// 010 - 師弟の絆
落ち葉が、まだ宙にあった。
湿った腐葉土の匂いが、夜気の底に沈んでいる。枝葉の隙間から溢れた月光が細い筋となって、森の地面を撫でていた。
三人の影が、その光の上で静かに重なっている。
葉が落ちる。その前に、三つの刃が動いた。
最初に踏み込んだのは、スタンだった。腐葉土が、鈍く沈む。踏み込みは真っ直ぐだった。王国騎士団で叩き込まれた、無駄のない正面の剣。足の裏が土を押し、膝が僅かに沈み、身体の重みが刃へ伝わる。剣が伸びる。刺突。一直線。月光が鋼の縁を滑り、細い光の線が老騎士の胸へ走った。
その同時刻。もう一つの影が動く。
カガンだった。足音はほとんどない。
踏み込むというより、滑るような移動だった。重心を低く落とし、靴底が腐葉土を掠める。落ち葉が一枚、僅かに揺れるだけだ。
カガンの剣は、低かった。
構えは高くない。振り上げもしない。月光の下で、刃は地面すれすれを滑るように走る。狙いは胸でも首でもない。膝。動きを奪う斬撃だった。
正面と側面。
二つの刃が、同時に老騎士へ迫る。
だが。ガラクは、動かなかった。ほんの一瞬。老騎士の視線がスタンへ落ちる。次の瞬間――地面が沈んだ。踏み込み。一直線。腐葉土が弾ける。落ち葉が跳ねる。老騎士の身体が、矢のように前へ走った。
鋼が瞬く。甲高い衝突音が森を裂いた。
スタンの剣とガラクの刃が噛み合う。火花が弾け、重い衝撃が腕へ叩き込まれる。スタンの足が半歩沈む。金属音が、重い。
だが老騎士の剣は、止まらない。
受けた瞬間、すでに次が訪れている。刃が滑る。返し。横薙ぎ。更に突き。鋼が鳴る。火花が散る。スタンの剣がそれを受け止める。受け続ける。足が沈む。腐葉土が軋む。だが、後退はしない。
その間に、カガンの刃が、空を切った。
そこにはもう、ガラクがいない。老騎士は、スタンの懐へ入っていた。距離が潰れている。近い。近すぎる。剣を振る距離ではない。肘が届く距離だ。ガラクの刃が、短く走る。突き。喉元。鋼が月光を裂いた。
スタンの剣が跳ね上がる。甲高い音。刃が噛み合う。衝撃が腕を揺らす。
だが、老騎士の剣は止まることを知らない。突きの軌道が引き戻される。刃が半円を描く。返し。斬り上げ。更に横。
流れる。止まらない。
剣が振られた瞬間、次の軌道が既にそこにある。鋼が鳴る。火花が散る。腐葉土が沈む。スタンは受ける。だが、ほんの僅かずつ押されている。
その差を、カガンは見ていた。
数歩離れた場所で、動かずに。白髪が夜気に揺れる。視線は剣ではなく、老騎士の足元に落ちていた。踏み込みの癖。重心の沈み。刃の戻し方。
すべてを見ている。そして理解する。
――老騎士は、二人を相手にしていない。
スタンだけを見ている。
カガンを戦いの外へ押し出す位置へ動き、一直線の戦いに変えている。
つまり――二対一ではない。ただの、一対一だ。
「……へえ」
カガンは小さく息を吐いた。
低い声が夜気に落ちる。
その瞬間、スタンの剣が弾かれた。
刃が逸れる。空いた懐へ、老騎士の切っ先が滑り込んだ。突き。腹。スタンの身体が反射で捻られる。刃が鎧を叩く。鈍い衝撃が腹へ落ちる。
呼吸が一瞬、止まる。
そして。次の刃が、もう動いている。
カガンは肩を竦めた。
「おい、聖騎士」
軽い声が、戦闘の隙間へ落ちる。
鋼が鳴る。スタンの剣が受ける。
その合間に、カガンは言った。
「挟むな。コイツは――そういう相手じゃねぇ」
スタンの目が、ほんの一瞬だけ動く。
カガンが踏み込む。今度は横ではない。
スタンの背後へ。二人が、一直線に並ぶ。
その刹那――老騎士の口元が、ほんの僅かだけ歪んだ。
まるで、それを最初から、待っていたかのようだった。ガラクの剣が静かに持ち上がる。月光が、鋼の縁を細く走った。
そして、老騎士の足が、再び沈む。
次の瞬間――森の空気が、裂けた。
踏み込み。ガラクの身体が前へ走る。
一直線。老騎士の剣が、低く唸った。突き。喉元。鋼が月光を裂く。狙いは変わらない。最短。最速。迷いのない一撃。
スタンの剣が跳ね上がる。
甲高い衝突音。刃が噛み合う。衝撃が腕へ叩き込まれた。腐葉土が沈む。足裏が軋む。だがスタンは下がらない。剣を押し返す。
その瞬間。もう一つの鋼が走った。
カガンだ。低い。地面すれすれを滑る刃。老騎士の脇腹へ伸びる。
だがガラクは見ない。視線はスタンから逸れない。
老騎士の足が半歩動く。それだけで、軌道がずれる。カガンの刃が空を切りその代わりに――ガラクの肘が、短く振られた。鈍い衝撃。
カガンの身体が半歩流れる。
崩されている。ほんの一瞬。だが、その瞬間を老騎士は逃さない。剣先が横一文字に走る。スタンの剣が凌ぐ。金属音が鳴る。火花が瞬く。
さらに突き。さらに返し。
流れる。勢いは止まらない。
スタンは受ける。受け続ける。
だが――ほんの僅か。ほんの僅かずつ。押し返している。
老騎士の目が、細くなる。
スタンの足が沈む。踏み込み。今度はスタンだった。刃が伸びる。突き。ガラクの剣が軽く流す。だが、その軌道は僅かに外れる。老騎士の視線が、初めて動いた。カガンがいた。背後。一直線。カガンが、低く笑う。
「……見えただろ?」
刃が走る。ガラクの肩が、僅かに捻れる。
その一瞬。老騎士の重心が、ほんの僅か浮いた。ほんの、指一本ほど。だがスタンは見逃さない。踏み込み、刃を滑り込ませる。老騎士の剣が遅れ、鋼が擦れる。甲高い音。そして――静寂。
スタンの剣が、止まっていた。
老騎士の喉元。鋼の切っ先が、月光を受けて静かに光る。
ガラクは動かない。
ほんの僅かでも動けば、刃が皮膚を裂く距離だった。
森が、静かになる。
落ち葉が一枚、遅れて地面に落ちた。老騎士の視線が、ゆっくりとスタンへ上がる。そして――ほんの僅かに、口元が歪んだ。
「……儂の剣を超えたか。だが、それでもお前は間違っている」
低い声だった。
スタンの呼吸が、深く落ちる。
剣は動かない。微動だにしない。だが声は、静かだった。
「それでも、私は進まねばなりません。彼と共に」
言葉が消える。
森は静まり返っていた。遠くで夜鳥が一度だけ鳴く。だがそれも、すぐ闇に溶ける。枝葉の隙間から落ちた月光が、三本の剣の上で白く揺れていた。
誰も動かない。
その静寂の中で、ガラクはゆっくりと目を閉じた。
そして、微かに息を吐いた。
「……ならば行け。ただのスタンよ……」
スタンの剣先が、僅かに震える。
鋼が喉元から離れた。ガラクは振り返らない。ただ、腰の剣をゆっくりと鞘へ収めた。刃が鞘の内壁を擦り、低い金属音が夜の森に溶けていく。
その背は、もう戦場のものではなかった。
老いた騎士の背だった。数歩、歩く。
腐葉土が柔らかく沈み、落ち葉が足元で小さく鳴る。
カガンは、その横顔を見ていた。
老騎士の顔は、無表情だった。だが――ほんの一瞬。その瞳が、揺れた。剣を振るう者の目ではない。長い旅の終わりを見送る者の目だった。
何かを言いかけて、やめる。
喉の奥で、言葉が消える。
カガンは、軽口を叩かなかった。
代わりに、小さく息を吐く。そして、自分の剣を鞘へ収めた。鋼が静かに沈む音が、森の静寂に溶けていく。
その間に、ガラクはさらに歩く。
振り返らない。ただ、背だけが遠ざかる。
スタンは、その背を見ていた。長い時間をかけて築かれたものが、今、静かに離れていく。それを止めることは、もう出来ない。
「……養父上。どうか……お元気で」
声は低く、静かだった。
だが、夜の森にはっきりと残った。
ガラクは、足を止めない。
ただ――ほんの僅かだけ。肩が、揺れた。
そして老騎士の背は、そのまま森の闇の中へ溶けていった。




