第2話 偽デートのつもりで誘ったら、彼女は初デートのつもりだった
土曜の朝、待ち合わせまであと一時間。
鏡の前で一ノ瀬凛は、三着目の服を体に当てていた。
「……頑張りすぎ、かな」
昨日、鳳太郎が手に取った赤いリボン。結局二色とも買ったけれど、青いほうを選んでほしかった、と思ったのは内緒だ。
凛は薄い青のブラウスを選び、スマホを確認した。鳳太郎からのメッセージが一件。
『十一時、駅前の時計の下で。時間、平気か?』
『大丈夫。楽しみにしてる』
送ってから、凛はベッドに顔を埋めた。
「た、楽しみにしてる、って……そのまま書いちゃった」
消したところで彼の端末には届いている。そもそも本当なのだから、取り消す理由もない。
昨日、彼氏と初めて一緒に登校した。放課後には一緒に買い物をした。そして今日は、初めてのデート。
口に出したら顔が熱くなる予定が、三つも並んでいた。
*
駅前の時計を見上げる。待ち合わせまで、まだ十五分。
さっきも十五分前だった気がする。時間の進み方を疑いながら、俺は時計の下を三周した。落ち着きのない不審者が待ち合わせ相手で、凛は帰ってしまわないだろうか。
凛は今日、俺の頼みで恋人のふりをしてくれる。少なくとも、俺はそういう約束をしたつもりでいる。
このみに嘘をついたのは俺だ。負担をかける分、せめて凛には楽しんでもらいたい。だから行き先を調べ、昼食の店を探し、昨夜は天気予報を五回確認した。
五回目に晴れが曇りに変わるわけはない。ただ落ち着かなかっただけだ。
『楽しみにしてる』
朝の返信をもう一度見る。
凛があんなふうに言ってくれたのは、俺に気を遣わせないためだろう。分かっているのに、画面を見るたび口元が緩む。重症だ。
「鳳太郎くん」
顔を上げて、持っていたスマホを落としかけた。
青いブラウスに、揺れる白いスカート。制服の凛は近寄りがたいほど綺麗なのに、今は待ち合わせ場所で俺を探す、少し緊張した女の子に見える。いや、どちらにしても綺麗なのだから、俺の語彙が職務放棄している。
「……可愛い」
しまった。考えるより先に声になった。
「え?」
「いや、その。服が」
「服、だけ?」
凛が首を傾げる。学校では正面から告白されても表情を変えないという噂の人が、俺の返事を待って指先でバッグの紐を握っている。
「凛も、だけど」
「……そういうの、急に言わないでよぉ」
声が少し幼くなった。凛は口元を隠し、三秒ほどしてから小さく「ありがとう」と言った。
彼女役の褒め言葉にしては、俺の心拍数まで律儀に上がりすぎではないか。
「鳳太郎くんも、似合ってる。いつもより、ちょっと大人っぽい」
「いつもは?」
「……朝、目覚まし三つに負ける人」
「このみの情報提供、初日から効きすぎだろ」
凛がくすっと笑った。昨日、校門で腕を組んできたときより、その笑顔に緊張する。
「今日はどこへ行くの?」
「まず昼飯。それから駅向こうの水族館。嫌じゃなければ、だけど」
「水族館……!」
凛の目が輝いた。
「好きなのか?」
「うん。クラゲが好き。動きがゆっくりで、見てると落ち着くから」
「よかった。ちなみに俺は、チンアナゴがどのタイミングで地面に引っ込むのかを見届けたい」
「それ、デートでやること?」
凛は普通に「デート」と言う。俺も今日はそういうつもりで誘ったのだから、いちいち反応するな。自分に言い聞かせている時点で、いちいち反応している。
「凛の予定に合わせる」
「私もちょっと見たいから、合わせなくていいよ」
凛の笑い声に押されるように、俺たちは改札へ向かった。
俺が考えた行き先にあれだけ喜んでくれる。もう少し頑張ろうと思った。凛はたぶん、人をその気にさせるのが上手い。
*
昼食の店で、最初の問題が起きた。
「お二人なら、こちらの席へどうぞ」
案内されたのは窓際の小さなテーブル。向かい合うだけの席なのに、なぜか逃げ道を塞がれた気分になる。
凛はメニューを開いていたが、途中で俺を見た。
「鳳太郎くん、辛いものは好き?」
「好き。凛は?」
「得意じゃない。けど、鳳太郎くんが好きなら、同じのを頼んでみようかな」
「自分の食べたいものを頼めよ。凛は何が好きなんだ?」
凛はメニューから顔を上げた。
「小鳥遊さんに鳳太郎くんのことを教えてもらって、私ばっかり知っていくのも、ずるいかなって思ってたの」
「それなら、俺にも教えて。好きな食べ物とか」
「甘いもの。カレーも甘口が好き」
「よし。一つ覚えた」
俺が指を一本立てると、凛も真似して指を立てた。
「私はもう少し知ってるから、鳳太郎くんには頑張ってもらわないと」
「いつの間に競争になったんだ」
「……鳳太郎くんのことなら、負けたくないもん」
凛は言ってからメニューで顔の半分を隠した。
「それ、このみと勝負してるのか?」
「知らない。今のは忘れて」
結局、凛は甘口のカレー、俺は辛口を頼んだ。凛は「違うものにしたら一口交換できるね」と言ったあと、「……できる?」と聞き直す。
皿に取り分けるだけなのに、やけに真剣な顔だ。
「もちろん。ただし俺のは、少量から試せ」
「子ども扱いしてる?」
「してない。胃袋の安全管理だ」
凛は一口で目を潤ませた。俺の見立ては正しかった。
水を差し出すと、凛はそれを飲んでから、悔しそうに笑う。
「鳳太郎くんの好きな味なのに」
「同じ味を好きになる必要はないだろ。凛の甘口も美味しかった」
「……うん」
凛は自分の皿を見つめたまま、しばらく頷いていた。
*
水族館でクラゲを見ている凛は、ほとんど喋らなかった。
青い光の中、ガラスに指を触れずに水の向こうを追う。俺はクラゲより、その横顔を見ていた時間のほうが長い。
「チンアナゴ、行かなくていいの?」
「ああ。ここ、もう少しいよう」
「……付き合ってくれる?」
「もちろん」
答えてから、今の言葉に変な緊張を覚えた。昨日から何度、この単語を使っているんだろう。
やがて凛が俺の袖を摘まんだ。
「写真、撮ってもいい?」
「クラゲの?」
「私たちの」
このみが見たら、ますます俺たちを本物の恋人だと思うだろう。少し迷ったが、凛が記念を残したいと言ってくれたのが嬉しくて、スマホを出した。
「もう少しこっち。クラゲも入れたい」
「これ以上寄ったら、俺の顔が画面を占領する」
「じゃあ私が寄るね」
「対処法が強い」
凛の肩が俺の肩に触れた。画面の中で、凛はカメラより先に俺を見ている。
シャッターを押した。
「……俺、変な顔してないか」
「笑ってるよ」
「照れてる顔だろ。撮り直そう」
「これがいい」
凛は即答し、自分のスマホへ写真を送ってほしいと言った。
「もう一枚、ちゃんと撮れば?」
「それも撮る。でも、これも消さないで」
「分かった。俺のほうにも残す」
「……うん。残してね」
写真を見返す。俺は確かに笑っていた。昨日まで、凛の横でこんな顔をする自分を想像したこともなかった。
「このみが見たら、驚くだろうな。俺がこんな顔してるから」
言ってから、凛の指が止まったことに気づいた。
「ごめん。今のは忘れて」
「……どうして、小鳥遊さんが出てくるの?」
凛は写真を消さず、画面を伏せて俺を見る。
説明すればいい。昨日このみについた嘘も、凛に彼女役を頼んでいるつもりでいることも。けれど今、凛を見て笑っていた自分を「このみに信じてもらうためだった」と片づけたくない。俺は、自分の都合で切り出す勇気を失った。
「俺が、ずっとあいつのことを気にしてたから。ごめん」
「……今日は、小鳥遊さんの話、少しお休みにしない?」
凛の頼み方は穏やかだった。それが余計にこたえた。
このみのことを好きなのは事実だ。昨日の嘘を訂正したいのも事実。でも、そのためだけに今日ここへ来たと思われたくない。少なくとも、今の俺は違う。
「分かった。今日は俺が凛を誘ったんだ。ちゃんと凛と出かける」
凛の目がわずかに揺れた。
「……誘ってくれたの、嬉しかった」
「じゃあ、改めて。次はチンアナゴに付き合ってください」
「ふふ。喜んで」
俺たちは展示室を一周し、チンアナゴの水槽の前で三十分待った。一匹が砂に引っ込んだ瞬間、凛と同時に「あっ」と声が出る。あまりに小さな達成感を分け合って、なぜか二人で笑ってしまった。
「鳳太郎くん、待つの上手だね」
「今の、褒められるところか?」
「うん。私とずっと一緒に見てくれたから」
待っていたのは俺のほうなのに。そう返そうとして、凛が嬉しそうだったからやめた。
出口の手前には土産物の店がある。
凛はそこまでずっと落ち着いていたのに、ぬいぐるみの棚の前で急停止した。
「……クラゲ」
片手に収まるくらいの、丸い水色のぬいぐるみ。凛がそっと持ち上げる。
「欲しいなら買えば?」
「子どもっぽくない?」
「クラゲに年齢制限でもあるのか」
「鳳太郎くん、学校で見た私と違うって思うでしょ」
「もう思ってる。凛、カレーで泣くし」
「泣いてないもん。ちょっと目にきただけ」
「だから、ぬいぐるみ一個で驚かないよ」
凛はクラゲの丸い頭を指で撫でた。
「……学校では、こういうの好きってあんまり言わないの」
「今は学校じゃない」
その場で思ったままを口にした。凛がこちらを見る。
「俺に気を遣わなくていい。可愛いものが好きなら、そう言ってくれたほうが嬉しい」
「じゃあ、これ、可愛い?」
「可愛い」
「……私は?」
「凛も可愛い」
さっきより簡単に答えてしまった。
凛はぬいぐるみで顔を隠した。青い触手が揺れる。相手に彼女役を頼んでいるからといって、何度も動揺させていいわけではない。なのに俺も、彼女に可愛いと言うのが嫌じゃなかった。
「それ、俺が買うよ。今日は付き合ってくれたお礼」
凛がぬいぐるみの上から目だけを出す。
「……今日の記念に、もらっていいの?」
「ああ。でも気に入らなくなったら、無理して飾らなくていいから」
「気に入らなく、ならないよ」
凛はぬいぐるみを胸元に抱いた。お礼にしては安い。けれど凛の顔を見ていると、俺が渡したものをそんなに大事にしないでくれ、と言いたくなった。このみへの嘘を解くとき、凛と過ごした今日まで嘘だったことにしたくない。
「鳳太郎くんも、何か欲しい?」
「俺は大丈夫」
「あった」
凛は棚の端からチンアナゴのキーホルダーを一つ抜き取った。
「三十分、待ってたものね」
「そこまで待たされたわけじゃない。観察だ」
「ふふ。じゃあ、観察の記念」
俺が断る前に、凛はレジへ向かった。
俺の手にはチンアナゴ。凛の腕にはクラゲ。並んで出口を歩くと、すれ違った小さな子が「おそろい?」と聞いてきた。
「種類が違うぞ」と答えようとして、凛が先に頷く。
「うん。おそろい」
得意げに見せたぬいぐるみの向こうで、凛は嬉しそうに笑った。俺も何も言えなくなり、キーホルダーを握り直した。
*
帰りの駅で、凛が少しだけ歩く速度を落とした。
学校では俺の腕を取ったのに、今日は人の少ない道に入ってから一度も触れてこない。二人きりだと、頑張って彼女らしくしなくてもいい。俺はそう伝えたかった。
「凛。もう、頑張らなくていいよ」
「……私、変だった?」
「違う。今日の凛は、ずっと楽しそうだった。無理して何かしなくても、クラゲを見て笑ってたときみたいな凛がいい」
「そっちの私のほうが、いいの?」
「うん。俺は好きだよ」
言葉の着地点を間違えた。
俺は今、凛の自然な笑顔が好きだと言った。そういう意味だ。断じてそれ以上ではない。ないはずなのに、自分の声が耳の奥で何度も再生される。
凛は俺を見上げて、唇を結んだ。
「……じゃあ、次に会うときもこのままでいる」
「このまま?」
「鳳太郎くんの前では、頑張りすぎない私でいる。……たぶん、少しは頑張っちゃうけど」
凛は笑った。頬の赤さだけは隠せていない。
「そのくらいなら、俺も一緒に頑張る」
「何を?」
「今、考えてる」
「それ、全然決まってないじゃない」
二人で笑う。今日だけは、誰に見られているかを考えなかった。
電車の時間が来て、改札の前で別れた。凛はホームへ向かう前にスマホを持ち上げる。
「写真、あとで見てね」
「もう見たぞ」
「私も、もう一回見るから」
意味が分からず首を傾げたら、凛は「……いいの」と笑って改札を抜けた。
帰り道、写真を開く。
俺の笑顔は、確かに作ったものには見えなかった。
*
少し前、このみは母親と、水族館の入った駅前の商業施設へ買い物に来ていた。
水族館の出口で、鳳太郎と凛を見かけた。呼び止めようとして、できなかった。凛はクラゲのぬいぐるみを抱え、鳳太郎は小さなキーホルダーを彼女に見せている。
何を話しているかは聞こえない。でも、鳳太郎が笑うタイミングなら分かった。相手が少し得意げなことを言ったとき、反論する前にああやって目を細める。
知っているはずだった。鳳太郎のそういう顔を、一番近くで見てきたのは自分だと、昨日までは思っていた。
鳳太郎は凛を見て、また笑った。
昨日の「彼女ができた」は嘘だと思いたかった。今朝の腕組みも、何かの冗談かもしれないと思いたかった。けれど二人の周りに知り合いはいない。誰かに見せるためなら、あんなふうに笑う必要もない。
『鳳太郎は家族みたいなものだし』
自分の声が頭の中で響く。
好きだと言って、今の距離が壊れるのが怖かった。だから「家族」と呼んだ。ほかの誰より近くにいられる言葉だと思っていたのに、鳳太郎にはどう聞こえただろう。
それなのに自分は、「彼女ができても今までどおりだよね」とまで聞いた。鳳太郎の気持ちを確かめもせずに。
「このみ、帰るわよ」
母親に呼ばれ、このみはスマホを握り直す。
「……うん、今行く」
鳳太郎とのトーク画面に『今日、楽しかった?』と打つ。何でもない幼馴染の質問に見える。以前なら、そのまま送っていた。
消して、『月曜、一緒に帰れる?』と打ち直す。それも消した。彼女と過ごした週末の翌日に、自分から誘う勇気が出ない。
「……嘘だったら、よかったのに」
呟いてから、違う、と思った。たとえ彼女の話が嘘でも、今日の鳳太郎の笑顔は本物だった。
何も送れないままスマホを伏せる。鳳太郎はもう水族館の出口にいなかった。




