第1話 昨日の続き、しよっか
「鳳太郎って、彼女ができても私とは今までどおりだよね?」
放課後の教室で、小鳥遊このみは俺の机に頬杖をついて、そんなことを言った。
夕陽を受けた茶色の髪が、窓からの風に揺れている。俺の幼馴染は、こういう顔をすると自分が可愛いことを知っている。たぶん。
「何だよ、いきなり」
「だって、もし彼女ができたら、私と帰るの禁止とか言われちゃうかもしれないじゃん」
「その心配より、俺に彼女ができるかを心配しろ」
「そこは大丈夫。鳳太郎、優しいもん」
「俺の恋愛市場での評価、優しさ一本で戦えるほど甘くないと思うんだが」
「じゃあ顔も好きって言ってほしい?」
「……言われたら三日は調子に乗る」
「ふふ。言わない」
「人の寿命を三日縮めるな」
さらっと褒めて、机の上の俺のシャーペンを借りていく。借りる前から、自分のものみたいに手が伸びる。
小学生の頃からずっとそうだ。このみは俺の家の冷蔵庫を開けられるし、俺はこのみの苦手なピーマンを知っている。お互いの母親には、いまだに二人まとめて夕飯へ呼ばれる。
俺だけが、その距離を特別だと思っていた。
去年の夏祭り、このみが人混みではぐれないように俺の袖を掴んだ。手を握ろうかと三秒迷っている間に、本人はたこ焼きの屋台へ走っていった。あの日から俺は、このみに袖を掴まれるたびに、その三秒をやり直している。
我ながら重い。だが好きなものは仕方ない。
「……彼女に嫌がられたら、帰れないだろ」
「えー? そこは鳳太郎から説明してよ」
「何て」
「私たち、そういうのじゃないよって」
胸の奥が、少しだけ冷えた。
このみは俺のシャーペンをくるりと回し、いつもの笑顔で続ける。
「鳳太郎は家族みたいなものだし」
何度も聞いた言葉だった。今日に限って、ずいぶんはっきり聞こえた。
家族みたい。
じゃあ、あの日の三秒も、帰り道に肩が触れるたび嬉しかったのも、全部俺一人の勘違いか。
このみは悪くない。好きだと言っていない俺が悪い。分かっているのに、言葉が勝手に出た。
「……そういう心配、もうしなくていいぞ」
「へ?」
「俺、彼女できたから」
言った瞬間、取り消したくなった。
馬鹿か、俺は。彼女ができたと言えば「よかったね」と笑われるだけだ。あわよくば嫉妬してくれ、なんて、好きな相手に試すようなことをした自分が嫌になる。
このみの手からシャーペンが滑り、机の上で小さく転がる。
「……いつ?」
「最近」
「誰?」
「そのうち話す」
嘘を守るために、嘘を足した。最悪だ。『誰?』に対して『架空の人物です』と答える度胸があれば、最初から嘘なんてついていない。
このみは俺の顔を見て、それから机の端を転がり、床に落ちたシャーペンを拾った。
「そっか。おめでとう、鳳太郎」
笑顔は、いつもどおりに見えた。だから余計に、胸が痛かった。
「じゃあ私、今日は先に帰るね」
「このみ、今のは――」
「大丈夫だよ。彼女さんに怒られちゃうもんね」
返されたシャーペンは、まだこのみの手の温度がした。
廊下へ出ていく背中を追えなかった。追って「嘘だ」と言えば済む。それだけのことを、俺はしなかった。
教室を出たとき、廊下の角に誰かが立っていた気がした。振り返ると姿はなく、そのときは確かめもしなかった。
帰宅してから、このみとのトーク画面を七回開いた。『さっきのは嘘』と打って、消した。八回目に開いたとき、『おめでとう』のスタンプが向こうから届いた。祝福する猫の笑顔を眺めたまま、結局、返事もできなかった。猫に罪はない。俺にはある。
翌朝、その怠慢の代金を払うことになる。
学校の門の前に、このみがいた。
普段なら俺を見つけた瞬間に手を振る。今日はスマホを両手で握って、視線だけをこちらに向けた。
「おはよう、このみ」
「……おはよ」
「昨日のことなんだけど」
今なら言える。彼女なんかいない。傷ついたから、つまらない嘘をついた。そう説明して謝ろうとした、そのときだった。
「おはよう、鳳太郎くん」
背後から俺の名前を呼ぶ声がした。振り向くより早く、右腕に柔らかい重みが加わる。
俺の腕に、自分の腕を絡めたのは一ノ瀬凛だった。
近い。近すぎる。シャツ越しに伝わる体温も、ふわっとした甘い匂いも、俺の脳が処理を拒否している。昨日まで挨拶くらいしか交わしたことのない相手だぞ。
背筋の伸びた姿勢。乱れのない黒髪。朝の昇降口で彼女を見かけると、騒いでいた連中まで少し声を落とす。そんな学校一の美少女が、俺を見上げて微笑んだ。
「昨日の続き、しよっか」
凛が少し背伸びをして、俺だけに聞かせるような声で続ける。
「昨日は途中で終わっちゃったから。今日は、ちゃんと最後まで付き合ってね?」
近くで誰かが「えっ」と声を漏らした。俺も言いたい。昨日の続きとは何だ。最後までとは、どこまでだ。とりあえず俺の右腕にも説明してほしい。さっきから硬直している。
このみは俺と凛の腕を見つめ、次に凛の赤い頬を見た。
「……さ、最低!」
「えっ」
「朝から学校で、そういう話する!? 鳳太郎、何考えてんの!」
「待て。このみ。俺も今、同じことを聞こうとしてた」
凛はきょとんとしている。数秒遅れて言葉の響きに気づいたのか、耳まで赤くなった。
「ち、違うの。昨日は、話の途中で先生に呼ばれちゃったから……」
「先生に!?」
「そこを強調するな! 先生は関係ないだろ!」
俺が言っても説得力はゼロだった。何しろ俺自身、昨日の「話」が何だったか分かっていない。
このみは頬を染めたまま口を開き、ふいに言葉を飲み込んだ。
「……ごめん。私が怒ることじゃなかった」
胸がすっと冷える。
「あたし、関係ないもんね。二人のことだし」
いつもなら「幼馴染なんだから口出すよ」と笑うやつが、俺の腕から目を逸らす。
「一ノ瀬さん、だったんだ。……おはよう。私、先に行くね」
「小鳥遊さん。あの――」
凛が声をかけたが、このみは「ごめんね」と笑った。
「このみ、待て」
「平気。ほら、二人で来たんでしょ?」
違う。二人で来たわけじゃない。そもそも今会ったばかりだ。もし一緒に来ていたら、校門で俺だけ驚くという不審な登校風景になる。
そう言おうとしたのに、このみは笑って校舎へ駆けていった。
待ってくれ。昨日から、こんな背中ばかり見ている。
一歩踏み出した俺の腕を、凛がまだ掴んでいる。このみの顔を見て、凛の前で何をどこまで話すべきか迷った一秒が、致命的に長かった。
「……一ノ瀬さん」
「凛」
「え?」
「昨日、そう呼ぶって言ったから。私のことも、凛でいいよ」
昨日。やっぱり、昨日だ。
俺は記憶を巻き戻した。
このみと別れた後、昇降口で凛に呼び止められた。彼女は文化祭の買い出しメモを手に持っていた。委員でもない俺を探してきたのが不思議だったけれど、その紙を見て用件は分かったつもりになった。凛は買い出し係だと聞いていたし、紙には『装飾』『テープ』と並んでいる。
『明日、私と付き合ってくれない?』
珍しくためらうような声だった。
『買い出し?』と聞けばよかった。俺は聞かなかった。
『俺でいいなら、付き合うよ』
そう答えたら、凛はメモを胸の前で握りしめた。
『本当に?』
『ああ。荷物持ちくらいできるし』
後半を言った瞬間、すぐそばのスピーカーから下校を促す放送が鳴った。凛は胸の前でメモを握りしめたまま、俺の口元を見て首を傾げる。聞こえなかったらしい。
『俺でよければ、明日行く』
声を張って言い直すと、凛の顔がぱっと明るくなった。
『じゃあ、明日から……鳳太郎くんって呼んでもいい?』
荷物持ちを頼むのにそこまで改まるか、とは思った。凛は文化祭の準備を仕切っていて、俺は凛に数回話しかけた程度。距離を縮めようとしてくれているのかもしれない。
『いいよ。よろしく、凛』
凛が何か言いかけたところへ先生が来て、文化祭の用事で呼ばれた彼女は「じゃあ、明日」と去っていった。俺は買い出しの集合時間を聞きそびれたまま、明日また確認すればいいと思っていた。
今朝の凛は俺の腕にくっついている。このみは俺に彼女がいると信じている。昨日、俺が嘘をついたとき、廊下の角に誰かいた。
あれが凛だったのか。
もしかして、このみの前で彼女のふりをしてくれた?
こんな親切があるか? いや、あるとしたらどうして俺に。まさか昨日の「付き合って」が告白だった、と一瞬だけ考え、すぐに首を振った。凛が手にしていた買い出しメモを、俺はこの目で見ている。しかも『荷物持ち』は放送に消された。凛は買い出しの誘いを受けてもらい、ついでに俺の嘘を知って助けてくれたのだろう。学校一の美少女が俺に告白するより、そのほうがまだ現実味があった。
「鳳太郎くん?」
「あ、いや。昨日のこと、覚えてる」
「よかった」
凛はほっとしたように目を細めた。
買い出しの約束を忘れられていなくて安心したのだろう。彼女役までしてくれて、律儀にもほどがある。
「さっきはありがとう。俺のために、あそこまでしてくれて」
「……私がしたかったから」
「でも、みんなに見られたぞ。面倒なことになるかもしれない」
「覚悟してる」
即答だった。
俺の嘘を助けるために、そんな覚悟までしてくれたのか。昨日、荷物持ちを引き受けたくらいで返せる借りじゃない。
それに、見上げられるたび心臓がうるさい。このみが好きだというのに、別の子の近さに動揺している自分も、相当どうかしている。
「そこまで付き合ってくれるのか?」
「うん。鳳太郎くんが、嫌じゃなければ」
「嫌なわけないだろ。むしろ俺が申し訳ない」
「申し訳なく、思わないで」
凛は少しうつむいた。耳が赤い。
「……私、嬉しいから」
こんなに緊張しているのに、俺を助けようとしてくれている。ここで俺が「もういい」と突き放したら、凛の覚悟まで無駄にしてしまう。
そう考えた俺は、たぶんこの朝いちばん大事なことを聞きそびれた。
彼女は、何を嬉しいと言っているのか。
「一ノ瀬、いや、凛。手、熱くないか」
「あつくないもん」
「いや、俺の腕越しにも分かるって」
「……鳳太郎くんのせいだもん」
凛は自分の言葉に驚いたように唇を結んだ。
「い、今のは忘れて」
「分かった。忘れる」
「やっぱり忘れないで」
「どっちだよ」
思わず笑うと、凛はようやく腕の力を緩めた。校門の前では澄ました顔をしていたのに、今は少し拗ねている。こんな顔をする子だったのか。
かわいい、と思った。
思った直後に、このみの顔が浮かんだ。俺の心は今日一日で何度裏切れば気が済むんだ。
俺たちは昇降口で靴を履き替えた。凛が腕を離した瞬間、なぜか周りの視線より、その温度がなくなったことのほうが気になった。
午前中に、このみとは二度すれ違った。
一度目は階段。このみはいつもどおり「おはよ」と言い、凛を見つけると「……二人とも」と付け足した。たった三文字の増量で、俺たちの間に壁が一枚増えた気がする。
二度目は廊下。俺が凛の抱えた文化祭の資料を持つと、このみは「鳳太郎、昔からそういうとこあるよね」と笑った。
「昔から?」
「うん。人の荷物、すぐ持つの。本人は気づいてないけど」
「それは知らなかった。小鳥遊さん、ほかにも教えてくれる?」
「いいけど。……一ノ瀬さんは、何が知りたいの?」
「鳳太郎くんのこと。できれば、全部」
凛は真剣だった。このみの笑顔が三割ほど薄くなる。どちらも俺のいる場所で俺の話をしているのに、本人の発言権がゼロなのはなぜだ。
「じゃあ、朝が弱い。目覚まし三つでも寝坊する」
「待て。このみ。それは機密事項だ」
「明日から私が起こそうか?」
「待て凛。いきなり国家事業にするな」
「私は小学校から起こしてたけどね」
「……小鳥遊さん、手強いね」
「えっ、何の勝負?」
二人の視線が俺の上でぶつかる。俺は凛の彼女役がこのみを刺激していると思ったし、このみは幼馴染の席を守りたいのかもしれない。いや、都合よく考えるな。朝から脳内会議が忙しすぎる。
「凛、朝は自分で起きるから。そこまで付き合ってもらわなくていい」
「でも、付き合ってるんだから」
凛の言葉に、このみが顔を伏せた。凛は俺を見上げ、なぜか少し不安そうにしている。
ここで「付き合ってないだろ」と言えば、このみの前で凛の善意を踏みにじる。俺は資料を抱え直した。
「……明日は、待ち合わせるだけでいい」
「うん。待ち合わせ、する」
凛の声が弾んだ。このみは「そっか」と呟き、先に教室へ戻っていった。
なぜ一つ断ったはずなのに、俺が何か約束を増やしたことになっているんだ。
三度目は昼休みだった。
購買へ向かおうとした俺を、このみが廊下の端で呼び止めた。
「ねえ。鳳太郎、今日、帰りは?」
「文化祭の買い出しに付き合う」
「一ノ瀬さんと?」
「ああ」
このみは「そっか」と言った。昨日から、その短い言葉ばかり聞いている。
「一ノ瀬さんのこと、好きなの?」
答えが喉につかえた。
彼女はいない。本当は、このみが好きだ。それを今言うべきだった。
けれど、凛の名前を出してここまで嘘を広げてしまった。俺が「好きじゃない」と言えば、もし誰かに聞かれたとき凛が傷つく。彼女が俺のためにやってくれたことを、無かったことにするのも嫌だった。
言葉を探しているうちに、このみが先に笑った。
「ごめん。変なこと聞いた」
「このみ、俺は――」
「一ノ瀬さん、綺麗だもんね。鳳太郎のことも、ちゃんと見てくれそう」
「……何だよ、それ」
「私、ずっと見てたつもりだったけど。知らないこともあるんだなって」
このみの笑顔から、いつもの得意げな感じが消えていた。
俺の好きな子が、俺のせいでこんな顔をしている。今こそ嘘だと言え。せめて、家族みたいと言われて傷ついたことくらい言え。そう思うのに、凛まで傷つけずに話す言葉が見つからない。
「彼女さん、大事にしてあげてね」
背を向けるこのみを、また引き止められなかった。
今までなら「帰り、一緒に帰る?」と気軽に言えた。その一言が、喉の奥で引っかかっていた。
俺は何をやっているんだろう。このみを傷つけて、凛に嘘の片棒を担がせて、誰にも本当のことを言えていない。こんな調子で買い出しに行ったら、テープを買いに出て人生を見失いそうだ。
放課後、買い出しの集合場所へ行く前に、俺は凛を探した。
人気のない渡り廊下で、文化祭の資料を整理している彼女を見つける。
「凛」
「鳳太郎くん。買い出しまで、まだ時間があるよ」
「今朝のこと、ちゃんとお礼を言いたくて」
「もう聞いたよ」
「それでも。俺の事情に巻き込んで悪かった」
凛が資料から顔を上げる。
「巻き込まれたとは、思ってないよ」
「優しいな、凛は」
「……そう言われるの、ちょっと困る」
頬を染めた凛が、資料の端を揃える。俺が罪悪感から口にした言葉まで喜んでくれるなら、なおさら甘えっぱなしにはできない。
「このみが、俺たちのことを気にしててさ」
「小鳥遊さんが?」
「ああ。だから、あいつが納得するまで……もう少し、俺に付き合ってもらえる?」
凛の指が止まった。
「明日も?」
「明日も」
「……明日だけ?」
「いや。凛が嫌じゃないなら、しばらく」
彼女役を続けてもらうなんて、図々しい頼みだ。断られて当然だと思った。
「しばらく、ってどのくらい?」
「このみが納得するまで、かな」
凛は少し考え、「小鳥遊さん、手強いね」と小さく笑った。
「いいよ。私も、鳳太郎くんと一緒にいたい」
「……ありがとう。助かる」
「じゃあ明日は、ちゃんとデートしようね」
デート。
このみが見ても不自然じゃないように、そこまでやってくれるのか。
凛は俺が返事をしないのを見て、慌てて視線を落とした。
「あ、嫌なら、いいの。買い出しだけでも」
「嫌じゃない。俺から頼んだんだし」
「……ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ、約束」
差し出された小指に、自分の小指を絡める。
凛は俺たちの手を見つめて、それから、朝よりずっと幼い笑顔になった。
約束を果たすべく、俺たちは駅前の文具店へ向かった。
買い出しメモには色画用紙、両面テープ、飾り用のリボン。昨日、あの紙を見て用件が分かったつもりになったのも無理はない。まあ、それだけで人の話を最後まで聞かなくていい理由にはならないが。
「凛、テープはこれで合ってるか?」
「うん。あ、でも二個必要なの」
「了解。ほかは?」
「リボンを二色。鳳太郎くんは、どっちが好き?」
凛が赤と青のリボンを俺の前に並べる。
「赤かな。このみ、文化祭の飾りは明るい色がいいって言ってたし」
「……そっか」
凛の指が赤いリボンから離れた。返事を間違えた気がする。色を聞かれただけなのに、今日の俺は答え合わせに一度も成功していない。
「でも、青も買おう」
「どうして?」
「凛が最初に手に取ったから。どこかに使いたいんだろ」
凛は青いリボンを見下ろしたまま、少し遅れて頷いた。
「……うん。使いたい」
レジを出ると、買い物袋が二つになった。片方を持とうとする凛に、俺は軽いほうを渡す。
「荷物持ちとしては失格かな。全部持たなくていいの?」
「一緒に持ちたいの」
「二人で持ったほうが早いってことか」
「……そういうことにしてあげる」
凛は頬を膨らませた。何かまた外したらしい。国語の試験なら設問を読み直せるのに、凛の表情には解説欄がない。
文具店のガラス扉を押さえて彼女を先に通すと、凛が振り返る。
「今日、楽しかった」
「買い出しが?」
「うん。鳳太郎くんと一緒だったから」
真っすぐ言われて、今度は俺が袋の持ち手を握り直した。明日も一緒にいたい、とさっき言われたときより、ずっと近くで聞こえる。
「俺も、楽しかったよ」
「……ほんと?」
「荷物持ちなら、またやるよ」
「荷物持ちだけ?」
「え?」
「ううん。明日は、腕も借りるね」
凛は澄ました顔で歩き出した。今の会話を十回くらい巻き戻したい。朝、腕を組んできた本人より、帰り道の俺のほうがよほど落ち着かなくなっていた。
俺は明日の予定を考えた。このみに嘘を謝るなら、凛にも話を通さないといけない。なのに、明日も彼女の隣を歩けると思うと、少し楽しみでもあった。
このみを追いかけたい。凛の笑顔も、もう一度見たい。
その二つが同時に胸にあることに戸惑いながら、凛が触れた小指をそっと握った。
――ここまでしてくれる彼女に、これ以上甘えていいわけがない。
俺がそう決意した頃、凛は帰りの電車でスマホのメモを開いていた。
『初めて彼氏と一緒に登校した日』
今日の日付の横にそう書いて、何度も読み返す。
不意に、雨音が記憶をかすめた。濡れた制服の袖と、誰も見ていない場所で差し出された手。
「……鳳太郎くんは、覚えてないよね」
凛は小さく呟き、メモにもう一行加えた。
『明日、初めてのデート』
小指に残る温度を確かめながら、帰ったら何を着ていこう、と考える。
彼女の画面には、もちろん「彼女役」の三文字はどこにもなかった。




