってないんだ。俺はリモコンを手放し、キッチンに向かった。

 冷蔵庫の中には……半分使ったキャベツと、冷凍してあった豚肉を解凍したヤツ、琳の好きなフルーツジュースに牛乳……。

 食材がない。後で買い出しだな。日曜日のタイムサービスは俺にとって天の恵みだ。反面、地獄の争いでもあるが。

 何を買って来ようかメモを取ろうと思って俺はまたリビングに戻った。牛乳をコップについでから。

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