第3話「長崎工科大学」
午後十二時四十五分過ぎ、弘明は網場という名のバス停に降り立った。そこは場末の漁村、見渡す限り山と海と浜、その岸に並ぶ掘っ立て小屋のような家屋しかない。
その家屋、よく見れば裏に梁漁のような簀子の床がせり出している。
ただ誰もおらず、まるでセピア色の静止画を見るようだった。
(ほんまかいな⋯⋯)
バス停に立つ弘明は、走り去ったバスの排ガスも砂煙も被りながら、呆然としていた。
いずれにしても博多まで新幹線が走ろうかという時代に、酷く鄙びた村だった。それを見て、さらに落ち込んだ弘明は、ズシリと重いボストンバッグを肩に掛け直しながら、それでも周りを伺った。
いったい目指す大学はどこにあるのか。
(さっさと見て、はよ帰ろ――)
まだ着いたばかりだというのに、もうそんなことを思い、とにかく先を急ごうとした。
内海のように静かな海に背を向け、背後に迫る山側を振り返った。するとそこに、山間から下ってくる流れの速い川、そして橋、その川上の山の中腹に、忽然と聳え立つ山城のような建物があった。
(ひょっとして、あれか……)
そう思いながら弘明は橋を渡り、川沿いの坂を登り始めた。
途中、学生用のアパートか、安普請の二階建てが何軒か建っている。
ただ人影はなく、店らしい店もない。
なだらかな坂を登ると、くの字に曲がった階段があった。
その上にベージュの壁が聳えている。
それはバス停からは死角で、突然弘明の視界に現れた。壁一面に大きな窓が並び、一見船のブリッジを思わせる。よく見れば窓の向こうに人がいる。幾人もの人が行き来している。
――ああ、これが工大か――
そう思うと、弘明は覚悟を決めて川沿いの道から階段を登った。
キンコンカーンと、間の抜けたチャイムが鳴ったのは、階段を登り切った時だった。
山城のような正門に大きな看板がある。長崎工科大学に間違いなかった。
腕時計を見れば約束まで五分、臆せず観音開きのドアを開けて中へ。
正門にしては誰もいないと思ったのも束の間、授業が終わったのか、どかどかと人が階段を降りてくる。
だが、どうも想像と違う。
降りてくる学生は誰もがみすぼらしく、中には擦り減った下駄を履いた者もいる。
弘明の思い描いていた大学生のイメージからは程遠かった。
人の流れが早く、声を掛けそこねた弘明は、仕方なく事務員風の女性に声を掛けた。
上手い具合に彼女が連絡をしてくれると言う。
少し待っていると、後から眼鏡を掛けて髪を適当に束ねた女子事務員が降りてきて、こう切り出した。
「山岡さんですね、先に構内を案内します」
そう言って彼女は弘明を先導して、構内へ入っていった。
山城らしきものは五階建ての本館で、奥には中庭風のキャンパスが広がっていた。
山の中腹にポツンポツンと校舎が建っている。
肝心の船舶工学科は林の向こう。
あとは構内道路を登ると山上に運動場があるという。
ただそこまで案内するとは言わなかった。
去年の夏、京都の予備校で思い描いた大学生活。
その面影は、ここにはどこにもなかった。
案内は二十分で終わった。
弘明は礼を言うと、最初の入口から外へ出た。
さっきは気が付かなかったが、出てすぐ脇に公衆電話があった。迷わず弘明は中へ入ると、ボストンバックを床に置き、後ポケットに入れた財布からありったけの小銭を出した。
これは一刻も早くと、気が急く。
ダイヤルを回すのも、まどろっこしい。
(こんなとこ嫌や、こんな大学やめや――)
その一心で、弘明はダイヤルを回した。
嫌な予感を打ち消しながら、呼び出し音を聞いていた。
悠長な呼出音が流れたあと、すぐに母が出た。
「やめる、こんな大学はいやや――」
開口一番、弘明はそう叫んでいた。
だが、『女は弱し、されど母は強し』。
弘明の嫌な予感は的中し、母は弘明の上を行っていた。
「なに言うとんの、もう入学金、払い込んだから、やめる訳には行かへんよ――」
その言葉に弘明は唖然とした。
もう頭の中は真っ白、なにも言えなかった。
目は、電話ボックスのくすんだ窓から外を見ていたが、実のところなにも見えていない。だがその先には、煮詰まった弘明の心を癒すかのように、碧い海が西日を受けてキラキラと光っていた。
と、その時、ガシャン――と電話が切れた。
一瞬、その音で弘明は目が醒めた。
仕方なく受話器を置くと、ジャラジャラと小銭が落ちてくる。
それですべては終わった。
成す術もなく、弘明は網場のバス停へ戻ることしか出来なかった。
そしてボストンバック片手に、いつ来るとも分からないバスを呆然と待った。
網場へ来てから、まだ一時間と経っていない。
だがいつしかそこは日陰に入っていた。
それが不思議で、ふと空を見上げた。
すると、さっきまで天上にあった太陽が、もう大学の裏山の向こうへ消えていた。
そのせいか、埃っぽい海沿いの村もどこか落ちついて見える。それに風向きも変わったのか、静かな海に小波が立ち、いつしかそれは、まるで違う場所のようにも感じられた。
さっきと同じ場所で、同じバス停の立て看板――でもそれが違う。陽を背にしているからか。海の色も濃さを増し、その水面でさえ時として七色の光を浮かべたりしている。
――時が経てば、これほど変わるのか――
それは意外だった。初めての経験だった。その光景に心が癒された。
だがその思いとは裏腹に、早く三重へ帰ろうと思い始めた。
――これからバスに乗って夜の列車で――
そう思い切った時、村の奥から走ってくるバスに目が行った。
恐らく行きと同じバスだろう。
そう思うだけで弘明はほっとした。
思うとはなしに振り返ると、もう本館の城壁は夕闇に包まれ、その背後の深い山の茂みと相まって、長い日が終わろうとしていた。
こんな所で――と、一瞬煮えたぎる思いを抱いたものの、もう流れに逆らう意気地は消えていた。
いったいどんな人生が待っているのか、その時の弘明にはまだ、他人事のようであった。
(第3話おわり)
第1部「旅立ちの時、伊勢から長崎」=最終話=
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
長崎での新しい暮らしは、いま、まさに始まろうとしています。
次の部では、弘明の前に、一人の女性が現れます。
第2部――
「交わらぬ光――野母の海」
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。
船木千滉




