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コズミック・ドリフター⑥真実の書庫(隠れユートピア "ライブラリア")  作者: naomikoryo


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第七話:見えない警報

森の匂いが濃かった。

湿った土。

朽ちた葉。

樹皮の渋さ。

それらが肺の奥へ入り、タルタロスの粉塵を少しずつ押し出していく。


だが、安心はできない。

頭上の空に残る黒い筋。

人工の航跡。

誰かがこの宙域を掃いている。

まだ遠いのに、存在感だけが皮膚を撫でる。


リラは歩幅を落とし、指を二度だけ動かした。

合図。

止まれ、ではなく。

沈めろ。


陸は呼吸を浅くした。

足音を消すためではない。

存在の輪郭を薄くするための呼吸。

授業でやった。

里の外でやるのは、これが初めてだ。


(薄く)

(沈め)


右腕の内側が、微かに熱を持つ。

跳躍の熱ではない。

布を縫い閉じる熱。

自分たちの匂いと気配を、森の匂いに紛れさせる。


ザインが低く言った。


「……森ってのは…」


「隠れるのに向いてるな。」


リラがすぐに返す。


「喋るな。」


「匂いが動く。」


ザインが肩をすくめる。


「匂いってのは便利だな。」


「お前ら、鼻がいい。」


陸は笑いそうになって、飲み込んだ。

笑うと緩む。

緩むと死ぬ。

それでも、口の端が少しだけ上がりそうになる。


森を抜けると、地形が変わった。

木々が途切れ、岩肌が露出する。

小さな崖。

その先に、人工物が見えた。


黒い骨格。

鉄の橋。

谷を跨ぐ古い輸送路。

苔が生え、錆が浮いている。

それでも形が残っているのは、ここが何度も使われてきた道だからだ。


リラが足を止め、橋を見た。

紫紺の瞳が、嫌な情報を拾っている。


「……橋が新しい…」


陸が眉をひそめる。


「錆びてるのに?」


「錆は古い。」


リラが冷たく言う。


「でも、補修痕がある。」

「最近、誰かが通った…」


その“誰か”が、クロノスなのか。

企業連合の作業員なのか。

あるいは、別の狩人なのか。


ザインが鼻で笑った。


「通ったなら…」


「また通れる。」


「単純だな。」


リラが言い捨てる。


「単純な道ほど、罠が仕掛けやすい。」


陸は橋の端にしゃがみ、手で地面を触った。

泥が乾きかけている。

そこに、靴跡。

二つ。

どちらも同じ方向。

片方は重い。

もう片方は軽い。


(人間の靴じゃない)


底の模様が、妙に均一だった。

軍靴。

あるいは装甲靴。


陸の喉が鳴った。


「……クロノスかもしれない…」


リラは否定もしない。

肯定もしない。

ただ、指を一本立てた。

待て。


彼女は端末を取り出す。

里で渡された筆。

指先が踊る。

通信がないはずの森の中で、彼女は“物語”を組み立てる。

外界のネットに繋がるためではない。

痕跡を残すための手順を、頭の中で先に整える。


「ここは…」


リラが小さく言った。


「囮を置ける。」


陸は息を呑む。


「今?」


「今。」


リラは即答した。


「橋を渡る前に糸を絡ませる。」

「渡ってからだと、足跡が一本道になる。」


なるほど、と陸は思った。

一本道は追いやすい。

だからここで分岐を作る。

自分たちが三人であることを利用して。


リラが視線を陸へ向ける。


「陸!」


「守れ。」


陸は頷きそうになって、止めた。

代わりに息を合わせる。

守る。

存在を薄くする。

追跡の目を閉じる。


リラがザインを見る。


「止めろ!」


ザインが舌打ちする。


「分かってる。」


「殴らない。」


言い切った。

昨日までなら言い切れなかった言葉だ。

それだけで、陸の胸の奥が少し熱くなる。


リラは橋の手前で、地面に小さな金属片を置いた。

コインほどの薄さ。

光を吸う黒。

里から持ち出したものではない。

リラの持ち物だ。

彼女が隠していたカード。


「……何だそれ?」


陸が問う。


「偽の匂い。」


リラが答える。


「追跡の糸に“好物”を食わせる。」


好物。

クロノスが好む痕跡。

異邦人の跳躍の残滓。

情報屋の血。

暴力の匂い。


リラは指を滑らせ、金属片に触れた。

その瞬間、空気がわずかに歪む。

匂いが立つのを、陸でも感じた。

タルタロスの麻酔の甘さに似た、不快な甘さ。

でも違う。

これは人の匂いじゃない。

“扉”の匂いだ。


(跳躍の匂い……?)


陸の右腕が、反射で熱を持った。

吸い寄せられそうになる。

だが陸は耐える。

これは囮だ。

自分が釣られたら意味がない。


「……行く。」


リラが言った。


「橋を渡る。」


「でも渡るのは…」


「三人一緒じゃない。」


陸の心臓が跳ねた。


「分かれるのか?」


リラが首を振る。


「分かれない。」


「順番をずらす。」


「同時に渡ると、足跡が一本になる。」

「順番をずらせば、追跡は“誰が誰か”を誤る。」


役割を固定させない。

追跡の目を混乱させる。

授業の延長。


「まず私…」


リラが言う。


「次に陸。」


「最後に、こいつ。」


「こいつ言うな!」


ザインが返す。


「分類だ。」


リラが言い捨てる。


陸は息を吸った。

順番。

それだけで、恐怖が増える。

一瞬だけ、一人になる。

タルタロスで一人になった時の冷たさが蘇る。

でも今は違う。

分断ではない。

錯覚を作るための順番だ。


リラが橋へ足を踏み入れる。

鉄が軋む。

音が響く。

それでも彼女は止まらない。

呼吸は浅い。

存在を薄くする呼吸のまま。


橋の中央まで行き、反対側の岩陰へ滑り込む。

そこで振り返らず、指を二度動かす。

合図。

来い。


陸は橋へ足を踏み入れた。

鉄の冷たさが靴底から伝わる。

谷の下から水音。

風が吹き上がり、背中を撫でる。

落ちたら死ぬ。

そんな高さじゃない。

でも怪我をすれば終わりだ。

クロノスに追われている今、怪我は死だ。


(守れ)


陸は右腕へ意識を沈め、自分の輪郭を薄く保つ。

足音の響きが、少しだけ小さくなる気がした。

橋の金属が、自分を“通過するだけの影”として扱っている感覚。

存在を薄くするとは、こういうことか。


反対側へ渡りきった瞬間。


背後で、鉄が鳴った。


カン。


硬い音。

人の足音ではない。

金属が落ちた音。


陸が反射で振り返る。


橋の中ほど。

どこからか小さな筒が転がっている。

それが床を叩き、止まった。


(……罠)


次の瞬間、その筒から白い霧が噴き出した。


麻酔。

甘い匂い。

タルタロスの匂い。


陸の喉が凍る。


「……ッ!」


声にならない声が漏れる。

だが同時に、リラの声が飛んだ。


「吸うな!」


リラが岩陰から身を乗り出し、手で口元を覆う動作を見せる。

遅い。

風が霧を押し広げ、橋全体を包む。


ザインが橋へ足を踏み入れたところだった。

赤毛の男が、霧を見て顔を歪める。


「……またかよ。」


首輪は光らない。

でも麻酔は首輪じゃない。

物理だ。

肺に入れば終わる。


陸は咄嗟に右腕へ意識を叩き込んだ。

跳ぶな。

でも、閉じろ。

縫え。

守れ。


(膜を作れ)


霧と自分たちの間に、薄い布を一枚。

空気の縫い目を縫い合わせて、霧が流れ込む隙間を塞ぐ。

授業でやった“存在を薄くする”とは違う。

今は、物理を止める。


青白い光が、薄く広がった。

光というより、透明な歪み。

橋の上に、見えない壁が生まれる。


霧が、その壁で揺れた。

進もうとして、止まる。

風に押されても、薄い膜が受け止める。

完全には止まらない。

漏れる。

でも速度が落ちる。


リラが指を動かした。

端末を叩く。

“物語”を書く。

偽の足跡ではない。

今は、偽の原因を作る。


橋の反対側、谷の下の方へ小さな信号を投げる。

霧を撒いた者が、そこを“爆発源”だと誤認する筋道。

追跡の目をそらす筋道。


ザインが、殴らずに動いた。

霧の筒へ向かって走り、足で蹴り飛ばす。

橋の端へ転がし、谷へ落とす。

殴らない。

折らない。

ただ止める。

必要な動きだけ。


筒が落ち、霧が谷へ吸われていく。

風が霧を持っていく。

甘い匂いが薄れる。


陸は息を吐いた。

肺が痛い。

少し吸った。

でも致命的ではない。

膜が間に合った。

ギリギリ。


リラが岩陰から低く言った。


「……クロノス。」


「私たちの“癖”を覚えてる。」


麻酔。

跳躍者を捕まえるための定番。

それを橋に仕込む。

タイミングも完璧。

囮に釣られなくても、道に罠を置く。

執念深い。


ザインが鼻で笑った。


「じゃあ…」


「癖を変える。」


リラが短く答える。


「そう。」


陸は手を握り直した。

膜を作る感覚がまだ右腕に残っている。

守れた。

殴らずに。

跳ばずに。


(これが束ねる)


胸の奥が熱い。

怖いのに、熱い。


その時、谷の向こうで金属音がした。

遠い。

でもはっきり。

誰かが橋のこちら側へ近づいている。


リラが息を殺した。


「……来る。」


陸の背筋が凍る。

追跡が早すぎる。

さっきの罠は、ただの機械じゃない。

誰かが見ていた。

近くにいた。


そしてその気配は。

人間の足音ではなかった。

軽すぎる。

滑るような音。

ドローン。

あるいは――。


リラが低く言った。


「クロノスの狩り犬。」


狩り犬。

首輪がなくても追ってくる。

匂いで追う。

糸で追う。


陸は息を吸った。

オルドへ向かう前に、もう追いつかれる。

ここで捕まれば終わりだ。

里に戻れば、里が太く追われる。


(どうする?)


その瞬間、リラが言った。


「囮を切る。」


陸が目を見開く。


「囮を……捨てるのか。」


リラの瞳が冷たい。

でも冷たいのは、決断を燃やすためだ。


「捨てない…」


「持たせる。」


「……誰に?」


陸が問うと、リラは一瞬だけ迷い、そして言った。


「私が持つ。」


陸の胸が締まった。

相棒が自分を囮にする。

嫌だ。

でも、理屈は分かる。

リラは追われ慣れている。

痕跡を撒くのが得意だ。

そして何より、陸を守るために自分を削るタイプだ。


陸が口を開く前に、ザインが言った。


「却下。」


短い。

即答。


リラが睨む。


「口出すな。」


「分類だ。」


「分類でも却下だ。」


ザインが言った。

金色の瞳が真っ直ぐ。

ふざけていない。

本気の目。


「お前が囮になったら…」


「坊主が折れる。」


「折れたら…」


「俺らは終わりだ。」


リラの瞳が揺れる。

一瞬だけ。

その言葉が刺さった。

リラは陸が折れるのを恐れている。

陸はリラが平気な顔して死ぬのを恐れている。

恐れが噛み合って、互いを縛る。


リラが唇を噛む。


「……じゃあ誰が?」


陸が息を吸った。

言うべきだ。

役割を固定するな。

交換しろ。

授業で学んだ。


陸は言った。


「俺が持つ。」


リラが即座に反応する。


「却下。」


同時にザインが言う。


「半分賛成。」


陸が眉をひそめる。


「どっちだよ?」


ザインが吐き捨てる。


「囮は必要だ。」

「だが…」

「お前一人じゃ持てねえ。」


リラが低く言う。


「……束ねる」


その一言で、三人の呼吸が揃った。

囮を一人が背負うのではない。

囮を“束ねて持つ”。

追跡に、誰が本物か分からせない。


リラが端末を掲げる。

囮の金属片を拾い上げる。

その黒い片が、甘い匂いを放っている。

扉の匂い。

跳躍者の匂い。


「これを…」


リラが言った。


「三つに分ける。」


「分ける?」


陸が問うと、リラは短く答える。


「書く。」


「物語を…」


彼女は金属片を石で叩き、三つに割った。

小さな欠片が、三つ。

それぞれが同じ匂いを持つ。

同じ“好物”。


「陸。」


リラが一つ渡す。


「薄くしろ!」


陸は欠片を受け取り、右腕へ意識を沈める。

欠片の匂いを、自分の匂いと重ねるのではない。

欠片そのものを、存在しないように薄くする。

追跡が嗅げる“強さ”だけを残し、位置情報だけを曖昧にする。


「ザイン。」


リラがもう一つ渡す。


「止めろ。」


ザインが受け取り、握り潰しそうになって手の力を抜く。

殴らない。

壊さない。

ただ、保持する。

必要な時に投げるために。


リラ自身も欠片を握った。

そして端末に指を走らせる。

追跡の糸が信じる順序。

森を抜ける影。

橋を渡った足跡。

谷へ落ちる霧。

その因果を並べ替え、三つの“本命”がそれぞれ別方向へ逃げたように書く。


「来る!」


リラが言った。


谷の向こうの音が近づく。

滑るような軽い足音。

金属が擦れる音。

ドローンではない。

もっと生き物みたいな機械。


「――投げる。」


リラが短く言った。


三人は同時に、欠片を投げた。

ただ投げるのではない。

束ねる。

陸は欠片の存在を薄くし、軌道を曖昧にする。

リラは物語で、欠片が“飛んだ先”を補強する。

ザインは投げる動作そのものを、正確に止める。

必要以上の力を使わない。

狙った地点へだけ落とす。


欠片は三方向へ散った。

谷の下。

森の奥。

岩場の陰。


その瞬間、空気がひゅっと冷えた。

何かが、匂いを嗅ぐ。

糸が、絡まる。

どれが本物か分からない。


遠くで、金属音が三つに分かれて反応した気がした。

追跡が迷う。

その迷いの隙が、数秒。

いや、十数秒。


「走る。」


リラが言った。


三人は橋を離れ、岩場の裏へ滑り込んだ。

森の影へ入る。

足音を殺す。

存在を薄くする。


陸の右腕が熱を持つ。

跳べる。

でも跳ばない。

今跳べば匂いが太くなる。

守る。

薄くする。


背後で、狩り犬の金属音が止まり、また動く。

迷った末に、一つの匂いへ飛びつく。

谷の下へ。

落ちた霧の方向。

リラの物語が、追跡の“納得”をそこへ流した。


「……効いた。」


陸が呟くと、リラが即座に言う。


「喋るな…」


その声に、ほんの少しだけ余裕が混じっていた。

勝ったわけじゃない。

でも、生き残る筋道を作れた。

それだけで十分だ。


森の中で、三人は呼吸を揃えたまま走った。

オルドへ向かう道はまだ遠い。

だが最初の刃は、避けた。

束ねて避けた。


陸は胸の奥で、静かに誓う。


(次は)

(俺たちが糸を握る)

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