序文
実在と連続性の問題
——直線的に可能にできない事象は存在するのか——
本論文が問うのは、〈実在〉とは何によって一つの事象として成立するのか、そしてその成立は、時間の連続性のうちでどこまで保存されうるのか、という問題である。
私たちは通常、ある事象 A について、それが「可能である」か「不可能である」かを区別する。サイコロの目を一にすること、ある位置に物体を置くこと、ある運動量を測定すること、ある未来の状態へ到達すること。これらはいずれも、現在から見て可能性の範囲に属するものとして考えられる。しかし、ここで問われるべきなのは、A が可能であるかどうかだけではない。むしろ問題は、A が可能であることと不可能であることとの境界が、時間のうちで本当に一つの切断点として存在するのか、という点にある。
たとえば、サイコロを振って「一」を出すという事象を考える。この事象は、確率的には六分の一として表現される。しかしこの確率表示は、すでに一回の試行を一つの単位として切り出し、可能性を分割した後の記述である。では、サイコロがまだ振られていない現在において、その「一が出る」という可能性は、すでに一つの固定された実在として存在しているのだろうか。それとも、それはまだ一回の出来事に分割されておらず、時間の連続性のうちで未決定のまま保存されているのだろうか。
本論文では、この未分割の可能性を〈可能度〉と呼ぶ。可能度とは、単なる確率ではない。それは、ある事象 A が現在からどの程度直線的に到達可能であるか、またその到達可能性が時間の経過によってどのように保存・変形・分岐するかを示す概念である。ここでいう「直線的」とは、ある時点から別の時点へ向かう可能性が、途中で「できる」と「できない」に不可逆的に二分されることなく、連続した到達可能性として保持されることを意味する。
この観点から見れば、世界はまだ純粋な意味で「二回目のサイコロ」を振っていない、と言うことができる。なぜなら、ある有限時間内において、A が可能であり、同時に A が不可能であるという差分が、完全な一回の出来事として固定されていないからである。もし、どの時点からでもサイコロの目を一にする可能性が直線的に保存されているならば、「A ができて、A ができない」という一回分の断絶は、まだ真の意味で一回として成立していないことになる。
したがって、本論文の中心問題は次のように定式化される。
直線的に可能にできない A は、本当に実在するのか。
もし、ある地点から別の地点へ向かう可能性が、常に有限時間内で直線的に接続可能であるならば、選択不可能な可能度 A は存在しないことになる。この場合、世界における〈実在〉とは、すでに固定された一点ではなく、現在から保存され続ける到達可能性の総量として理解されるべきである。
反対に、もし A がある時点で完全に不可能なものとして切断されるならば、そこには可能性の非連続的な境界が存在することになる。その場合、実在とは、可能性の連続性から切り離された固定点として現れる。しかしそのような固定点は、果たして本当に世界の内部に存在するのか。それとも、それは人間が事象を一回ずつ数えるために導入した認識上の形式にすぎないのか。
この問いは、量子力学における不確定性、数学における連続体の問題、リーマン予想における零点分布、流体力学における乱流の予測不可能性といった問題とも深く関わっている。これらに共通しているのは、ある事象の位置、運動量、分布、変化が、有限な記述によってどこまで確定されうるのかという問題である。すなわち、現在において可能な A は、すでに一つの有限な実在として保存されているのか。それとも、A はまだ決定点を持たず、連続的な可能性の場のうちに留まっているのか。
本論文は、世界が完全な偶然性によって成立しているという見方にも、すべてがすでに固定された決定論的構造によって閉じているという見方にも、ただちには与しない。むしろここで検討されるのは、現在という一点が、過去と未来を二つに分割する境界ではなく、可能性の保存量が直線的に接続される場であるという仮説である。
この仮説に立つならば、実在とは「すでに起こったもの」だけを意味しない。実在とは、まだ分割されていない可能性が、有限時間内において連続的に到達可能であり続けることそのものである。言い換えれば、世界の根本構造は、「何が起こったか」ではなく、「何がまだ直線的に可能であり続けているか」によって理解されなければならない。
本論文は、この観点から、〈実在〉と〈連続性〉の境界を再考する。そして、A という事象が一つの固定点として存在する以前に、A を可能にし続ける保存量が存在するのではないか、という問いを出発点とする。




