第1話 結婚初夜に「愛することはない」と言われたので離縁します。なお、婚家が買った美術品は偽物でした
「ミント。お前を愛することはない。俺に愛されると思うな!」
結婚初夜の寝室で、夫になったばかりの男はそう言った。
蠟燭の火が静かに揺れる部屋に、その声だけが妙にはっきり響く。
私は一度だけ瞬きをして、それから素直に思ったことを口にした。
「はあ。なら結婚、やめましょうよ」
言った瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。
ああ、よかった。
これで気兼ねなく終われる。
目の前の男――グレープ王国の有力子爵家の次男は、ぴくりと眉を動かした。
「・・・・何だ、その返事は」
「何って。愛することはないんでしょう?」
「そうだ」
「じゃあ、結婚している意味、ないじゃない」
男は呆れたように鼻で笑った。
「あるに決まっているだろう。お前は俺の妻なんだからな」
「いや、だから、それの何がいいのよ」
「は?」
本気で分からない、という顔をされた。
逆に、私のほうが困る。
この男は昔からずっとこうだった。
やたらと私を気にする。
何かと話しかけてくる。
妙なところで張り合ってくる。
そのくせ、好意的かと言われれば全然そんなことはない。
むしろずっと、振り向かない私を無理やり振り向かせたがっているような感じだった。
最初は気のせいかと思っていたけれど、どうやら違ったらしい。
周囲の令嬢たちが彼に愛想よく笑いかける中、私だけがそっけなかった。
たぶん、それが癪だったのだろう。
珍しくて、気になって、意地になって、とうとう結婚にまで持ち込んだ。
――風のウワサでそう聞いた時は、何を馬鹿なことをと思ったものだ。
けれど今なら分かる。
本当にそうだったのだ、この男は。
「お前は昔からつれなかったからな」
男は勝ち誇ったように口元を歪めた。
「だが、結局は俺との結婚を受け入れた。これでようやく、自分が誰のものか分かっただろう」
「いや、全然」
「素直になれ」
「ずっと、素よ」
私はため息をついた。
そもそも、この結婚に私は最初から乗り気ではなかった。
私は、恋だの愛だのとは無縁だ。
私の実家、バーントシェンナ伯爵家は、最近少し財政が苦しい。
そこへこの子爵家から縁談が持ち込まれた。
しかも向こうは驚くほど熱心だった。
断っても断っても食い下がり、多額の支援までちらつかせて話を進めてきたのだ。
両親は最後まで言ってくれた。
「お前が嫌なら断っていい」
と。
その言葉に嘘はなかったと思う。
私は家にも両親にも恩がある。だから迷った。
でも、最終的に首を縦に振った一番の理由は、それだけではない。
この男の実家が少し前、闇ギルドを通じて美術品を買ったと聞いたからだ。
それが、どうしても見たかった。
私は、恋や結婚より美術品のほうが好きだ。
着飾るより絵を見るほうが好き。
舞踏会より修復記録のほうが面白い。
宝石を贈られるより、由緒ある工房の真作を見つけた時のほうが心が躍る。
だから私は、その美術品を自分の目で確かめるために結婚を受け入れた。
我ながらどうかしているとは思う。
でも、見たいものは見たかったのだ。
そして実際、もう見た。
つまり、私の目的は終わっている。
そんな状態で初夜にこんな台詞を吐かれても、困るだけだった。
「・・・・まあ、いいです」
私はさっさと踵を返した。
「では、おやすみなさいませ」
「待て。どこへ行く」
「自室ですけど」
「夫婦だぞ」
「愛することはないんでしょう?」
「それとこれとは別だ」
「別じゃないわよ」
私は呆れて振り返った。
「私は、愛のない結婚生活ごっこをする趣味はないの」
「ごっこだと?」
「だって、あなた、私を手に入れたかっただけでしょう?」
男の顔が一瞬こわばる。
図星らしい。
「何を馬鹿なことを」
「違うの?私があなたに媚びなかったから、意地になった。周りの令嬢みたいに自分を見ない女が珍しかった。だから手に入れたくなった」
「・・・・」
「それで手に入ったから、今度は突き放してみたら、私が慌てて縋ってくると思った」
男は少し黙ってから、当然のように言った。
「・・・・女というものは、そういうものだろう」
あ、認めた。
私は本気で引いた。
「あなた、最低ね」
「何だと!?」
「だって本気で思ってるんでしょう?結婚初夜に妻を冷たく突き放したら、妻が泣いて『愛してください』って縋るって」
「当然だろう!女は結婚したがるものだ!」
ああ、やっぱり。
グレープ王国には、少しおかしな価値観の貴族がいる。
女は愛されたいもの。
結婚は女にとって何よりの幸福。
いい家に嫁げば、それで満たされる。
男に冷たくされれば不安になって、縋ってくる。
そんな、古びた芝居の台本みたいな価値観を、本気で信じている者が。
この男も、その典型だった。
そして私は、その価値観からきれいに外れていた。
だから珍しかった。
だから執着された。
――迷惑な話である。
「残念だけど、私はそうじゃないの」
私はにっこり笑った。
「じゃあ、おやすみなさい」
今度こそ部屋を出て、自室へ戻る。
後ろで何か叫んでいた気がしたけれど、聞こえないふりをした。
部屋の扉を閉めて、鍵をかける。
かちゃん、という小さな音がして、ようやく心からほっとした。
「変な男」
椅子に腰を下ろし、私は小さく息を吐く。
傷ついた、というよりは、ただただ呆れた。
でも、これでいい。
これでもう、全部終わらせられる。
そう思うと、気持ちは妙に軽かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌朝。
私はあっさり荷物をまとめ、屋敷を出た。
使用人たちはぎょっとしていたけれど、かまわない。
必要なものだけ持って、さっさと馬車に乗り込む。
向かう先は、帝都プラチナムにあるバーントシェンナ伯爵家のタウンハウスだ。
馬車で三日ほどかかる。
本来なら、グレープ王国の貴族に、プラチナ帝国の帝都に屋敷を構える権利はない。
いまのグレープ王国は、もうプラチナ帝国の傘下国ではないからだ。
けれど、バーントシェンナ伯爵家だけは別だった。
ある理由から、我が家は昔からプラチナ帝国と縁が深い。
そのため、帝都にタウンハウスを持つことを許されている。
私がプラチナ帝国内務省で働いているのも、その縁と無関係ではない。
その事情を知っている者は多くないけれど、今はどうでもいい。
大事なのは、さっさと離婚話を進めることだけだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
私が到着すると同時ぐらいに先触れが届き、あっという間にバーントシェンナ伯爵家のタウンハウスで話し合いの場が設けられた。
夫側はかなり慌てていたらしい。
私は先に応接間へ入り、紅茶をひと口だけ飲んでから、侍女に夫たちを部屋へ通すよう告げた。
夫。
その父と母。
そして、すでに私とともに部屋にいた私の両親。
夫は私の顔を見るなり、開口一番に叫んだ。
「ミント、どういうつもりだ!?家を出るなんて!私の気を引こうったってそうはいかないぞ!!」
私は紅茶のカップを静かに置いた。
「そう」
「そう、じゃない!勝手な真似をするな!」
「でもあなた、初夜に言ったじゃない」
私は首を傾げる。
「『ミント。お前を愛することはない。俺に愛されると思うな』って」
夫の両親の肩がびくっと揺れた。
どうやら、まともに説明していなかったらしい。
「だから私も言ったでしょう。『なら結婚やめましょうよ』って」
「そ、それはお前を躾けるためで――」
「躾け?」
「そうだ!お前は昔からつれない態度ばかりだった!少しは俺に縋るくらいでちょうどいい!」
「ええ・・・・」
思わず声が漏れた。
隣で母も、うっすら眉をひそめている。
父は無言だったが、目が冷えていた。
「本気で言ってるの?」
「当たり前だ!令嬢が結婚をやめるだなんて本気で言うわけがないだろう!」
「なんで?」
「なんでって・・・・!」
夫は一瞬、言葉を詰まらせ、それでも当然のように言った。
「女は結婚したがるものだ!」
応接間が静まり返った。
ここまで堂々と馬鹿を言えるのも、ある意味では才能かもしれない。
「つまりあなた、自分から熱烈に求婚しておいて、手に入れた瞬間に突き放して、私が泣いて縋ってくるのを待ってたのね?」
「そ、それの何が悪い!」
「全部よ」
「ミント!」
「私は最初からこの結婚に乗り気じゃなかったの。何度も言ったでしょう」
「まだそんなことを言うのか!お前だって俺に気があったはずだ!」
「ないわよ」
きっぱり言うと、夫の顔が引きつった。
「むしろ仕事のほうが好きだし」
「貴族令嬢が仕事好きなわけないだろう!!」
「ここにいるじゃない。仕事が好きな令嬢。それに、こんなこと言いたくないけど、家格はこちらが上よ」
そう言うと、夫側は顔を引きつらせた。
私はため息をつく。
「女はみんな自分に愛されたいと思っている。結婚したら満足する。離縁は怖い。だから冷たくすれば縋ってくる・・・・ほんと、ずいぶんファンタジーな世界で生きてるのね」
「なっ・・・・」
「でも残念。私はそういう女じゃないの」
私の父が静かに口を開く。
「娘の意思は変わらん。もともとこの縁談も、最終的には本人の判断に任せる約束だった」
夫の父が慌てて身を乗り出した。
「し、しかし伯爵。支援の話も・・・・」
「承知しております」
今度は母が微笑んだ。
柔らかい笑顔なのに、妙に迫力がある。
「ですが、娘の一生と引き換えにするほどのものではありませんわ」
夫が顔を真っ赤にする。
「くっ・・・・!なら出ていけばいい!支援もなしだぞ!」
「ええ、それは構わないわ」
「なっ!?」
「その代わり、最後にひとつだけ。妻として、婚家への務めとして忠告しておくわね」
私がそう言うと、部屋の空気がぴんと張った。
夫の父が嫌な顔をする。
たぶん、何を言われるのか察したのだろう。
「ご両親が購入した、あの美術品」
私は静かに続けた。
「あれ、真っ赤な偽物よ」
一瞬、応接間の空気が凍った。
次の瞬間、夫が机を叩く。
「嘘だ!!」
「嘘じゃないわ」
「まだそんなことを言うのか!あれには我が子爵領の三年分もの資金を費やしたんだぞ!」
「でしょうね。でも、偽物は偽物」
「お前に何が分かる!」
私は少しだけ笑った。
「そんなことが分かるのは専門家だけ、って言いたいの?」
「そうだ!」
「ええ、そうね」
私は頷いた。
「そんなことができるのは、プラチナ帝国内務省に所属する美術品管理課の職員だけ。つまり、私のことよ」
夫の母が息を呑んだ。
父親の顔色がさっと変わる。
彼らは知っていたはずだ。
私がただの伯爵令嬢ではないことを。
社交界で美術品を眺めて誉める側ではなく。
探し、調べ、記録し、必要なら国の管理下へ戻す側の人間だということを。
私は美術品が好きだ。
美しい絵を見れば胸が高鳴る。
古い彫像の傷を見れば、誰の手を渡ってきたのか考えたくなる。
真贋を見抜き、来歴を追い、価値を守る。
それが私の仕事で、誇りだ。
「しかも、あれは闇ギルド経由でしょう?」
私がそう言った瞬間、夫の父は完全に青ざめた。
「なら、なおさらまずいわ。あの品は巧妙に偽装されていたけれど、中身は価値のない贋作。購入価格にはまったく見合わない」
「そ、そんな・・・・」
「さらに言えば、グレープ王国はもう傘下国ではないけれど、美術品の管理となれば話は別よ。プラチナ帝国はそのへんだけは厳しいの」
「処理を間違えれば、内務省の調査対象になる可能性もあるわね」
「う、うそだろ・・・・」
夫の声が震える。
私はそこで、ようやく少しだけすっきりした気分になった。
「だから忠告してあげたのよ。感謝してほしいくらいだわ」
「お、お前・・・・まさかそれを見るためだけに・・・・」
夫が呆然と呟く。
私はにこりと微笑んだ。
「ええ。そうだけど?」
「う、うそだ、そんな・・・・」
「だから言ったじゃない。私はあなたに興味がないの」
その瞬間、夫の顔が引きつった。
ようやく本当に理解したらしい。
私が欲しかったのは彼ではなく、美術品を見る機会だったのだと。
もちろん、そこには愛だの恋だのは一ミリも入ってない。
ただ見たかった。
本物か偽物か、確かめたかった。
それだけ。
我ながらだいぶ変わっていると思う。
でも少なくとも、自分のちっぽけな虚栄心を満たすために他人を振り回す男より、ずっとましだ。
私は立ち上がった。
「では、これでお話は終わりでよろしいですね」
誰もすぐには返事をしなかった。
止める言葉も、言い返す言葉も出てこないらしい。
私は父と母に軽く会釈して、そのまま応接間を出た。
廊下を歩きながら、小さく息を吐く。
胸の奥に残っていた最後の棘が、ようやく消えた気がした。
「さて」
明日からは、また仕事だ。
愛だの結婚だのより、私にはずっと心躍るものがある。
美しいものを探し、見つけ、守ること。
それだけで十分だった。




