// 012 - 山岳地帯
森を抜けてから、風の匂いが変わっていた。
湿りが抜け、乾いた石と埃の匂いが鼻に付く。足元は腐葉土ではない。砂利と所々剥き出しになった岩肌。踏むたびに、靴底が小さくなる。
ローフェン山岳地帯。
カガンは外套の襟を指で引き上げ、細く息を吐いた。山風は冷たい。平地の大森林の空気とは違い、肺の奥まで真っ直ぐ入ってくる。
前を歩く男の背を見ながら、カガンは鼻を鳴らした。
スタンは黙って歩いている。臙脂の髪が背中で揺れ、鎧の隙間が朝の光を鈍く返していた。相変わらず、馬鹿みたいに真っ直ぐな背中だ。
視線を横に流し、死角を埋めるように見据える。
道は細かった。山肌を削って作られたような、頼りない道だ。片側は岩壁、もう片側は底なしの崖。覗き込めば、濃霧の底へと落ちて見えなくなる。石が一つ転がれば、もう戻ってこない高さだった。
風が吹くたび、砂利が足元で細く鳴る。
遠くでは、岩肌を伝う水の音がしていた。細い滝だ。だが、姿は見えない。山の影の奥で、ただ音だけが落ちている。
カガンは無意識に、岩陰を数えた。
人が潜める窪み。弓を置く場所。待ち伏せに向く曲がり角。
山道は、そういう形をしている。つまり、襲う側にとって都合が良い。
思考するのにも飽きた頃。前を歩くスタンの背が、不意に止まった。
鎧の鳴る音が、山道の静けさの中で小さく途切れた。
カガンは眉を動かし、ゆっくり視線を上げる。
道の先に、何かがあった。最初は岩だと思った。だが、形が違う。
輪郭が歪んでいる。木の枠が見えた。裂けた布が、風に揺れている。それは馬車だった。道の真ん中で、横倒しになっている。車輪が一つ外れ、荷台の板は割れていた。箱がいくつも地面に散らばり、中身は殆ど抜き取られている。麻袋は切り裂かれていた。荷台の覆いが、風に煽られてぱたぱたと鳴る。
荒らされた痕跡。
そして、その手前に――人が倒れていた。道の砂利の上に、力なく転がっている。どの顔にも、死ぬ直前の恐怖が張りついていた。切り落とされた腕は、山道の端へ投げ出されていた。血溜まりが広がっている。傾斜に沿った血が黒くなりかけ、砂利の隙間にゆっくり染みていた。
山風が吹く。裂けた布が揺れ、血の匂いが、微かに空気へ混じった。
カガンは、小さく鼻を鳴らした。
「――盗賊の襲撃か」
カガンがそう呟くより早く、スタンは動いていた。鎧が鳴る。砂利を蹴り上げ、横倒しの馬車へ駆け寄っていく。その行動に、迷いはない。倒れている人間を確かめるよりも先に、その手は荷台へと伸びた。生存者を探す仕草。
カガンは動かなかった。
視線だけをゆっくり巡らせる。
足跡。数は多い。山道の砂利が踏み荒らされ、跡が重なっている。靴底の形が揃っていない。商隊の護衛ではない。寄せ集めの連中だ。盗賊。荷台の布に矢が刺さっている。側板に二本。枠に深く食い込んでいる。
カガンはしゃがみ込み、砂利に染みた血を指先でなぞる。
まだ完全には乾いていない。
「フン……そう時間は経ってねぇな……」
呟きながら立ち上がる。スタンは既に馬車の扉をこじ開けていた。裂けた布が大きく揺れる。木の蝶番が軋み、扉が半ばもげるように開いた。中を注意深く覗き込んだその刹那――スタンの動きが止まった。
「生存者だ」
低い声だった。カガンは眉を動かす。
ゆっくりと歩み寄り、馬車の中を覗いた。そこには男がいた。座席に崩れ落ちるように倒れている。胸元は深く裂け、衣服は血で黒く固まり始めていた。顔は青白く、目は半ば開いたまま動かない。死んでいる。
だが――その腕は何かを抱き締めていた。
守るように。必死に。男の胸に顔を埋めるように、小さな身体がある。少女だった。年は十にも満たない。細い肩が、微かに上下している。生きている。
スタンは慎重に男の腕を外そうとした。
だが死後硬直が始まりかけている。
その腕は、まだ強く少女を抱え込んだままだった。
カガンは腕を組み、黙ってそれを見ていた。
そして視線が、少女の首元で止まる。衣の隙間から、細い鎖が覗いていた。その先に、小さな金属の飾り。円を歪めた意匠。角を思わせる刻印。
スタンの手が、僅かに止まった。
ほんの一瞬。だが、カガンはそれを見逃さなかった。
「おい、聖騎士様よ」
低い声だった。スタンは答えない。だが腕は動かない。少女を抱えたままの男の腕を外す手が、そこで止まっている。カガンの目が細くなる。
「まさかとは思うが――紋章一つで悩んでんのか」
砂利を踏みながら近づく。
その声に、スタンの顎が僅かに強張った。思わず、舌打ちを落とす。
「……反吐が出るぜ」
少女の顔を見る。血に汚れてはいるが、小さい。
まだ子どもだ。男の胸にしがみついたまま、浅く息をしている。
カガンの視線が、ほんの僅かだけ硬くなった。
「騎士様は良いご身分だよな。守るだの、誓いだの、覚悟だの、立派な言葉は幾らでも並べるクセに――助けるかどうかは、宗教で決めるときた」
山風が吹く。裂けた荷台の布がバタつき、血の匂いが僅かに濃くなる。
スタンは何も言わない。ただ、少女を抱えた男の腕を見つめていた。その腕はまだ固く少女を守っている。死んだ後ですら、離すまいとするように。
指先は血で固まり、爪の間に砂利が食い込んでいた。
最後まで抵抗したのだろう。胸の裂傷は深い。だが、男の身体は少女を覆うように前へ倒れていた。刃を受けたのは――自分の方だ。
「君には……分からないだろう。生まれ落ちたその日から、厄災の籠として生きてきた私が……どれほど魔王という概念を憎んでいるのか……」
スタンの声は低かった。
だが、その奥には、長い年月の澱のようなものが沈んでいた。
「魔王を崇拝する魔教徒は……異端だ」
「異端だろうが何だろうが、保護すべきガキであることに変わりはねぇ」
吐き捨てた言葉が、山風に攫われる。
裂けた荷台の布が揺れ、血の匂いが、僅かに濃くなる。
少女の髪が、男の胸の上で微かに揺れた。
「……大したもんだ。この親父は死んでも娘を守った」
誰に向けた言葉でもない。
だがその声には、僅かな敬意が混じっていた。
カガンは視線をスタンへ戻す。
「お前はどうする。紋章が違うから、見捨てるか?」
沈黙が落ちる。山風が再び吹いた。
少女の髪が、僅かに揺れる。
その瞬間だった。
スタンの手が、再び動く。死んだ男の腕を、ゆっくりと外す。硬直した指を一本ずつ解き、少女の身体を抱き上げる。鎧が微かに鳴った。血に濡れた顔がスタンの胸元へ傾く。呼吸は浅いが、確かに続いている。
スタンは一度だけ、少女の首元を見た。
魔教徒の紋章。
そして視線を上げ、カガンを見た。
赤い瞳が、真っ直ぐ向く。
「……子供は保護する」
それだけ言った。静かな声だった。
カガンは一瞬だけ目を細める。
「なら、最初からそうしろ。クソ聖騎士」
山風が、二人の間を抜けていった。
裂けた布が揺れ、血の匂いが、ゆっくりと薄れていく。
カガンはしゃがみ込み、死んだ男の瞼を閉じた。
「……ローフェンまでは、必ず守ってやる」
小さく呟き、カガンは立ち上がる。
スタンは少女を抱えたまま、山道の先を見ていた。
横倒しの馬車と、散らばった死体を背に、臙脂の髪が風に揺れる。
二人は、しばらく言葉を交わさなかった。
やがて山風がもう一度吹き、砂利が細く鳴る。
ローフェン公国へ続く道は、まだ長かった。




