リゼリアの覚悟
入学試験当日。
リゼリアの目に映る帝都の朝は、生まれ育った村のものとはまるで違っていた。
空気はひどく乾いていて、肌に触れると硬いと感じるほどだ。
慌ただしく行き交う人々の流れは、村では決して感じたことのない、せわしない時間の速さを生み出していた。
「ユリア。早く起きて。」
親友であるユリアの肩を軽く揺らし、食卓に朝食を並べた。
今日は、探窟家教育機関の入学試験の日だ。
大切な日だからこそ、いつものように気を配る。
「今日は、ちゃんと力を出さないといけないんだから、しっかり食べてね」
「うん…ありがと…」
ユリアは近接戦の試験を受ける。そして私は、魔法職の試験に臨む。
「リゼに置いてかれないように頑張らないとね。」
ようやく目を覚ましたユリアが、いつもの屈託のない笑顔でそう言った。その声には、ほんの少しの眠気と、それ以上の前向きな力が宿っている。
ユリアは、動きに支障がない程度に朝食を済ませると、すぐに外へ出る準備を始めた。
道中も、彼女は試験の準備に余念がない。今回の試験内容が書かれた用紙を、まるで穴が開くほど真剣に見つめている。その集中力には、いつも感心させられる。
「ユリアなら心配ないわ。師匠にだって勝っちゃうくらいだもの。」
「うん。でも、きっともっと強くならないと、置いてかれちゃうからね。」
誰に、という言葉を口にしなくても、その笑顔を見れば想像がつく。
もうすぐ6年の月日が経とうとしているのに、ユリアの笑顔は以前にも増して輝きを放つ。その光が、リゼリアの胸に小さな痛みをもたらした。理由のわからない、もどかしさのような感情が胸の奥で波紋のように広がる。
気づけば、そっと胸元に添えた手には、わずかに汗がにじんでいた。これは、緊張とは少し違う。もっと曖昧で、言葉にできないまま、ただ体温だけを残すような感覚――それが、胸の奥でふわりと浮いたり沈んだりを繰り返していた。
再び歩き出すと、石畳を踏む靴底の音が、やけに大きく響いた。まるで、周囲の音がすべて遠のき、自分の世界だけが過敏に膨れ上がっているかのようだ。その感覚に、私は少しだけ戸惑いを覚えた。
ユリアは、私の少し前を歩いている。その背筋はまっすぐで、歩幅はいつもよりわずかに大きい。勇気を奮い立たせている時の、彼女特有の歩き方。
ただ、その肩先には、小さな疲労の名残が、微かに沈んでいるように見えた。
今日、この帝都にザインがいる。
それは、帝都中に広まる噂話として、そこかしこで耳にする情報だった。
『メフェリム家の三男が受験する』
という内容のその噂は、「100年に一度の天才魔法使いが魔法学園を辞めて受験する」という一大事件以上の広がりを見せていた。
そのメフェリム家の三男が、ユリアが何度も口にするザインであることは、間違いなかった。この噂を聞いた時から、リゼリアの心はざわめき、その感情は終始彼女を悩ませていた。
ユリアは彼に会えることを喜ぶのだろうか。それとも、緊張するのだろうか。いや、違う。私が本当に恐れているのは、ユリアが彼の前で、私といる時とはまるで違う顔を見せることだった。その考えが、私の胸を締め付ける。
ユリアは前を向き、私はその少し後ろから静かに並んで歩いた。風が吹き抜け、ユリアの淡い髪が揺れて、そっと頬にかかる。それを彼女が指で整える仕草――その小さな動きさえも、妙に私の心に強く印象に残った。
「……大丈夫?」
思わず、そう呼びかけてしまった。声に出した瞬間、少し後悔の念がよぎる。護るようなリゼリアの声音は、もう過保護なのではないかと自覚しつつも、どうしても抑えきれなかった。
ユリアは振り返り、いつもの調子で優しく笑った。
「うん。行こ、リゼ。」
そう言って、彼女はまた前を向いて歩き出す。
言葉だけを見れば、本当に何でもない返事だ。
けれど、その笑顔には、不思議な“強さ”が混じっていた。それは、揺らいだまま立ち止まる弱さではなく、揺れを抱えながらも、それでも前に進もうとする強い意志を物語っていた。
胸の奥の微かなざわめきが、また別の形へと変わっていく。これは嫉妬ではない。羨望とも違う。もっと静かで、もっと深い――。言葉では表現しがたい感情が、私の心を支配していく。
ユリアは、いつもそうだ。彼女は圧倒的な強さを持っているのに、それを力として誇ることがない。だからこそ、誰よりも強く輝いてしまうのだろう。
その光に、私はこれまで何度も救われてきた。
学院へ続く道は、緩やかな上り坂になっている。
一歩一歩登るたびに、視界が広がり、街の喧騒が下の方へと遠のいてゆく。胸の中にある不明瞭な感情も、坂を上がるごとに少しずつその輪郭を変えていくのを感じた。
影が重なっても、ユリアの輪郭は私のものより濃く、くっきりとしていた。私の影はいつも、彼女の影に呑み込まれる側だった。それが、何か象徴的な意味を持っているような気がして、思わず歩みを少しだけ緩める。
その影を見つめたまま、私は小さく息を吐いた。
――私、どうしたんだろう。
こんなにも心が忙しい日は、今まで経験したことがなかった。様々な感情が、私の精神の表層をなぞるように広がり、薄い波紋を残していく。その波紋は、静かに、しかし確かに広がっている。けれど、決して消えることはない。
入学試験を前にした緊張とも違う。不安とも違う。ただ私の内側の、何かが少しずつ形を変えている――その予感だけが、はっきりと確かだった。
学院の門が見えてきた頃、ユリアがふと立ち止まった。
「ねえ、リゼ。」
振り向く彼女の瞳は、風に揺れる光を映していた。その表情は決意に満ちていた。
「一緒に頑張ろうね。」
その言葉は、まるで何でもない約束のようでありながら、私の心にはどこまでも大きく響き、深く震えさせた。
「……うん。」
答えを返すと、胸のざわめきがようやく落ち着いた。その代わりに、温かい何かがゆっくりと、私の心を満たしていくのを感じた。
そして、リゼリアは気づく。
私を揺さぶっていたのは不安でも嫉妬でもなく――ユリアがまたひとつ“遠くへ行ってしまうのではないか”という、淡い焦りだったのだと。
彼女は強い。前を向くたびに、誰も追いつけないような速度で歩き出してしまう。そんなふうに感じる瞬間が、確かにこれまで何度もあった。
でも、それでいい。私は彼女の横にいられるように、私自身の足で、ただひたすらに歩けばいい。
そう思ったら、不思議と呼吸が軽くなった。
門の向こうに、学院の広大な敷地が広がっている。すでに多くの受験者が集まっていて、そのざわめきが空へと昇っていた。
今日、この場所で何が始まるのか。どんな未来が私たちを待っているのか。まだ何もわからない。けれど、私たちはこの門をくぐるために、ずっと歩いてきたのだ。
ユリアが一歩、踏み出す。
リゼリアも、その背中を追うように続いた。
ここから始まるのだ。私たちの未来の、まさに真正面の入り口が。
このあと、リゼリアは魔法職専門の試験会場へ。ユリアは体術を主体とする会場へと向かう。互いがしばらくの間離れるのは本当に久しぶりで、変な緊張の汗が再び私の手を湿らせた。
ユリアの背が人混みに溶けていった瞬間、リゼリアの胸の奥で、一つ何かが外れるような音がした気がした。
それは決して軽いものではなかった。落ち着いた呼吸の底に沈んでいた“何か”が、さらに一段深い場所へと沈んでいくような感覚。その何かが沈むたびに、私の心にまとわりついていた様々な音が、一つ、また一つと消えていくようだった。
――こんなに静かだっただろうか、この街は。
初めて来た帝都の通りは、確かに喧騒に満ちていた。大きな建物、急ぎ足で通り過ぎる人々、露店の呼び声。しかし、ユリアと一緒に歩いていた道は、もっと明るかったように思う。彼女が笑えば、その声に重なるように風が吹き、まるで道の石畳まで輝きを帯びたかのような、そんな錯覚を覚えたものだ。
今は違う。
リゼリアは、その瞬間初めて知ったのだ。同じ場所に立っていても、隣に誰がいるかで、世界はまるで色を変えてしまうのだということを。
「……ユリア」
思わず、口の中でその名を転がす。少しだけ、痛みが伴った。胸の奥が、きゅ、と縮むような感覚だった。
幼い頃にユリアと森で迷ったことがあった。手をつないでいたのに、私がつまずいた拍子に手が離れ、気づけば泣きそうになっていた。あの時、泣きそうになったのは、怪我をしたからではなかった。――彼女がそばにいなかったからだ。
今の感覚は、あの時のそれに近い。ただ、あの頃よりもずっと深く、ずっと静かに、心の奥の深い層を撫でていく痛みだった。
少し歩みを止め、細く息を吐いた。
「落ち着いて、リゼリア。試験に遅れるわけにはいかないでしょう?」
自分に言い聞かせる言葉が、思いのほか弱々しく響いた。けれど、歩き出さなければならない。ユリアがいない空気は、不安と寂しさを呼び寄せてくるけれど、それに飲まれるわけにはいかない。
帝都の通りは広い。けれど、その広さが余計に無音を強調しているように感じた。人の声は聞こえる。靴音も聞こえる。なのに、私の世界の中心にあったユリアという存在が離れただけで、聞こえてくる音のすべてが、どこか薄い膜の奥から響いてくるように感じるのだ。
そんな時、風がひとつ吹いた。
髪を揺らし、外気の冷たさをリゼリアの頬に残す。私は何となしに顔を上げ、それを追うように視線を向け――そして、息を止めた。
彼がいた。
白い髪が、風の揺れの軌跡をなぞるようにふわりと浮いた。褐色の肌。静謐でありながら、何かを圧倒的に見下ろすような銀色の瞳。彼はただ歩いているだけなのに、周囲の空気の密度が変わってしまったような、尋常ではない存在感を放っていた。
”「ザイン様ってね、髪が雪より白くて」”
”「目が銀色で、吸い込まれそうで」”
”「声が低くて、優しくて」”
ユリアは、その姿を語るとき、いつも目を輝かせた。
何度、何百回と、彼の名を聞いただろう。そのたびに、胸の奥がチクッと痛んだ。なぜ痛むのか、今も私には分からない。ただ一つだけ確かなのは――ユリアが彼の名を呼ぶときと、私の名を呼ぶときとでは、声の色が違うのだ。その違いに、私はどうしようもなく耐えられない。
私の足は止まり、それどころか胸の奥まで、まるで心臓の拍動のリズムすら変えてしまうような衝撃が走った。
どうして、そんなに気になるのだろう。どうして、胸がざわつくのだろう。
理由はすぐには分からなかった。ただ、一つだけ確かなことがあった。ユリアが憧れた人が、まさにそこにいたのだ。その事実が、リゼリアの心のどこかをひどく揺さぶった。
――行かなければ。
そう思うよりも早く、リゼリアの体が動いた。
理由なんて曖昧だった。「ユリアのため」と考えれば、それは正しいはずだった。でも、その心の奥には、別の色をした感情が、わずかに差し込んでくるのを感じた。
その感情に名前をつけないまま、ただ静かに歩みを進めた。
人混みの流れの中、ただ一人、周囲の空気の質を変えたまま歩いている。その背中に、私は知らず知らず視線を吸い寄せられていった。
まるで、彼だけが違う世界に属しているかのようだった。同じ石畳の上に立っているのに、彼の輪郭の線が、あまりにもなめらかすぎるのだ。白い髪が風に揺れるたび、その存在がこの場で”唯一の非現実”だと告げてくるような、そんな錯覚に陥った。
こんな人物を、ユリアは見ていたのか。
――ユリアは、この人を、どう思ったのだろう。
その疑問が、また胸を掻きむしるような感覚をもたらす。ユリアを救ってくれた人間に、なぜこうも不快な感情を抱いてしまうのだろう。敬意も感謝もあるというのに、それ以上の言葉にできない感覚が、彼女の胸をひどくかき乱す。リゼリアは、一つの呼吸を整え、意を決した。
「……メフェリム家のザイン様……で、間違いありませんでしょうか」
自分でも驚くほど静かで、かすかに震えていた。けれど、それ以上に――その声が彼に届いた瞬間の空気の変化。それは、私の胸に息苦しさを覚えるほど圧倒的だった。振り返った暗く闇を帯びたようなグレーの瞳にリゼリアが映った瞬間、私の本能が告げる。
危険だと。
しかし、その感覚はリゼリアの意図する危険ではない。もっと別の何か。それはほんの一瞬だけリゼリアの脳内を鮮烈に照らすが、すぐに消えてしまう。
「何か、ご用で?」
口調は穏やかで丁寧だった。低く、静かな声。道端で声をかけただけの通行人に対しても、これほど丁寧な言葉遣いをする貴族は稀だ。それも、帝国のNo.2ともなる家であればなおのことである。
「失礼いたします。私、リゼリアと申します。ラグレイ村で、以前、村で……救っていただいたことについて、お礼を申し上げたくて」
リゼリアは決して初対面の人物との会話が苦手なわけではない。それどころか、村を訪れる人とのやり取りや、今回の受験のための移動、帝都での必要な会話は、常にリゼリアが行ってきた。にもかかわらず、リゼリアの言葉は詰まった。その理由が、自身の村の領主であり、帝国貴族に話しかけることに対する恐怖ではないということだけが確かだった。
「6年前――ラグレイ……」
「必要ない」
村の名前と再度のお礼を告げようとしたリゼリアを制止するように、彼の声が響いた。
「その村での出来事は公式記録がない。であれば、正式な礼も必要ない」
「で、ですが、ユリ……村の者からも、助けていただいたと」
「……そうか。なら、礼だけは受け取ろう。それだけか?」
それだけ?その言葉をリゼリアの頭が理解するのに、1秒以上かかった。
通常の感覚であれば、6年前の魔獣騒動など、広大な領地を誇る貴族からすれば、大小含めれば年平均10件ほどは起きる災害だ。
そして、当時8歳のザインが解決できる程度の魔獣であれば、一般的には大したことのない魔獣だったはずである。
そのことを正しく理解できていれば、ザインの反応に違和感を感じることはなかっただろう。しかし、リゼリアからすれば、最も大切な友人の人生を変えた出会いを「それだけか?」の一言で片付けられたことで、彼女の中の何かが弾けた。
「は、い。……いえ、それ、だけ。でしょうか?」
その言葉を口にするリゼリアの瞳に、わずかに光が灯った。それは、強い決意を秘めた光となり、今まで冷淡であったザインの瞳に、かすかな揺らぎを与えた。
「気に障ったのであれば、謝意を述べよう。ルミエル村の件は覚えている。私も初の仕事だったしな」
続けて、ザインはリゼリアに向き直る。
「しかし、6年も前の話だ。鮮明には覚えていない。必要のない情報は極力覚えないようにしているのもある。しかし――」
その後のザインの言葉を遮り、リゼリアは叫んだ。
「忘れていいわけがない! ユリアは、必死で! あなたに追いつこうとしているのに!」
その激昂に、冷静だったザインの表情に明らかな驚きが浮かんだ。
「死ぬか、生きるか、ほんの紙一重のところまで追い詰められて……あなたが来なければ、ユリアは……あの子はもう――!」
はじき出された言葉は、もうすでにリゼリア自身にも止めることができない。どうして思い出せないのだろう。あんなに必死に、幼く力もないのに血まみれになっても誰かを守ろうとした彼女のことを。
声は震え、喉は熱くなる。視界の端が滲んでいくが、涙はこぼれない。胸の奥の痛みが原因か、瞳に熱を帯びる感覚から、さらに視界は鮮明さを失う。
「そんな、彼女を!それだけの一言であなたは!」
そんな言葉をユリアに聞かれれば、彼女の今までの思いが否定されてしまう。その一心で、リゼリアの言葉は止まらなかった。
「あなたは、ユリアの憧れで、認められたくて、見て欲しくてここまで来たのに!」
――ああ、違う。
「――あなたには、彼女を渡しません。決して!」
言ってしまった。
その瞬間、自分でもはっきりと理解した。私が守りたいのは、ユリアの想いではない。ユリアそのものだ。ザインの表情が、ほんの一瞬――揺れた。驚きではない。もっと深く、もっと複雑な何か。しかし次の瞬間には、それは消えていた。彼は何も言わず、ただ静かに立っていた。
「大変出過ぎたことであるのは、理解しております。お時間をとってしまい申し訳ございませんでした」
そう一方的に頭を下げると、リゼリアは踵を返し、試験会場へまっすぐ歩みを進めた。その一瞬だけ見えた彼の表情には、怒りは微塵もないように思えた。軽蔑も評価もない。ただ、リゼリアの言葉を受け止め、理解を示すような。しかし、そんなザインの思いも、今のリゼリアの視界には入らない。
歩み始めた瞬間、急速にリゼリアの思考は熱を失っていく。嵐のように溢れ出た感情は、一斉にリゼリアの元から去っていき、いつものリゼリアの思考が戻ってきた。
――何を、やってしまった。
貴族の、しかも帝国で第二位の地位を持つ自身の生まれ育った領主の息子。感情のまま言葉をぶつけていいはずがない。現に、視界の隅に捉えていた緑髪の少女の目は、驚きに満ち溢れていた。
――どうして、どうして抑えきれなかった?
今からでも、振り向き、謝罪をすべきである。どんなに、感情のおかしな人物だと思われても構わない。今後のユリアのことを考えれば、村のことを考えれば、リゼリアの評価がどうなろうと、そうすべきである。羞恥と後悔と怒りの感情が混濁する脳は、再び戻り謝罪することが正しいと理解している。しかし、リゼリアの足は止まらない。その根底には、
――ユリアを軽く扱われたようで、許せない。
それだけだった。それだけのことでも、リゼリアは自身の感情を制御しきれなかった。歩みを進めながらも胸に拳を当て、深呼吸を行うが、一向に鼓動は落ち着かない。
「(ごめんね、ユリア。……私は勝手に、あなたを…守ろうと。)」
いや、違う。守りたかったのは、ユリアじゃない。ユリアと私の――この関係だ。彼女が誰かを見上げる前の、私だけを見てくれていた時間。彼女が誰かの名を呼ぶ前の、私の名だけを呼んでくれていた日々。
――私は、何を守ろうとしているんだろう。
ユリアの夢?ユリアの想い?
違う。ユリアそのものを、誰にも渡したくないだけだ。この感情が、友情なのかどうか――考えたくなかった。でも、後悔はなかった。




