79.
「何とも興味深い……生えている樹木の種類が、ここよりもっと北にあるタイガ気候のものとほぼ一致している」
シンクレアの指摘に従い、イチイの木を目印にして山の中に踏み込んだとたん、イルサンが感心した様子で辺りを見回した。
「パイン(松)にモミと言った針葉樹がメインで、あとは所々バーチ(カバノキ)とブナが生えている。この山に連なる丁度反対側、東側の山脈の調査に行った事がありますが、そちらはモミとパインが少々生えているくらいで、後はオーク、メープル、バーチ等の落葉樹が植生の大半を占めていました」
言いながら立ち止まって、近くに落ちていた木の枝を拾い、足元の土を掘り返す。
「うん、やはり表面に腐植層でその下に脱色層がある。この黒色は蛇紋岩――これは凄いですね。思った通り、これはポドゾル土壌です」
「ポドゾル土壌⁈」
フェリシテとヒューイットが目を丸くする。
ポドゾルは寒冷地に見られる、酸性で養分が溶け出しやすい、いわゆる痩せた土と言われる土壌である。知識として知ってはいたが、国外のもっと北にある寒い地方のものと思っていたため、ここがそうだと言われて驚いた。
「ええ。先程歩いていた平原には、カルーナが生えていました。あのあたりは泥炭地の可能性があります。泥炭の土は燃料になりますよ。領民の方達が言い伝えを守ってこの辺りに近付かないなら感心しますね。泥炭地で野営をして焚火をすると土に引火して泥炭地一帯が燃えますし、針葉樹は燃えやすいので、すぐ山火事になってしまいます。こんなに何百年も育った大木が生えている人に荒らされていない土地は非常に珍しいです」
イルサンは本気で感心している様子だ。
「――ラザフォード領の大半で農作物の生育が悪いのですが、もしかしてポドゾルが原因ですか?」
思わぬ所で長年悩まされていた問題に突如回答が得られて、ヒューイットが前のめりになる。
イルサンは「おそらく」と頷いた。
「この土壌がラザフォード領に広がっているなら、農作物は育ちにくくなるでしょうね。草木灰とたい肥などを適切に施せばいくらかは改善するでしょう。かなりな作業になるので、外国では手をかけずに牧草地にするのが一般的ですが。もし農作物を育てるなら、ジャガイモやトウモロコシが良いです。他の作物は生育が悪くなると思いますよ」
……心当たりが有り過ぎる。言われた通り、ジャガイモとトウモロコシはそこそこ収穫できるのだ。
熱心に聞いていると、シンクレアも話に加わって来る。
「酸性の土壌だと果実が向いているんですよね。キイチゴやブルーベリー、桃、リンゴ……栗も良い。反対にブドウやイチジクは向いてません。ホウレンソウや玉ねぎも育ちにくい。土の酸性度は大まかに指標植物で見分けられるんですよ。――酸性の痩せた土地にはホーステール(スギナ)、アザミ、ソレル(スイバ)、クローバーが生えますけど、土が中性で肥沃だとチックウイード(ハコベ)、バーズアイ(オオイヌノフグリ)、シェパーズパース(ナズナ)、パースレイン(スベリヒユ)が生える。作物を育てるなら、痩せ地にはジャガイモやトウモロコシを、肥沃な地に一般的な野菜を栽培すれば、まず失敗しません」
さすが二人とも専門家だ。
そこまで詳しい知識が無かったフェリシテとヒューイットが感心する。
「……残念ながら、それだとラザフォード領の多くがポドゾル土壌な様ですね。領境辺りはまだ良いが、全体的に農作物の収量が少ないので」
不作の原因が分かったが、改善するには相当な努力が必要そうだ。
アドバイスは有難く受け取ったとしても、一朝一夕にゆくものではない。ヒューイットの苦悩は、まだまだ解消にはほど遠いらしい。
「ラザフォード領は農作物の低収量で悩んでるんですか?確か最近、小麦が有名になっていた気がしたけれど」
「ええ。小麦も増産体制を取ってはいますが、多くはないのです。ほとんどの野菜や穀物は近隣領からの輸入で賄っている状態で」
シンクレアに指摘されたヒューイットが頷くと、イルサンが不思議そうな顔をする。
「小麦が有名なんですか?ライ麦でなく?」
ライ麦の性質は小麦より強く、痩せ地でも育つ。本来はラザフォード領の様な土質だと小麦よりライ麦が合うのだが、現在、農家でライムギを育てているのは一握りだ。
「……一世紀も前の話ですが、我が領でライ麦パンで“聖アントニウスの火”……つまり麦角菌中毒が流行してからは、栽培する農家が激減したのです。未だに忌避感があって、育ちが悪くとも小麦を育てているんですよ」
――麦角菌中毒とは、およそ100年前に国内で大流行した病気だ。
当時、ライ麦に付いた菌がライ麦パンに混じり込み、嘔吐や錯乱、意識不明や流産を引き起こし、死者まで出した。
麦角菌中毒は国内ではとっくに終息しているのだが、恐れが根強く残っているらしい。
それを聞いて、博士二人は「それは仕方ないね」と深く納得した。
ところが直ぐに「――あれ?」とシンクレアが首を傾げる。
「もしかしてフェリシテ嬢のご実家、ノアゼット領から小麦を購入してます?今朝買った新聞で、ノアゼット伯爵がコレラ被害が深刻な北部へ大量の小麦を無償援助すると発表して大ニュースになってましたけど、勿論、ラザフォードでは十分な小麦を仕入れてますよね?」
――――そんな話は初耳だ。
今朝はヒューイットがやって来たため、出迎えで新聞を読むのが後回しになっていた。
フェリシテとヒューイットの顔から血の気が引く。
父親を軽く強請ってノアゼット産の古小麦を4割引きで購入する契約だったが、まだラザフォードには3分の1程しか納入されていない。
「……これは、やられましたね」
妹の結婚式に散々招待されたのを蹴り、グランデール地方の水害の尻ぬぐいをさせるための招集にも応じなかった事で、恐らくノアゼット伯爵が腹を立てたのだろう。
……まあ、その怒りは非常識なものだが。
もともとケチな父親が、親切にラザフォード領の分の小麦を確保しているとは思えない。
『コレラ被害で苦しむ北部のために、ありったけの余剰分の小麦を無償で送ってしまった』などと言い、うっかりを装って嫌がらせを正当化してくるはずだ。間違いない。
こちらへの嫌がらせと、グランデールの醜聞を掻き消すための大規模なパフォーマンスだ。
フェリシテはうんざりする程、父親の性格を分かっている。
それにしても、とんでもない事をしてくれたなと頭痛がしてきてフェリシテは額を押さえた。
ヒューイットも察したのか、渋い顔をしてシンクレアの問いに答える。
「……いえ、ラザフォードにはまだ輸入予定量の3分の1しか届いていません。だが、そう公表されたなら別の領からの輸入に切り替えるしかありませんね」
北部の領はどこもコレラ被害にあっており、近隣からの輸入は難しいだろう。
離れた領からだと輸送費がかかるなと、フェリシテとヒューイットは頭を悩ませた。
4人は話しながら緩やかな傾斜を下草を搔き分けて登っていたのだが、いつの間にか歩いている横に小川が流れ始めているのに気が付いて「皆さん、間違って今歩いているルートから外れない様にしてくださいね」と真剣な顔でイルサンが注意喚起した。
「妖精のかどわかしと言う言い伝えは、単なる脅しじゃない様です。何故近隣でラザフォード領だけ地質が違うのか謎ですが、ポドゾルと蛇紋岩で形成されているこの山は、非常に風雨の浸食を受けやすいので、イチイの木を目印に登るルート以外の場所に踏み込むと土砂崩れを起こすか、地面が陥没しますよ。レオンさんのお祖父様は遭難もせず、運が良かったんでしょうね」
「さすがイルサン!その通りだよ。前回は陥没した穴に落ちて紫水晶の鉱床を発見したのだ。またあんな体験をしたいなあ」
シンクレアがうっとりしているが、4人揃って穴に落ちたらシャレにならない。
「巨大な紫水晶の鉱床…………」
シンクレアの言葉にイルサンがソワソワし始める。
「地表近くにそんな巨大鉱床があるなんてと思っていましたが、この地質を見たら有り得るかもと納得しました。この辺りは恐らく3億年から2億年前の石炭紀あたりに形成された地形だと思います。――それが風雨で蛇紋岩とポドゾル土壌がどんどん侵食されて、古い時代には地面の奥深くに埋まっていたはずの石英の鉱床が露出したんでしょうね」
「3億年前⁈」
途方もない数字が出てきて、フェリシテとヒューイットが驚く。
「だとすると紫水晶だけが露出している訳では無いのでは?他にも埋蔵されていた鉱物が地表に露出している可能性がある」
シンクレアが言うと、イルサンが同意した。
「ええ。……何となく予想がついてきましたよ」
イルサンは少し離れた前方にせり出す巨大な岩盤を見据えた。
イチイが生えているルートを辿ると、山の上方の一部に階段状の岩盤層が見えて来る。
せり出した岩盤からは細い滝が落下しており、それがイチイの示すルートの横に沿って流れていた小川になっていた。
岩盤部分には木や草は生えておらず、あの垂直な部分は岩に手をかけて身長位の高さをよじ登らなければならない。
どうするのかと思ったら、イルサンは迷わずその岩盤の上を指差した。
「恐らく宝はあの岩盤の上にあります。あの上へ登りましょう……!」