第1話「夜行列車」
## はじめに
本書『アゴのいる海 第一部 旅立ちの時――伊勢から長崎』は、私自身の青春時代を下敷きにした創作小説です。
昭和四十六年、十八歳の青年・弘明は、故郷・三重を離れ、長崎へ向かいます。
期待と不安、希望と迷い。その一歩一歩が、やがて長い人生へとつながっていきます。
本作は三部作として構想しており、本書はその第一部にあたります。
現在、noteにて先行連載を続けており、読者の皆さまからいただくご意見も参考にしながら、作品の推敲を重ねています。その集大成として、順次BCCKSより紙本として刊行していく予定です。
時代は変わっても、若者が未来へ踏み出す時の迷いや希望は変わりません。
この物語が、皆さまの心に何か一つでも残ることを願っています。
2026年7月
船木千滉
――これはきっとバチが当たったんや――
弘明は、まるで垂直の背板の座席に座り、窓に映る自分の顔に、そう語り掛けていた。
その夜八時二十分――大阪を出た急行雲仙号は、繁華な街を抜けて一路西へ向かった。
初めて乗る夜行列車にワクワクしたのも束の間、売店で買った駅弁を食べてしまうと、もう何もすることがない。その内に硬い背板のせいで、背中がピノキオのように強張る。
それでも我慢しながら弘明は座り続けた。
山岡弘明十八歳、それは昭和四十六年、寒さの募る二月六日の土曜日のことだった。
三重県立南勢高校三年の弘明は、高校から推薦してもらった大学を見学するために、ひとり夜行列車に乗って長崎へ向かっていた。
聞こえるのは単調な音ばかり。列車が岡山を過ぎると、乗り降りする客はなく、弘明の乗る自由席はガラガラ。それでも列車は、まるで人のいない駅に停まっては進んだ。
あまりの手元ぶさたに心細くなり、弘明は自分の不明を詰るしかなかった。
――皆を出し抜いて一人推薦で大学へ入ろうとする罰や――
と思うと、単調な音も堅い座席も、弘明とっては苦役でしかなかった。
いまさら自分を詰っても詮無いばかり。もう長崎へ行くのは止めて、家に帰ろうと何度思ったことか。だがそんな勇気もなかった。
ようやく単調な音に慣れ、ウトウトし始めた時だった。突然ゴーという音に包まれ、列車は前方へ傾きながら激しく下り始めた。
はっとして目を開けると、もう尋常な音ではない。まるで列車はトンネルの中にいた。
(これが、関門トンネルか――)
そんな思いで、これでもう九州なんだと、何か醒めた気持ちで観念するしかなかった。
やがて東の空が薄っすらと白み始め、窓の外に見慣れぬ山のシルエットが現れた。去年修学旅行で来たが、物見遊山の旅とは違い物寂しいばかり。まさかここに自分が住むのかと思うと、後悔ばかりが先に立った。
親に言われるまま国立を受けて滑り、浪人するつもりでいたが年末に推薦が決まった。まさかと思っていたが、二月半ばには入学金を振り込まねばならないと、下宿に母から電話が入った。それなら先に大学を見てみたいと言ってみたが、本当はどうでも良かった。
親元を離れて一年が経つ。片道1時間半の通学は受験勉強に差し支える、と言って下宿したが、誘われるまま酒に煙草にエロ本、無免許運転と、非行の道に染まり始めていた。
どこか負け癖のついた弘明は、臆病なくせに自分の欲望のままに生きようとしていた。
⋯⋯いったい自分は何がしたいのだ⋯⋯
薄曇りの空の下、列車は博多の街を通り過ぎていく。
そんな思いを抱きながら、弘明は物心ついてからのことを想い描いていた。
弘明は父の転勤で何度も転居した。桑名・名古屋・松阪、そして尾鷲・津と、小学校四校、中学校二校、渡り歩いた。その間、好きな野球も高1の夏に頓挫して退部した。
高二に上がる時、弘明は理数科を選んだ。本当は理数が嫌いなのだが、「文系は女ばかり」という連れの言葉に釣られてしまった。案の定、理科と数学の授業にはついていけず、ずるずると成績は落ちていった。
高三になって、ならば美大へ行きたいと美術の先生を訪ねると、過去の成績を見ながら言った。
「いいね――、これなら私の大学へ行くか」
と言われ、即座に「はい」と答えた。
すると先生は、受話器を取って自分の出た大学へ電話を入れて、何やら掛け合ってくれた。
「OK、じゃあ来月から向こうへ行って、私が紹介する教授の言う通り絵を描きなさい」
と言われて戸惑った。それには即答せず、家に持ち帰って母に言うと、即答だった。
「デパートの飾り付けでも、やるつもり!?」
その一言で弘明の思いつきは露と消えた。
急行雲仙は佐賀を出ると、やけに肥前の名がつく駅を幾つも過ぎて、なだらかな山麓を迂回しながら、さらに海岸線を走っていく。
目まぐるしく景色が変わる車窓に、ボストンバックから出した地図で弘明は、進行方向右に見える山を探した。その山は多良岳といって、地図の上ではまるで大きな吹き出物みたいで、その裾野が波紋状に広がっていた。
学問上は火山なのだろうが、窓から見える実物は丸みを帯びた山並みが重なり、その裾野は羽衣のような白い浜まで棚引いていた。
そんな景色の中、列車は一時停止する。それは単線の線路で、列車の行き違いに海沿いの無人駅で停車したのだった。見れば窓一面に広がる海――、これが有明海だと、弘明はバシャバシャと地図を広げながら見ていた。
浜はちょうど引き潮で、黒く湿った岩が並ぶ。何の漁か、赤い底の舟が上架していた。
ただ寒々として浜とは違って車内は心地良い暖房に包まれ、窓枠に肘をついて外を眺めていると、いつしかウトウトしてしまった。
どれほど停まっていたのか、やがてカンカンカンと信号機が鳴り、カタンコトンと音を立てながら列車が近づいてくる。突然ヒューと列車が汽笛を鳴らしながら、切り替え線で車輪を軋ませると、横を通り過ぎていった。
列車の音が遠ざかる中、突然ガタンと車両が揺れると、ようやく列車が動き出した。車窓には有明海の向こう、遥か彼方に荒々しい山並みが浮かんでいる。改めて地図を見れば雲仙岳とある。だが列車と同じ名にしては、いかにも妖しい山陰が見てとれた。
その動かぬ景色を背景に、列車は多良岳の中腹を大きく右に迂回しながら進んでいく。
途中大小の入り江が幾つかあり、どこも引き潮の浜に穏やかな有明海が良く似合う。
――ああ本当に遠い所へ来てしまった――
それは思ってもみない心の変化だった。
穏やか海と山の間で、怪しい火山の傷跡を見ている内に、何かが変わりつつあった。
列車は諫早駅を出ると、右手に大村湾が開けていき、そこから長いトンネルへ入る。
当然、陽の光は閉ざされ、暗い闇へ入っていく。いつまで続くのかと思う頃、あっと言うほど明るい光の中へ列車は出ていった。
行くほどに目が慣れ、鄙びていた景色が、どこか垢抜けたものに変わっていた。やがて徐行した列車が浦上駅へ停まると、それも束の間、終着の長崎駅へ滑り込んでいった。
――やっと着いたのか――
まるで他人のような体を解しながら、弘明は席を立つ。
席の上の棚からボストンバックを取り、おもむろに列車を降りていった。
吹き晒しの長いホーム、母が買ってくれたコートの襟を立てながら、改札へ向かう。
まさかと思いながら、忍び寄る寒さに背を丸めて改札を抜けると粉雪が舞っていた。顔を上げると西に向かって空が広がり、右手に聳える山の頂が白かった。なんで九州に雪が降るのかと思いながら、どこまでも裏切られたような気になり、その現実を目の当たりにして弘明は愕然とするのだった。
そこはやはり終着駅だった。東京から陸路千二百キロ、さらに西へ海を越えて上海まで千二百キロ、まさに日本の最西端の街――長崎は、この日曇天の空から雪が舞っていた。
列車を降りた人は皆空を見上げながら立ち去り、弘明は一人駅前の高架広場へ昇った。
振り向けば駅舎の大時計が十二時前。思えば大阪を出て十三時間余り、長崎は南国だという誤解以上に、まるで趣の違う街だった。
どこが違うのか⋯⋯、山の頂きまで続く家並み、三方が山の狭隘な土地⋯⋯、色々思いを巡らす弘明だが、何が違うのかは分からない。
ただ、腹が空いているのは確かだった。
大学訪問の約束は午後一時半。それにはまだ余裕がある。駅から大学まで、「網場行」のバスに乗って半時間と聞いていた。そこでまずはバス停を探そうと、弘明は動き始めた。
(第1話おわり)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本書は、『アゴのいる海』三部作の第一部です。
弘明の旅は、ここから長崎での学生生活、さまざまな出会い、そして人生を大きく変える出来事へと続いていきます。
現在、本作はnoteにて先行連載中です。
また、第二部以降も順次、BCCKSより紙本として刊行していく予定です。
次の物語で、またお会いできることを願っています。
2026年7月
船木千滉




