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存在しない犯人  作者: キロヒカ.オツマ―


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19/19

エピローグ 名前のない男

その日、男の家に、二人の刑事が訪ねてきた。


「少し、お話をうかがえますか」


男は、怪訝な顔で二人を招き入れた。心当たりは、何もなかった。真面目に働き、静かに暮らしてきた。事件のニュースは見ていたが、自分に関係があるとは、夢にも思っていなかった。


刑事の一人――女性の方が、一枚の写真を差し出した。数年前、まだ東亜物産に勤めていた頃の、社員旅行の集合写真だった。


「この写真に、見覚えは」


「ああ、これは……懐かしいですね。もう五年も前に、あの会社は辞めましたが」


「この写真の中の、あなたご自身の顔を、よく見ていただけますか」


男は、写真を覗き込んだ。少し若い、自分の顔があった。何の変哲もない、当時のままの自分だった。


「これが、どうかしましたか」


「この顔のデータが――『黒瀬恒一』という人物の顔として、生成AIによって、複数の写真に、部分的に転用されている可能性があります」


男は、しばらく、その言葉の意味が呑み込めなかった。


「黒瀬恒一というのは、あの……御堂さんを殺したっていう」


「はい」


「僕が、その人だっていうことですか」


「いいえ」


女性刑事は、はっきりと首を振った。


「あなたは、黒瀬恒一ではありません。ただ、あなたの顔の一部――骨格の特徴が、その架空の人物を作る際の、素材の一つとして、無断で使われた可能性が高いんです」


男は、その日、これまでの人生で一度も感じたことのない類の、奇妙な寒気を覚えた。


自分の顔が、自分の知らないところで、誰かの犯罪の道具にされていた。


事件が正式に解決した後も、男の日常は、完全には元に戻らなかった。


警察は、彼の身元を公表しなかった。マスコミにも漏れなかった。表向き、彼は何も知らないまま、事件とは無関係な一般人として、平穏な生活に戻ったはずだった。


だが、時折――たとえば、新しいスマートフォンの顔認証を設定したとき。あるいは、SNSの「あなたと似た人」というレコメンド機能に、見知らぬアカウントが表示されたとき。男は、ふと、あの夜の刑事の言葉を思い出す。


自分の顔の一部が、今もどこかで、別の名前を名乗って、生き続けているかもしれない。


その事実は、いくら考えても、拭い去ることができなかった。事件は終わった。犯人は捕まった。だが、彼の顔から抽出された骨格データそのものは、どこにも保存されていないという保証は、誰にもできなかった。ORACLEというシステムは凍結されたが、そこから生まれた「黒瀬恒一」というパターンは、すでに無数のコピーとして、インターネットのどこかに散らばっている。


男は、ある夜、洗面所の鏡の前で、長い間、自分の顔を見つめていた。


垂れた目尻。特徴のない、どこにでもいそうな顔立ち。


これは、間違いなく、自分の顔だった。生まれてからずっと、鏡の中で見てきた、自分だけの顔のはずだった。


だが今は、その確信すら、以前ほど強くは持てなかった。


もし、この顔の一部が、自分の知らないところで、別の名前と結びつけられ、まったく別の人生を歩んでいるのだとしたら――


自分は、本当に、自分の顔の、唯一の持ち主だと言えるのだろうか。


男は、蛇口の水を止め、鏡から目を逸らした。


考えても、答えの出ない問いだった。それでも男は、翌朝も、いつものように鏡の前に立ち、いつもの顔を見て、いつも通りに、仕事へと向かった。


それが、彼にできる、ただ一つの抵抗だった。


自分の顔を、自分のものとして、生き続けること。


たとえ、その保証が、どこにもなかったとしても。

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