第10章: 死刑囚たち
四年後――
ニマリ
水の音が聞こえた。
いや……
むしろ、水滴の音だった……。それは頭の後ろにある天井から滴り落ちていた。荒削りの石の天井は、苔とカビに覆われている。光のないこの場所で、廊下にわずかな動きを与えているのは、それだけだった。
私がいた部屋は湿り気に満ち、見るべき美しさなど何ひとつない。
それでも、私はここがどこよりも落ち着いた。こここそが、自分の居場所だと感じていた。何の感情も存在しない、安らかな場所。
私はそのまま、身を委ねるように崩れ落ちた。
喉は乾ききり、唇はひび割れている。最後に水を口にしたのは、いったいいつだっただろうか。
痛みがあった。腕か、あるいは足か……いや、肋骨も折られている気がする。呼吸すらも途切れ途切れで、時折、息が止まるような感覚に襲われる。
だが、それは私のような人間にとって、死を意味するものではなかった。
私は他人の罪を背負いながら、生きることを望まないまま生きていた。
目の前には、雪のように白い髪を持ち、黒へと変わる無骨な結い髪の男が立っていた。
その瞳は鮮やかな赤――だが、それ以上に、私へ向けられた深い悲しみに満ちていた。
「痛むのか?」
「……」
「恨んでいるのか?」
「……」
「……」
彼は黙り込んだ。私もまた、沈黙の中に閉じこもったままだった。
答える資格などない……いや、そう思い込んでいた。
私は犯罪者だ。
――罪人だ。
「おい!立て!」
男たちが怒鳴り声を上げた。
彼らは近づいてきて、文句を言いながら私の体を引き起こすと、鉄の鎖につながれた手錠を外した。
その後、私の両手は鋼の殻のようなものに閉じ込められ、床に引きずられていった。
私はむき出しの岩の上を引きずられる。
凍えた足が石を擦り、その後ろには赤い跡――血が残った。
闇の中では、それはほとんど黒く見えた。
廊下の奥で、あの男はついてこなかった。
やがて、私たちは大きな楕円形の広間へとたどり着いた。
そこには数えきれないほどの人々が集まっており、それぞれ異なる装いをしていた。
だが、本質的には――皆同じだった。
全員が一斉に話し続けている。
耳をつんざくような騒音だった……それでも、私は耳を塞ごうとは思わなかった。
その必要がなかったからだ。
突然、木槌が机を打ち鳴らした。
――三度。
やがて、虚ろな目をした男が口を開く。
私の裁きの時が、訪れた。
「ニマリ・ニッザ。アメ・ニッザ少佐の弟である貴様は、本法廷への召喚を免れない。これより、以下の罪状について裁かれる。」
――来たか。
「第一の罪状:反逆。詳細として、貴様はパンドラと呼ばれるテロ組織に加担した裏切り者であるとされる。この組織は、現アカデミー責任者ルシア・クリークによって率いられている。」
「第二の罪状:異常存在。貴様は両親によってその存在を隠匿されていた。我々の情報によれば、貴様とアメ少佐は同じ母を持たない。」
「そして最後に――」
「女王陛下より、貴様は“悪の転生”をその身に宿す存在であると告発されている。」
「そのため、四百年前に起きた大虐殺――五十一万四千人の命を奪った事件の元凶であると、本法廷は見なしている。」
「――認めるか?」
結局のところ、この無意味な人生に、運命は何を刻むのだろうか。
鉄格子の前で、あの白髪の男は私の頬に手を添え、静かに言った。
「私は、お前と共にいる。」
「……ああ。聖都ショアレを虐殺したことは認める」
そう言って、私は顔を上げ、大きく見開いた目で裁判官を真っ直ぐ見据えた。
「そして、それを否定するつもりもない」
重苦しい沈黙が法廷を包み込んだ。
やがて男は再び木槌を打ち鳴らす。
「本法廷は被告を有罪と認める。よって、女王陛下の御前にて、即刻処刑を執行する」
背後から衛兵たちが現れ、私は部屋の中央へと連れて行かれた。
顔を上げると、正面には――女王がいた。
彼女の髪は白く、ほのかに虹色に輝いている。
そして何より、その表情には満足げな笑みが浮かんでいた。
やがて、私の頭は木製の台に押しつけられる。
――だが、その場にいた数多の人間の中で、ひとりだけ、見覚えのある顔があった。
紅と青、二色の瞳を持つ女。
雪のように白い髪。
私は彼女を見たことがない……少なくとも、“私自身”は。
だが、私の中にいる“あの男”は違った。
彼は彼女を知っている。
だが、私が口を開くよりも早く――
兄が、武器を抜いた。
それを高く掲げ、そして――
一瞬で。
私の首は斬り落とされた。
*
**
現在――
目を覚ますと、いつものように頭が痛かった。
耳に触れる。原因は分かっている――この枕だ。
藁でできた枕は、目覚めるたびに最悪の頭痛を引き起こす。
「はぁ……まるで悪夢でも見た気分だ」
その時、扉が開いた。
漆黒の髪を持つ女性が入ってくる。
鮮やかな紅の口紅が、黒い瞳との対比で一層際立っていた。
「起きたのね、私の坊や?」
「おはよう、母さん」
着物姿のその女性は、美しい微笑みを浮かべた。
彼女は私の母――アカネ・ニッザ。
私はこわばった鎖骨に触れ、不満を口にする。
「母さん、この枕硬すぎるよ。頭が割れそうだ」
「そのうち慣れるわよ、坊や」
彼女は近づいてきて、私の額に軽く口づけた。
「さあ、お父さんが待っているわ」
そう言って、彼女は部屋を出ていった。
私は立ち上がり、背中に街の紋章が刺繍された白い着物を身にまとう。
そして振り返り、飾ってあった刀を手に取った。
それは、あの女王の一件の後、父から贈られたものだ。
父は理解していた。彼女の標的はもはや街ではなく――私自身であることを。
それ以来、父は私を鍛え始めた。
そして私は毎日、この刀を身に帯びる。
いつか――望んではいないが――命を救うかもしれない、その武器を。
腰に差したその刀は、深い夜のような青色をしていた。
鞘も同じく、黒い模様の入った青。
「ずいぶんと闇の深い刃だな」
頭の中の男が言う。
「鍛冶師が“俺たち”に合わせて打ったんだ。不思議でもないさ」
頭の中の男――。
本当の名は知らない。
だが彼は、自分を「ラヴォワ」と呼べと言った。
意味のある名前ではない。
ただ事実を示しているだけだ。
なぜなら、今の私たちは――ほとんど一つの存在だからだ。
「母親を怒らせる前に行った方がいいぞ」
帯を結び終え、着物を整えた私は、部屋を出た。
物心ついた頃から、私は彼の記憶と共に生きている。
正確には――かつて彼が宿っていた“別の人間”の記憶だ。
優しい男だった。
だが長すぎる生に蝕まれ、やがて“深淵”と呼ぶべき状態へと堕ちていった。
それを、ラヴォワはただ見ていることしかできなかった。
そして、その無力さは彼自身にも深い傷を残した。
「お、寝ぼすけが来たな」
「おはようございます、姉さん。カムイさんも」
紹介しよう。
彼女が私の姉――家族の長女、アスカ・カムイだ。
今日は彼女とその夫が父に会いに来ている日だ。
――母ではない。私たちは同じ母を持たないからだ。
「お元気ですか?」
そう言って、私は軽く頭を下げた。
私はあえて距離を取っていた。
自分の存在が、彼女の体調に影響を与えたくなかったからだ。
彼女は幼い頃から体が弱く、医者に通い続けた末に、そのうちの一人と結婚した。
「大丈夫よ、最近はすごく元気なんだから! コホッ、コホッ」
「アスカ、もう少し気をつけた方がいい」
夫がそう言いながら、彼女の背中をさすった。
その穏やかな光景を前に、私は踵を返し、居間の方へと向かった。
廊下を歩いていると、雨戸が開け放たれていた。
庭師によって手入れされた石庭では、丁寧に砂紋が描かれているところだった。
「おはようございます、ジオさん」
「若様、よくお休みになれましたか?」
私はまだわずかに痛む首元をかきながら答える。
ジオさんは、この屋敷で数少ない“本当に話を聞いてくれる人”だった。
だからこそ、遠慮なく弱音を吐ける相手でもある。
「鎖骨が少し痛くて」
「さては……耳のせいですかな?」
「はは……どうやら隠し事はできませんね」
老人は楽しげに笑いながら、再び熊手で石に模様を描き始めた。
晴れた朝らしい、穏やかな様子で。
「慣れの問題ですな。昔の人間は、短時間で質の良い眠りを得るための訓練としてやっていたのですよ」
「その効果には疑問を感じますけどね」
その時、姉が私の後ろを通り過ぎた。
ジオさんには、一瞥すらくれずに。
理由は単純だ。
ジオさんは元戦争犯罪者であり、かつてはこの屋敷の前当主に仕えていた人物。
ミライとの戦いに敗れた後、奴隷として扱われるようになった。
今でも彼に価値を見出しているのは、母と私くらいだ。
――もっとも、母の専属使用人なのだから当然ではあるが。
だからこそ、姉は彼に対してあれほど冷たいのだ。
その姉が振り返り、冷ややかでありながらも威厳のある声で言った。
「ニマリ、こちらへ来なさい」
私は急いでいることを悟られないよう、小走りで彼女に追いつく。
「どうしました、姉上?」
「奴隷の犬どもと話すのはやめなさい、と前にも言ったはずよ」
その言い方が、私はどうしても気に入らなかった。
ラヴォワも同様だったらしく、頭の中で苛立ったようにため息をつく。
――それが、彼なりの合図だった。
「犬から学べることも多いと思いますよ。少し芸でも覚えてみることにします」
「何ですって?!」
「その言い方は不適切だと思います、姉上。
失礼ながら申し上げますが、彼は人間です。我が家に尽くしてきた以上、相応の敬意を払うべきではありませんか」
「……ふん」
彼女は、母の配下にあることが気に入らないだけのようだった。
視線を逸らす姉を見て、私は小さく息をつく。
その時、彼女の夫が私の肩を軽く叩いた。
「ニマリ、今は刺激しない方がいいと思うぞ!!」
「無知な者は、世界を知らなければ、いつまでも無知のままですから」
そう言いながら、私はそのまま歩みを進めた。
彼は頭をかきながら、姉の後を追う私を見送る。
「本当に……まだ七歳なのか?」
仕事を終えたジオは、その言葉を耳にした。
「ほほう、若様はニッザ家の誇りでございますからな」
「うわっ、驚かせないでくださいよ」
「失礼いたしました。どうも、軍での癖が抜けきらないもので」
「妻の無礼をお詫びします」
「いえいえ、お気になさらず。誇り高い女性というのも、また魅力の一つですから」
そして彼は、私の方へ視線を向けた。
「若様は、昔からあのように聡明なのですか?」
「……ええ。若様は人を想う気持ちがとても強い。それが弱点でもありますが……」
「しかし最大の強みは、その洞察力にありますな」
「まるで……」
「まるで、年長者の魂でも宿しているかのようです」
「それは……不思議なものですね」
「いずれ分かりますよ。若様を理解できるようになれば、多くの希望があの方に託されていることも」
一方で私は、居間へと足を踏み入れた。
最初に目に入ったのは、椅子に座り新聞を読んでいる父の姿だった。
母はその隣に立ち、全員が揃うのを待って食事の準備をしている。
姉が入ってくると、父は顔を上げて言った。
「おはよう、アスカ。風向きはどうだ?」
「父上、まだその女と一緒にいるのですか!」
「ああ……アカネとお前の間に何があるのかは知らんが、いい加減に改善すべきだな」
「……」
「お前、弟にはそんな態度は取らないだろう」
彼女は一瞬黙り込み、やがてため息をつくと、私の後ろに回り込み、首に腕を回した。
「この子は少なくとも、“異常”じゃないもの」
父は無表情のまま彼女を見つめ、やがて小さく息をついた。
「……そうか」
やがて姉は私を放し、席に着いた。
私は父の方を見る。
父もまた私を見て、わずかに頷いた。
――分かっている。
ここで言い返せば、事態は悪化するだけだ。
それこそが、姉の狙いなのだから。
母は目を閉じたまま、何も言わずにその場を受け流している。
だが――ラヴォワは違った。
彼は苛立ち、舌打ちをした。
その感覚は、私の身体にも伝わる。
姉が目を細め、私の方を向いた。
「何か言いたいことでも?」
「……」
父がこの手の衝突に介入しないことは分かっている。
大人は自分で問題を解決すべきだ――それが父の考えだ。
だが、この瞬間、姉の前にいるのは“私”ではなかった。
ラヴォワだった。
しかも、かなり苛立っている状態で。
「信じることと、理解することは別物だ。お前は自分と私の立場の違いを理解しているのか?」
「何を言っているの?」
「違いだよ、アスカ。私は“女王に対抗するための道具”として存在している」
父の目がわずかに細められた。
彼が長年隠してきた事実を、私が口にしたからだ。
「子を産むとき、その子がただ一つの役割――“悪を成すためだけの存在”だと分かっていて産めるか? 想像できるか?」
「……それで? 自分を殉教者だとでも言うつもり?」
「そうだ。私はそういう存在だ。
私の本来の役目は、“異常”を狩り、人々に真実を見せることだ」
「ニマリ!! 言い過ぎだ」
私は父の方を向き、軽く頭を下げた。
姉はそのまま母へと視線を向ける。
「まさか……この子をパンドラに関わらせたのではないでしょうね?」
「パンドラ?」
母は目を開き、私を見た。
「いいえ……まだ、その時ではないわ」
「……魔女め」
その一言で、ラヴォワはようやく静まり、私に身体の主導権を返した。
私は家族を見渡す。
張り詰めた空気が、限界に達していた。
それでも――私は手を打ち鳴らした。
パン、と乾いた音が響く。
全員が驚いて、私の方を見る。
私は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「ニマリ?」と姉が驚いたように言う。
「今、争う必要はないよ」
そう言って、私は母の隣に座った。
ちょうどその時、カムイさんが入ってきて、妻の隣に座る。
席順は決まっている。
父の右には姉とその夫。
左には母と私。
つまり――最も反りの合わない二人が、正面に座ることになる。
それが、毎週末の光景だった。
父と私は同時にため息をつく。
この食事がどう終わるか、分かりきっているからだ。
ふと父を見ると、彼の視線は私ではなく、隣に置いた刀へと向けられていた。
「ようやく、それを扱えるようになったか?」
私は目を細め、父の言葉の意味が分からなかった。
その様子を見て、父はそれを指差す。
「お前の刀だ」
「ああ!」
私はそれを手に取り、テーブルの上に置いた。
母は少し顔をしかめる。食事の前に武器を卓上に置くのが好きではないのだ――当然といえば当然だが。
母が文句を言い出す前に、父は立ち上がり、刀を抜いた。
その刃は深い夜のような青色で、素材に含まれる鉱石の影響で、淡い蒼の光を反射している。
それは、私の誕生を祝して学院から贈られた、対魔性の鉱石だった。
通常、この素材は現女王が打ち出した新たな政策の一環として用いられている。
――そう、先日会ったあの女王だ。
この鉱石は、“異常”の本質を暴くためのものだ。
触れた瞬間、その力は完全に封じられる。
その名は――OTS。
正式な意味は今も知らない。
だが、その力が恐ろしいものであることに変わりはない。
それでも、ひとつの疑問が頭から離れなかった。
なぜ私は、“守るべき存在を殺せる武器”を与えられたのか?
答えは分からない。
父も決して教えてはくれなかった。
それこそが、この刀を扱いきれない理由の一つでもある。
これは守るための道具である以前に――
双方を傷つけうる“武器”なのだから。
やがて私は口を開いた。
「いえ……まだ全然です。父上には到底及びません」
父は何も言わず私を見つめ、やがて何かを思い出したように言った。
「ニマリ、今夜のことは覚えているな?」
「ん……はい。収穫祭ですよね?」
「そうだ。だが今朝、知らせが届いた。女王も出席するらしい」
私は黙ったまま、続きを待った。
「……今夜、行列が始まる前に広場で合流しろ」
「……分かりました」
その時、使用人たちが料理を運んできた。
食事が並べられ、私たちは食卓を囲む。
不思議なことに、その場の空気は穏やかだった。
食事を終えると、私は立ち上がり訓練場へ向かう。
父もすぐ後を追ってきた。
毎朝、朝食後に一緒に訓練するのが日課なのだ。
だが――
訓練場に着いた瞬間、鉛の弾丸が雨戸を貫き、木の壁に突き刺さった。
私の黒髪をかすめて。
「ひっ……!」
「おい!!」
父は怒りをあらわにして訓練場へ踏み込んだ。
騒ぎの原因は明白だった。
ニッザ軍の二人の指揮官が、決闘を始めていたのだ。
理由は単純――銃器を使うべきか否か。
叫びながら言い争っているので、嫌でも耳に入る。
「ほら見ろ! 銃なんて本物の武器の前じゃ役に立たねぇ!」
ポニーテールに眼鏡の男――キボ。
父の右腕とも言える存在だ。
「だがクリークは使っている。それに失礼だが、お前よりはるかに強い」
赤い髪を目にかけた男――ルパが言い返す。
父は二人の間に割って入り、手を打ち鳴らして静止させた。
そして激しく叱責する。
「次やったら目をくり抜くぞ!」
「またお前たちか!!」
そんな怒号が飛び交う中、私は自分専用の訓練場へと向かった。
だが――
そこに着いた瞬間、妙な違和感に襲われる。
……誰かに見られている。
左右に視線を走らせる。
「気のせいか……?」と小さく呟く。
「いや、違う。誰かがこちらを見ている」
ラヴォワが低く言った。
――やはり気のせいではない。
私は周囲をより注意深く観察する。
少しでも異常があれば見逃さないように。
だが――何もない。
私は刀を抜いた。
もし本当に狙われているなら、いずれ姿を現すはずだ。
――問題は、それがいつかだ。
「ニマリ、右だ!」
ラヴォワが叫ぶ。
私は勢いよく振り返った。
庭の木々のそばに、黒い塊が立っていた。
「……あいつか?!」
ラヴォワが、私と同じように驚いた声で呟く。
恐怖が一気に押し寄せる。
私は構えを取り、その影へと突進した。
屋敷の中に侵入し、私を観察するなど――善意のはずがない。
ぎこちない一撃を振り下ろす。
まともに剣を持ち上げることすら難しい。
「お前、何者だよ……この変態が!」
「まさか、お前が私を見ることができるとは思わなかった」
黒い塊は収束し、人の形を取る。
奇妙な仮面をつけ、額には見慣れぬ紋様。
袖のない外套を羽織り――その下には何も着ていない。
「その仮面、何だよ……ダサいな」
「何だと?! 普通に私が見えているのか?!」
「分からないけど……その格好じゃ目立つに決まってるだろ」
男は考え込むように沈黙した。
まるで、“見られること”に慣れていないかのように。
「お前といい、あの竜の子といい……実に興味深い」
「……誰なんだ、お前」
男は私の剣を軽く押し下げた。
完全に無力化された――だが、不思議と敵意は感じない。
やがて彼は手を離した。
「好きに呼べばいい。
人は私を“神”と呼ぶが……あまり好きじゃない。大げさすぎる」
「……」
「……何だ? 気に入らないのか?!」
私は彼を見つめた。
――ふざけているのか?
神だと?
あり得ない。
本物の神が、こんな格好をしているはずがない。
私は距離を取るため、一歩後ずさる。
その瞬間――
「おや」
男は一瞬で消え、背後に現れた。
あり得ない……。
こいつが神のはずがない。
男は首を傾げ、私を覗き込む。
「カリュセに、この中へ閉じ込められているのか……」
「カリュセ? 誰のことだ?」
遠くから足音が近づいてくる。
その瞬間、男は再び姿を消した。
「今夜、お前が眠っている間にまた来よう……」
黒い影となって、庭の闇へと溶けていく。
「ニマリ、大丈夫か?」
父が近づきながら声をかける。
「どうして?」
「顔色が悪い」
私は、先ほど男がいた場所を見つめ続けた。
――あれは何だった?
信じていいのか?
そして何より――
なぜ、こんなにも……
私の手は、小刻みに震えていた。
あれは、本当に“神”だったのか?
だとしたら、なぜあんな不気味な姿をしている?
疑問が頭の中で渦巻く。
だが――今は考える時ではない。
「大丈夫です。ただ……少し寝不足なだけです」
「そうか……」
父はそう言ったが、納得していないのは明らかだった。
その表情には、不安と悲しみが混じっている。
「さあ! 訓練しましょう!」
わざと明るく言って、その話題を終わらせた。
父は背筋を伸ばし、微笑む。
そして剣を抜いた。
私たちは互いに構える。
なぜ本物の武器で訓練するのか?
理由は単純だ。
私はまだ、まともに剣を持ち上げることすらできない。
だからこそ、実戦に近い状況に身を置く。
脳を“本気の戦い”に慣らすために。
――効果はあるのか?
答えは、ない。
半分以上の時間、私は剣を持ち上げることすらできない。
そもそも、この剣は大人用に作られている。
七歳の子供が扱える代物ではない。
私は必死に剣を持ち上げる。
先ほどの出来事は、明らかに異常だった。
一撃を放てたこと自体、本来あり得ない。
だが――確かな進歩もあった。
久しぶりに、腰の高さより上まで剣を上げることができたのだ。
(あいつに、大切な人たちを傷つけさせるわけにはいかない)
「……」
頭の中の男は、何も言わない。
さっき震えていた手は――私のものではなかった。
ラヴォワのものだったのだ。
「よし。では、これから打ち合いに移るぞ、ニマリ」
父が静かに告げた。
「えっ?!」
「構えろ!!」
「ま、待って!!」
父は一気に間合いを詰め、斬りかかってきた。
私は必死に剣を持ち上げて受け止める。
だが――
二つの刃の重みは、すぐに耐えきれないものとなった。
衝撃に、両手が震える。
「父上、少しやりすぎでは……?」
「全く問題ない!」
さらに圧がかかる。
――耐えきれない。
脚が崩れ、私は訓練場の地面に倒れ込んだ。
父は剣を振り下ろし、私の右頬のすぐ横に突き立てた。
その際、頬をかすめ――
「いっ……痛っ!!!」
「ニマリ、私を見ろ」
私は父を見上げる。
頬から血が流れていた。
父は剣を両手で握り、厳しい眼差しで私を見据えている。
「すべてが変わる日が近い。だが……お前はまだ準備ができていない」
「昨日、“影”が私のもとを訪れた」
「まさか……あれは……」
「ああ。今夜、お前は女王に狙われると告げられた」
胸がざわつく。
「だが、お前はまだ未熟だ。だからこそ、慎重に行動しろ」
「私は……この世界が“異常”に対抗するための唯一の希望を、失いたくはない」
父は剣を引き抜き、鞘に収めた。
私は頬に触れ、血で濡れた手を見る。
その手が――小刻みに震えた。
まだ理解していなかった。
自分の背負うものの重さを。
そして――
仮面の男が、どこまで仕組んでいるのかを。
頭の中の男の記憶を辿っても、
あの存在に関する記憶は一切ない。
なのに――なぜ、彼は知っている?
*
**
「はい、どうぞ。私の天使」
「ありがとう、母さん」
母は私の頬に包帯を貼り、額に口づけを落とした。
「母さん……どうして、僕たちはこんなにも“異常”に狙われるの?」
「うーん……もうはっきりとは覚えていないの」
彼女は少し考えるように目を細める。
「この戦いは長く続きすぎたわ。きっと女王も、世界の誰もが――なぜ始まったのかさえ忘れている」
私は周囲を見渡した。
ここは居間。
背後では室内のししおどしが、水を受けて傾き、石を打つ音を響かせている。
コン……
私は茶を手に取る。
竹の筒は、また静かに元の位置へ戻っていた。
「どうして……」
「?」
「どうして僕が、最後の希望なんだ? どうして僕なんだ?」
母は読んでいた書物から顔を上げ、私を見る。
「あなたが生まれる前、一人の女性が訪ねてきたの」
「ルシア・クリーク?」
「ええ。学院の責任者ね」
「すべては、あの時から決まっていたのよ」
彼女は静かに続ける。
「彼女は、自分の上からの命令で、私たちに警告しに来たの」
「これから生まれる子は――この世界の希望になる、と」
「世界の……希望?」
「そ――」
「アカネ様、ご主人様がお呼びです」
「今行くわ!! ごめんね、坊や」
母は立ち上がり、父のもとへ向かった。
残された私は、一定のリズムで鳴る竹の音に耳を傾ける。
コン……コン……
だが、その不快な感覚は消えなかった。
まだ――“影”がいる気がする。
どこかで、私を見ているような……。
「嫌な感じだ……僕はずっと、この戦いの中で生きることになるのか?」
「戦いなど、歴史の一部に過ぎない」
ラヴォワが静かに言う。
「本当の問題は――この地獄を生き延びられるかどうかだ」
「ラヴォワ……どういう意味だ?」
「……ごめんね、ニマリ」
その声は、どこか沈んでいた。
「私のせいで、あなたは“普通の人生”を送れなくなる」
「気にするなよ……最初から分かってた」
「いいえ……分かっていない」
ラヴォワの声が低くなる。
「私の力と共に生きるということが、どういうことか あなたの母は間違っている 私たちは救いなんかじゃない」
そして、はっきりと言い切った。
「私たちは――ダモクレスの剣 この世界にとっての“悪”そのものだ ――パートナー」




