3:《闇聖王・前編》
彼は……闇の王国ツァルガと呼ばれる国の王であり、「闇聖王」とよばれたトゥラース・トリスタン・ツァルガは、ただ静かに、その闇の中に立ちすくむ。血の気の薄い白い肌は、闇の中にあるためかさらに色を失い、肩の辺りで切りそろえられたまっすぐな黒髪は、すでに三十に近づこうという彼の年齢を、遥かに若く感じさせるが、それでも「大戦」という長く続く戦いにその身を置いていたためか、瞳には若さよりも多大な経験を積んだ、老成した色が浮かんでいる。
ふと、視線を足下に落としたのち、彼ははっとして自らの掌をみやった。先ほどまでなにもなかったはずなのに、その手にはいつの間にか一振りの剣が握りしめられ、剣の柄からそれを握りしめる手、そして白銀色の輝きを自ら発するような刃の部分が、真紅の血で汚れてしまってることに気がついたのだ。
変化したのは手だけではなく、彼が身につけていた衣装もすべて、彼が大戦の時に身につけていた、血に汚れたツァルガの戦闘衣となり、闇一色であった周辺は、倒れたツァルガの兵士達で埋め尽くされている。
それは、戦場の光景。長年の間彼が自らの身を置いた光景であった。
「あ……」
剣を握っていない方の掌で、 自らの顔を押さえるようにして呻けば、その掌に冷たい感触が伝わる。頬にも血がべったりと付いてしまっていたようだ。
「くっ」
唇を噛みしめたその時、不意に何かが彼の足を掴んだ。
視線を落とせば、一人の兵土が 彼にすがるように手を伸ばしている。
「陸下……トゥラース……様……」
荒い息で絶え絶えに紡がれた自らの名に、彼は悲しげに眉を顰め、その場に膝を折り、すでに生きる見込みのない兵士に手を伸ばす。だが次の瞬間、彼が伸ばした手を兵士が強いカで握り返し、その事に彼が訝しめば、目の前で兵士の姿が一人の女性の姿に変わっていく。
輝かしいはずの銀色の髪は血と泥にまみれ、唇は紅ではなく、血のために紅く潤い、生気に溢れていたはずの瞳は、すでに虚ろで……。女性はそんな姿で、彼を……闇聖王トゥラースを見上げる。
「トゥラース殿……苦しい……死にたくは、ない……」
女性はトゥラース王と共に戦った聖王の一人、水の王国の聖王……水聖王フィーユであったが、その名を呼べば彼女の姿が白く霞み、目を凝らしてみればその姿はまた別の聖王の姿へと変わり、再び彼の名を呼んで、助けてほしいと請うてくる。
「トゥラース殿、何故、貴方だけが、生き延びた?」
最後に、王達の中では最も親交の深かった時の王国の聖王……時聖王リングがその姿をして、額から血を流した姿で、恨めしげに彼を見やった。
「トゥラース殿、何故、我らと共に来てはくださらぬ? ほら、みな貴殿が来るのを心待ちにしているのだぞ?」
にぃっと、薄い笑みを浮かべて彼は立ち上がり、右手を彼の後方へと向ければ、そこに他の五人の聖王達が姿を表し、その全てがロ々にトゥラース王の名を呼んだ。
死んでしまったはずの聖王達が、ただ一人生き残った彼の名を呼ぶのだ。
「リング、フィーユ、エリル、ユーリシア、ジ ルグ、ファーン……」
一人一人の名を呼び返し、ふらふらと足を踏み出そうとするトゥラース。
しかし、そんな彼の脳裏に聖王達とはまた別の、彼の名を呼ぶ声がする。
「トゥラース」ではなく、彼のごく身近な者しか呼ぶことがない、「トリスタン」という名を。
「トリスタン!」
今まで脳裏にかすかに響くようだった声が、今度ははっきりと耳元で響き、トゥラース王はその声に導かれるように、く沈み込んだ意職をようやく浮上させ、重いまぶたを引き上げることに成功した。
「トリスタン……良かった。かなりうなされていたから、心配しちゃったよ……」
トゥラース王へと手を伸ばし、汗でべったりと類についた漆黒の髪を、細く長い指で後方へとすいてやりながら、彼をトリスタンと呼んだ人物が言葉通りに安堵の表情を浮かび上がらせて、にこりと笑う。
闇に溶け込んでしまいそうな漆黒の衣装と、長く伸ばした漆黒の髪、そして、月のない夜を思わせるような黒目がちの瞳を持つその人物は、トゥラース王のよく知る人物であった。
「あ……ダーク……?」
目の前で、優しげに髪をすいてくれる人物を見上げ、トゥラース王はその名を唇に乗せる。そうすることで、自らが今までいた場所とは、もう違うの場所にいるのだと確認するように。
「そうだよ、トリスタン」
にこりと、人なつっこい微笑みを浮かべたダークと呼ばれた人物は、トゥラース王が上半身を起こすのに手を貸し、横になっていたことで乱れてしまった彼の服装を整える。
「ダーク」とは、常にツァルガの王に付き従い、王にのみその忠誠を誓い、そして王のためにだけ存在する「暗殺者」であった。王のその身を、全ての災いから遠ざけるためにならば、どのようなこともしてのける存在と言ってもいい。
そんなダークを見やりながら、トゥラース王は短く息を吐き出して問う。
「どれぐらい、眠っていた? 仮眠で済ませるつもりだったが……」
「安心して。そんなには、眠っていないよ。……僕としては、もう少し眠っていてもらいたいところなんだけど」
汗を拭うために炎で温めててあった湯と布とを取りながら、言うダーク。
時刻は深夜。
トゥラース王は深く眠りこけてしまわないよう、あえて長椅子の上で横になっていたのだ。
「リングらが、私に助けを求めていた。何故、お前一人生き残ったのかと、こちらに来いと、手招きをしていた」
夢を見ていたのだと断ってから、そう告げれば、ダークはほんの少し眉間にしわを寄せて言う。
「聖王達は、そんな事を言う人達じゃないっていうのは、トリスタンが一番知っていることでしょ?」
「わかっている。あれは、本物じゃない。幻だ。悪夢だ」
額を湯でしめらせた布で拭えば、その下に見えたのは苦渋の色をあらわにした表情で、グークはふっと小さなため息をついて、自らの忠誠を誓う王の前に膝をつく。
「トリスタン……僕は、夢の中にまで君を守りにいけない事が、苦しいよ」
悲しげに言えば、トゥラース王がほんの少し目を丸くする。
「私は、そんなつもりで言ったのでは……」
「わかってるよ。でも君はもう、十分過ぎるほど苦しんだのに。何年も自分を捨てて戦いの中に身を投じてきたのに。……やっと、これで平和になると思ったのに。なのに、君はまた戦いの中にいる。また、苦しんでいる。だから、夢の中でまで苦しむことはないんだよ?」
「……大丈夫。その夢も、もう見ることはないだろう。今日が、最後だ」
校り出すような声でダークにそう答えた彼は、その場にゆっくリと立ち上がった。それにつられて、ダークがそっと、彼を見上げる。
「……そう、だね……」
小さく頷く彼は、それ以上口にできる言集がないといいたげに、口を噤んだ。
「そろそろ、準備を整えたほうが良いだろう。頼めるか?」
何の準備とは言わなくとも、その場で残された準備はただ一つしかなかった。
戦いの準備。
今、トゥラース王が治めるツァルガは、戦いの緊迫した空気の中にあった。すでに沢山の軍勢が、ツァルガ王城をぐるりと取り囲んでいるのだ。それは、今まで彼が……いや、彼らが沢山の機牲を出してまで戦ってきた「大戦」の時の敵ではない。その大戦の時代に共に戦ったはずの、他国の軍勢であった。
しかも、七つ存在する大陸の国々のうち、ツァルガを除く六つの王国全ての旗印を確認したと、彼の元に報告が届いている。
ツァルガを除く国々は、ただ一人だけ聖王が生き残り、大陸最強の軍事力を持っていたツァルガを、新たな敵と定めた。ツァルガが大陸の覇権を求めて動き出すことを恐れたために、まだ大戦の傷の癒えていない、弱体化しているうちに誠ぼしてしまう事を決めたのである。
初めは、トゥラース王のすぐ下の弟王子と、その双子の姉である王女が、彼らが持つ特異な力が民に不安を与えるという理由で、他国の人々により封印を施されてしまった。そのことで、ツァルガへの敵視は、収まったかのように見えていたのだが、実は水面下ではすでに軍事的侵略が……いや、ツァルカを崩壊させる計画が練られ、戦いの準備が着々と整えられていたのであった。
その事を知ったトゥラースは怒りとも悲しみともつかない表情を見せた後に、民に伝えた。
「この大地を出て、生き延びよ」
と。
長い間共に戦った者達と争う事にむなしさを感じ、これ以上の犠牲を出す事を拒んだトゥラース王は、兵士達を集め、その家族とともにツァルガの国外へと逃がすことを決めたのである。民達は末の妹王女であるティーナに率いらせ、その守護に二番目の弟王子「竜戦タージュタージェ」をつかせた。
そうして自分は最後までこの国を捨てることを拒んだ兵士達と共に王城に残り、総勢数万人という軍勢に、取り囲まれている。
きっと、夜明けとともにその軍勢は動き出すだろう。
一人だけ残った「聖王」を亡き者とするために。そして、ツァルガの王家を減ばすために。
「タージュ達は、無事だろうか……」
沢山の民達を逃したのは、つい最近の事。だが、そんな彼らにも他国の軍勢が襲い掛かるのは目に見えていた。
だからこそ。
大陸最後の竜の力を引き継いだ弟、竜戦士タージュタージェを守護につけさせたのだ。なんとか敵をかいくぐり、国を越えることができたならば、トゥラース王の定めた、信頼のおける数十名の勇士を頭として、民達は小さな巣団となって、この大陸の全土に散っていく手はずである。そして妹ティーナには、そんな民達を守るため、あえて所在を明らかにしながら、大陸を彷徨うようにと告げてある。
「ティーナには、辛い役目を負わせてしまった」
後悔することがあるとすれば、最愛の末の妹に苦難の道をゆくことを強いてしまったことだった。
「王家は……我が国は滅びを迎えるのだろうな……」
ぼんやりと、どこを見つめるともなく言ったトゥラースの言葉に、ダークが顔を上げる。
「……ここまでは、伝説の通りだよね。王家が滅びび、民達が散り散りとなる。でも……」
「そう。いつかは、「月」となる聖王が現れ、国は蘇る……。伝説の通りになればいいがな……」
国に伝わり、民の誰もが知るその伝説に、トゥラース王は思いを馳せるように瞳を閉じる。
「大丈夫。ティーナは無事に生き延びるだろうし、アルやロスの封印が解けることだってあるでしょ? タージュだっているし」
つとめて明るく言うダークであったが、その唇から、自分達の事がもれることはなかった。すでに、彼は彼の王から告げられているのだ。
「死を覚悟しておけ」
と。
「……日が昇れば、全てが動き出す。むなしく、意味のない戦いであれど、民達が無事に逃れるためにも、なるべく長くこちらにひき付けで置かねばなるまい。それに……」
そこまで言って、トゥラースはダークに向けて手を伸ばした。それを受けてダークは立ち上がり、彼の王へと、一振りの剣を差し出す。
神から授かった、聖王の証である剣。
それをトゥラース王は受け取り、鞘から引き抜いた。
「長き歴史を持つツァルガの王として、先祖達に恥じぬ戦いをせねばならん」
それを与えた神に祈るように、そして先祖たちに誓うように。彼は剣を上に向けて胸の前に引き寄せて言った。
それを見届けて、ダークも胸に手を当てていう。
「僕の命は、君の……王のためだけにある。僕は、最後まで王のためにだけ戦い、王のためにだけ死ぬんだ」
と。
「ダーク。私を恨むか? このような選択しかできなかった私を?」
剣を鞘に戻して間うてみれば、傍らのダークはトゥラース王の目の前へと移動し、その揚に膝をついて彼の手を取る。
「恨むなんて、とんでもない。いったでしょ? 「ダーク」は、王のためだけに生まれ、王のためだけに生き、王のためだけに死んでいく存在。王の意志は僕の意志。君が選んだ事に、僕が反対するはずなどない。僕は君の一部なのだから」
黒目がちな瞳でじっと王を見つめて言うダーク。トゥラースはそんな彼にぽつりとつぶやくように言った。
「ならば、共に死んでくれるか」
その言葉に、ダークはほんの少しも戸惑いを見せることなく、強いまなざしで言うのだ。
「ごめん。「共に」は逝けない。ダークは、最まで王を守っで戦うから。だから、僕は君より先に逝くんだよ。できることなら、君が「生き残れる道」を残して逝きたいのだけれど」
静かに瞳を閉じて、ロ元に自らの王の手を引き寄せ、唇でを触れる。
「僕は誓う。僕の生きている間は、君を死なせたりしない」
王を失った「ダーク」がどれほど惨めなのか、どれほどつらいものなのか、彼は嫌と言うほどに知っている。先代の「ダーク」は、彼の王を失った。そのために、王の後を追いたかったのだろうが、まだ後を引き継ぐべき息子である自分が若く、新しく王となったトゥラースも若かったために、逝くことを許されなかったのだ。
もし自分が王を、トゥラースを失ったのならばと考えるだけでも身震いを覚え、その都度必ず、「絶対に死なせない」と心に誓うのだ。それは長年続いた大戦の聞も、そして、今現在も同じであった。
戦いの準備を整えていくうちに、東の空がゆっくりと明るくなり始めた。
最後の「朝」が、こようとしていた。
*****
「陛下! 城壁が突破されるのも、時間の間題です!」
伝令のの兵士が、トゥラース王へとそう伝えたのは正午近くの事であった。朝方は天候がよく、太陽の光も届いていたのだが、いつの間にか空は暗雲に覆われ、時折ごろごろと雷の鳴る音が聞こえるようになっていた。
「わかった。今少しこらえよ、と伝えてくれ」
短く指示し、トウラース王はゆっくりと立ち上がると、自らの傍らに存在する近衛騎士隊長へと、顔を向ける。
「迎え撃つ」
一言、そう言えば、近衛騎士隊長は短い返事をして、その部屋から出ていく。先程の伝令兵もすでに退出してしまったため、広間にただ一人となったトゥラース王。
だが、静まり返ったその空間に、トゥラース王ではない人物の声が発せられた。
「出るんだね?J
と。ダークの声だ。長い長い歳月をかけて、ツァルガの王ただ一人に仕える事だけを糧に生きてきた「ダーク」は、普段は影に潜み、その姿を見せることはないが、声だけがそっとトゥラース王に届いたのだ。
「むろんだ」
そう告げ、 トゥラース王は手にした剣を抜き放ち、床へと切っ先を突き刺した後に、朗々とした声で言う。
「闇の幻獣王ツクヨミ!」
その瞬間に、色のない透き通った刃を持つ彼の剣が白銀色に輝き、その輝きが彼の目の前で一つの影を描い ていく。やがて輝きが消えると、先ほどまでの輝きを集めたかのような白銀色の輝かしい毛並みの、九つの尾を持つ狐の姿をした幻獣が姿を現した。
それが、闇聖王であるトゥラース王が神から授かった真のカであった。
聖王となった者は全て、自らと同じ属性の幻獣の王と契約を結び、その助力を得ることができるのだ。そして、神から授かった武器こそが、その幻獣の王との契約の証であった。
今、トゥラース王の目の前に現れた孤こそが、闇の属性を持つ幻獣達の王である、「ツクヨミ」であった。
『もっと、早く喚ばれると思っていたのだが?』
姿を現して早々にそんな悪態をついたツクヨミに、トゥラース王は苦笑して言う。
「大戦の終わった後にも、お前がカを貸してくれるとは思わなかったぞ」
『お前はただ一人、我の主なり。いつ何時でも、その声に応えよう』
「すまないな。また、力を借りるぞ」
そう言えば、ツクヨミは小さく領いて、自らの主たる王の足下へと歩み寄った。
トゥラース王はそんな彼の毛並みに一度触れ、その感触を確かめるように撫でた後、剣を鞘へと戻して歩き出す。
「いよいよだな……」
その呟きは、窓の外で激しく鳴った雷の音にかき消されたが、それでも傍らのツクヨミには聞き取れたようで、呼び出された幻獣王は一度だけ首を振った。人間でたとえるならば、まるでため息をつくような、そんな仕草であった。