エピローグ 名前のない男
その日、男の家に、二人の刑事が訪ねてきた。
「少し、お話をうかがえますか」
男は、怪訝な顔で二人を招き入れた。心当たりは、何もなかった。真面目に働き、静かに暮らしてきた。事件のニュースは見ていたが、自分に関係があるとは、夢にも思っていなかった。
刑事の一人――女性の方が、一枚の写真を差し出した。数年前、まだ東亜物産に勤めていた頃の、社員旅行の集合写真だった。
「この写真に、見覚えは」
「ああ、これは……懐かしいですね。もう五年も前に、あの会社は辞めましたが」
「この写真の中の、あなたご自身の顔を、よく見ていただけますか」
男は、写真を覗き込んだ。少し若い、自分の顔があった。何の変哲もない、当時のままの自分だった。
「これが、どうかしましたか」
「この顔のデータが――『黒瀬恒一』という人物の顔として、生成AIによって、複数の写真に、部分的に転用されている可能性があります」
男は、しばらく、その言葉の意味が呑み込めなかった。
「黒瀬恒一というのは、あの……御堂さんを殺したっていう」
「はい」
「僕が、その人だっていうことですか」
「いいえ」
女性刑事は、はっきりと首を振った。
「あなたは、黒瀬恒一ではありません。ただ、あなたの顔の一部――骨格の特徴が、その架空の人物を作る際の、素材の一つとして、無断で使われた可能性が高いんです」
男は、その日、これまでの人生で一度も感じたことのない類の、奇妙な寒気を覚えた。
自分の顔が、自分の知らないところで、誰かの犯罪の道具にされていた。
事件が正式に解決した後も、男の日常は、完全には元に戻らなかった。
警察は、彼の身元を公表しなかった。マスコミにも漏れなかった。表向き、彼は何も知らないまま、事件とは無関係な一般人として、平穏な生活に戻ったはずだった。
だが、時折――たとえば、新しいスマートフォンの顔認証を設定したとき。あるいは、SNSの「あなたと似た人」というレコメンド機能に、見知らぬアカウントが表示されたとき。男は、ふと、あの夜の刑事の言葉を思い出す。
自分の顔の一部が、今もどこかで、別の名前を名乗って、生き続けているかもしれない。
その事実は、いくら考えても、拭い去ることができなかった。事件は終わった。犯人は捕まった。だが、彼の顔から抽出された骨格データそのものは、どこにも保存されていないという保証は、誰にもできなかった。ORACLEというシステムは凍結されたが、そこから生まれた「黒瀬恒一」というパターンは、すでに無数のコピーとして、インターネットのどこかに散らばっている。
男は、ある夜、洗面所の鏡の前で、長い間、自分の顔を見つめていた。
垂れた目尻。特徴のない、どこにでもいそうな顔立ち。
これは、間違いなく、自分の顔だった。生まれてからずっと、鏡の中で見てきた、自分だけの顔のはずだった。
だが今は、その確信すら、以前ほど強くは持てなかった。
もし、この顔の一部が、自分の知らないところで、別の名前と結びつけられ、まったく別の人生を歩んでいるのだとしたら――
自分は、本当に、自分の顔の、唯一の持ち主だと言えるのだろうか。
男は、蛇口の水を止め、鏡から目を逸らした。
考えても、答えの出ない問いだった。それでも男は、翌朝も、いつものように鏡の前に立ち、いつもの顔を見て、いつも通りに、仕事へと向かった。
それが、彼にできる、ただ一つの抵抗だった。
自分の顔を、自分のものとして、生き続けること。
たとえ、その保証が、どこにもなかったとしても。




