いざ帝都
第二章 第一話
森番として2年の期間を共にした二人。
ようやく、成人を迎え帝都へと赴く。
一人の男性が御者として運転する馬車の中では、帝都へと向かう道中で一組の男女が静かに会話を交わしていた。
ただの移動手段に過ぎない馬車だが、貴族に雇われる御者は、皆その道の一流ばかりだ。
彼らは、たとえ車内で密やかな、あるいは重要な会話が繰り広げられたとしても、決してその内容を外部に漏らすことはない。
顧客の秘密を厳守するという揺るぎない信頼こそが、彼らが次に高額な依頼へと繋げるための、最も重要な資産なのである。ましてや今回は、帝国の序列で第二位を誇る大貴族、メフェリム家の若き当主であるザインの息子、ザイン・メフェリムからの依頼を受けている。
その身分からして、どんな些細な情報であっても、それが外に漏れることは許されないという、御者のプロ意識は極限まで高まっていた。
彼の背筋は常にまっすぐに伸び、視線は前方の一点に集中し、背後で交わされる会話の音を決して意識している様子はなかった。それは、長年の経験が培った、一流の御者としての矜持を示すものだった。
「まさか、一人の父親を説得し切るために、これほどまでに長い、一年近い時間を使うことになるとは……」
ザインは、馬車の窓から流れる緑豊かな森の景色を眺めながら、思わずそう呟いた。
その言葉には、途方もない努力と、何度も挫折しかけた苦労が滲み出ていた。過去一年間の記憶が鮮やかに蘇る。エルドア元へ足繁く通い、リリシアの父親であるエルドアを説得し続ける日々は、まるで終わりのない試練のようだった。
「本当にごめんね。うちの父さん、過保護だから。」
リリシアは、少し申し訳なさそうに、しかしどこか晴れやかな表情だ。
彼女の言葉には、父親への深い理解と、その父の愛情ゆえの葛藤を乗り越えた安堵が込められていた。
ゴトゴトと規則的な音を立てて、馬車はゆるやかに揺れながら進む。
「最後は血涙を出しそうになりながら、渋々といった感じだったが、これも女神の権能なのか?」
「うーん。違うと思うけどなぁ。」
この一年という歳月は、ザインにリリシア・アーデという少女と、その家族、そして森番として深く関わりながら過ごす中で、彼女の持つ特異な能力を研究し、その本質を解き明かそうと試みる日々でもあった。しかし、どれほど時間を費やし、様々な角度から検証を重ねても、目覚ましい進歩や具体的な成果を得るには至らなかったのが現実だ。
その能力が一体何であり、どのように作用するのか、その全容は未だ深い霧に包まれたままだった。だが、ひとつだけ明確になったことがある。
それは、リリシア自身の天真爛漫で人を惹きつける気質が相まって、彼女が多くの人々に自然と好意を抱かせ、親しまれやすい存在であることは、この一年間の共同生活の中で疑いようもなく実証されたと言えるだろう。
彼女の周りにはいつも温かい空気が流れ、人々は彼女の明るさに癒され、自然と笑顔になっていた。
「それでも、最終的に父さんを説得できたんだから、やっぱり凄いじゃん。」
リリシアは純粋な尊敬の眼差しでザインを見つめ、彼の努力を心から称賛した。彼女の真っ直ぐな言葉は、ザインが感じていた疲労感をわずかながら和らげる。
「いや、まぁ、それは……俺というか。」
ザインは少し渋そうに言葉を濁した。それは、彼自身の力だけでは達成できなかったという正直な気持ちがはっきりと表れていた。
全面的に彼女の母親であるリリルカの協力があったからこそ、この困難な交渉は最終的な実を結ぶことができたのだ。
夫の頑なな心を解きほぐし、ザインの提案に耳を傾けさせるための橋渡し役として尽力してくれた。愛娘を故郷から旅立たせるという、苦渋の決断をようやく両親に受け入れさせることができたのである。
ザインの住む簡素な借り小屋とリリシアの自宅を何度も往復し、彼女の家族と共に時間を過ごした。
その中で、特に母親であるリリルカとの間にある程度の信頼関係を築き上げたことが、最終的に功を奏したのだろう。
(いや、それも、探窟者でなければ、もっと簡単に話は進んだだろうに……)
彼の脳裏には、探窟者という職業が持つ、あまりにも過酷な現実が蘇っていた。
エルドアが元探窟者であるという事実が、説得をこれほど困難にした最大の理由だった。
探窟者の世界は、生と死が隣り合わせの極限状態であり、一度足を踏み入れれば、二度と普通の生活には戻れないかもしれないという厳しさを、彼は骨身に染みて理解している。
だからこそ、自分の愛娘を、その危険な道へと送り出すという決断は、彼の心にとって途方もなく重いものだった。父親としての愛情と、探窟者としての経験が、彼を強く葛藤させていたのだ。
「楽しみだなぁ、帝都! 美味しいものもいっぱいあるんでしょ?」
リリシアは、両親の心配をよそに、満面の笑みで目を輝かせた。彼女の心は、まだ見ぬ帝都での美食の数々に、早くも躍り踊っているようだった。そんな無邪気な様子を見ていると、ザインは思わず、リリシアの両親は浮かばれないだろうなと、心底から同情した。
彼らが娘の将来を案じて夜も眠れぬ思いをしていたというのに、当の本人はその心配を微塵も感じさせない。
「ああ、まあな。」
ザインは、そんな彼女の純粋な興奮を少しでも冷まさないよう、優しい声で応じた。
「美味しい食事も良いが、帝都に着いてからの本来の目的を忘れるなよ。」
ザインは、リリシアの浮かれかけた気分を引き締めるように、諭すような口調で言った。彼らの帝都への旅は、ただの観光ではなかった。
「分かってるわよ。まずは、学園の試験手続きでしょ?」
「ああ。事前願書は既に提出済みだが、本登録書はまだ手続きをしていない。帝都に着き次第、なるべく早くそれを済ませる必要がある。」
ザインは計画を再確認するように付け加えた。彼らの旅の重要な段階は、まさにこれから始まろうとしていた。
学園の入学試験の日取りは、今からわずか五日後だ。
こんなにギリギリのタイミングまで本登録書の提出を受け付けてくれるのは、帝国の抱える切実な事情が背景にあるからに他ならない。
その探窟者育成を担う学園に入学を希望する人物については、ぎりぎりまで可能性を見極めたい、という意図がそこにはあったのだろう。
「わぁ、すっごい、おっきい!」
馬車が帝都の入り口の門に差し掛かると、リリシアは感嘆の声を上げた。彼女の瞳には、目の前に広がる壮大な光景が映し出されていた。
その都市の入口にそびえる門は、人間が築いたとは到底思えないほど巨大で荘厳な作りをしていた。高さは数十メートルにも及び、精緻な彫刻が施された重厚な石材が、歴史の重みを物語っているかのようだった。
他の国家が、ダンジョン飽和が発生した際に最も影響を受けやすいこの危険な場所を首都に置かない中、後発ながらも軍事力に秀でたベリオン帝国が、自らの威信と国力を内外に示すためにこの場所を首都として選んだのは、ある意味必然であったと言えるだろう。
結果として、ダンジョンがもたらす希少な遺物や資源の恩恵を最も直接的に享受するこれらの都市の経済的影響力は、計り知れないほど凄まじいものとなった。
首都と最大の経済都市が同一であった帝国は、その相乗効果によって他の追随を許さない目覚ましい発展を遂げてきたのである。
「帝都ヴァンドル。帝国の首都であると同時に、最大の経済都市でもある。人の往来も、田舎の比じゃないな。」
ザインは、目の前に広がる喧騒に目を細めながら呟いた。彼の言葉の通り、街は活気と人で溢れかえっている。
「ね!見て見て、どこを見ても人がいっぱいで、お店もたくさんあるよ!」
リリシアは、馬車の窓から身を乗り出すようにして、興奮した声で叫んだ。彼女の視線の先には、色とりどりの屋台が立ち並び、様々な品物を売る商人の呼び声と、行き交う人々の話し声が混じり合って、巨大なエネルギーを放っていた。
他の国家の最大の経済都市と直接結ばれているこの帝都では、貿易が非常に盛んに行われている。
そのため、帝国内の住民に留まらず、隣接する聖王国からの訪問者、あるいは巨大な塔を挟んで反対側に位置する王国に住む、多種多様な人種の人々が、日夜この街を行き交っていた。
「ね、ねぇ。学園への書類提出が終わったら、少しだけこの街を散策してみない?」
リリシアは、キラキラとした期待に満ちた表情をザインに向け、純粋な観光を提案した。その顔には、都会の賑わいに心を奪われた、歳相応の無邪気さが溢れていた。
「まぁ、時間に余裕があれば、考えてもいいが。」
馬車はそのまま、巨大な門をくぐり、帝都の内部へと深く入っていく。
目指すは、探窟者の育成機関、通称『アカデミア』。
貴族社会に属さない完全独立の育成機関である。
「はい、受験願書、お二名様分受理いたしました。注意事項はこちらの用紙に詳細が書かれておりますので、事前に必ずご確認くださいませ。」
学園の受付に座る女性は、流れるような手つきで二人の願書を受け取り、代わりに一枚の用紙をザインに手渡した。
試験期間中のいくつかの禁止事項や、妨害行為等に関する具体的な内容だった。学園での公正な試験を維持するための厳しい規則が明記されている。
その後、定型的な案内事項を受付の女性から改めて受け、彼らがようやく学園の重厚な扉をくぐる頃には、西の空に太陽が傾き始め、日が沈みかかっていた。
一日の大半を移動と手続きに費やしたことを物語る夕焼けが、彼らの影を長く伸ばした。
「思ったよりも時間がかかっちゃったね。試験まであと五日あるみたいだし、今日はもうゆっくり休む?」
「そうだな……。明後日と前日以外は少し予定がある。ひとまず宿に荷物を預けたら、夕食でも探しに行こうか。」
ザインは、彼女の提案に同意しつつ、今後のスケジュールを頭の中で整理した。
「いいの!? やったー! そういえば、帝都に来たことあるんだよね? おすすめのお店とか、知ってる?」
リリシアは、途端に目を輝かせ、喜びを爆発させた。彼女の興味は、すぐに夕食へと移ったようだ。
「いや、来たことがあるといっても、父の公務に連れられて立ち寄った程度だ。メフェリム家には帝都にも別邸があるから、公務で来た際はそこに滞在していた。だから、街中を見て回ることは一度もなかった。」
今回の学園受験においては、ザインはこの別邸を利用するつもりはなかった。リリシアと共に旅をするという今回の特別な状況で、彼自身の采配で物事を進めたかったのだ。
「じゃあ、荷物を置いたらすぐ行こう! ちょっとお腹も空いてきたし!」
リリシアは、夕焼けに照らされた笑顔を輝かせた。太陽が半分も地平線に沈んでいるにも関わらず、その笑顔は周りの景色をも明るく照らすかのようだった。
だからこそ、ザインはこの時点で、本来ならば明確に気づくべきだった結論に、思い至ることができなかったのだ。そうでなければ、彼自身もまた、帝都での観光に心を浮かれさせている、世間知らずな御上りさんであったということになってしまう。
ザインが今回、宿として予約していたのは、貴族御用達の高級宿『銀翼亭』だ。完全予約制で、一般の客は絶対に宿泊することが許されない、まさしく格式高い名門の宿であった。その名声は、遠く離れた地方の貴族の間でも知れ渡っていた。
「わぁ、すごい立派な建物……」
リリシアは、目の前にそびえ立つ豪華な宿の姿に、思わず感嘆の声を上げた。その外観は、まるで古城を思わせるような重厚さと優雅さを兼ね備えていた。
「いらっしゃいませ。メフェリム・ザイン様、この度のご到着を心よりお待ちしておりました。」
宿の支配人は、ザインの姿を認めると、恭しく頭を下げ、完璧な礼儀作法で出迎えた。その声色には、上客に対する深い敬意が込められていた。
「お部屋の方、既に快適にご用意できております。どうぞごゆっくりとお寛ぎくださいませ。」
そう告げつと支配人の男性はルームキーを一本差し出してくる。
「じゃあ、荷物をおいたら……」
「あの、ワタシの部屋は?」
リリシアは、あまりにも当然のことのように、何の疑いも抱かずに支配人に尋ねた。彼女にとって、ザインが自分の宿泊の手配も済ませているのは、ごく自然な流れだったのだ。
「……え?」
ザインの声が、困惑に満ちた空気に溶ける。
「え?」
リリシアもまた、彼の反応に驚き、問い返した。
二人の視線が、不意に交錯する。その瞬間、ザインの脳裏に嫌な予感が走った。
「お前、まさか宿を自分で用意していないのか?」
ザインは、冷や汗が背中を伝うのを感じながら、震える声で尋ねた。
「え? だって、取ってくれてるんじゃないの? 今まで旅の途中、ずっとそうだったし……」
リリシアは、純粋な驚きと困惑を顔に浮かべ、きょとんとした表情で答えた。彼女の言葉は、ザインの心臓を鷲掴みにする。
「いや、俺は……お前が自分で手配するものだとばかり思っていて……」
ザインの言葉は、そこで途切れた。
「「あ……」」
ほとんど同時に、ザインとリリシアは、この状況の深刻さに気づき、小さく声を上げた。彼らの脳裏に、同じ衝撃が走ったのだ。
(……まさか、こんな初歩的なミスを犯してしまうとは……)
ザインは、内なる声で自分を責めた。完全に自分の確認不足だった。
支配人は、一瞬だけ考え込んだ後、リリシアをちらりと一瞥した。彼の表情は、何かを妙に理解したかのような視線は、経験豊富な宿の主が、このような状況に慣れていることを物語っていた。
「お嬢様は……十四歳になられたばかりで?」
「え?あ、はい。つい先日、成人したばかりです。」
リリシアは、素直に、そして少し誇らしげに答えた。
「なるほど……準備に数分お時間を頂けるのであれば、お二人で一つの部屋をご利用いただけますが。もちろん、当宿のプライバシーへの配慮は、万全を期しておりますので、ご安心ください。」
支配人は、優雅な仕草でそう提案した。彼の口ぶりは丁寧だったが、その意図はザインには痛いほど伝わった。
「? どういうこと?」
リリシアは、支配人の言葉の裏にある意味が理解できず、純粋な疑問をザインに投げかけた。
「……」
ザインは、何も言葉を発することができなかった。
支配人は、ザインの困惑をよそに、無言で微笑んだ。その表情は、明らかに「よくある言い訳ですね」と語っているようだった。
彼は、この手の「急な連れ込み」に対応することに慣れているのだ。その意図を完全に理解したザインに対して、リリシアは、まだ状況が読めないまま、純粋な疑問をぶつけてくる。
ザインは、瞬時に頭の中で高速な思考を巡らせた。
どうすべきか、いくつかの選択肢が彼の脳裏を駆け巡る。このまま、支配人の提供する「配慮」に乗っかる形でリリシアを同室にしてもらうことは、最も簡単な解決策だろう。
多少の口止め料に近い金額の増加は想定されるものの、今から受験に伴い混雑している帝都の宿泊施設の中から、条件に合う空室を探す労力と時間に比べれば、はるかにマシだ。
加えて、この『銀翼亭』は完全予約制であり、貴族が御用達にしている宿だ。
プライバシー保護の観点から見ても、その信頼性は申し分ない。しかし、もしそうするならば、メフェリム家の別邸を使う方が、このような妙な噂を回避するには有効かもしれない。
だが、それでは、わざわざこの高級宿を予約した意味がなくなってしまう。
どちらの選択が、今後の展開においてより多くのメリットをもたらすか。ザインは、その天秤にかけて、瞬時に結論を出した。
「……分かりました。一部屋で構いません。」
ザインは、観念したかのように、重い口を開いて告げた。彼の表情には、既に諦めと、これから起こるであろう困難への覚悟が混じり合っていた。
「かしこまりました。では、すぐに部屋にご案内いたします。それと……」
支配人は、リリシアの疑問には一切答えることなく、ザインとの間で話をまとめていった。彼の完璧な対応は、この種の状況が貴族社会ではある程度「当たり前」の手法として認識されているのだろうかと、ザインに深い溜息をつかせた。彼の頭の中では、既にあらぬ誤解が生まれている可能性が膨らんでいた。
「お嬢様のお食事は、お部屋にお運びした方がよろしいでしょうか?」
「いえ、構いません。一緒に食堂で食事をします。」
ザインは、その提案の意図を察し、即座にきっぱりと答えた。これ以上の誤解を生みたくなかったのだ。
「……かしこまりました。」
支配人の表情に、わずかな驚きが浮かんだ。彼の長年の経験からすると、ここで食堂を希望する者は珍しかったのだろう。
荷物持ちのボーイとともに、二人は案内された。初めて宿泊する宿なので明確な構造は不明だが、目的の部屋に到着するまで、他の宿泊者と一人も遭遇しなかったのは、決して偶然ではないだろう。
宿側が、客のプライバシーに最大限の配慮をしている証拠だった。
「こちらがお部屋になります。どうぞごゆっくりとお過ごしくださいませ。」
支配人が深々と頭を下げて部屋を後にした後、ザインとリリシアは、部屋の中央に置かれた巨大なダブルベッドを前に、ただ立ち尽くした。その豪華なベッドが、彼らの間に妙な緊張感を生み出していた。
「さっきの人さ、なんだか変じゃなかった?」
リリシアは、不安そうな眼差しでザインに尋ねた。彼女の純粋な感覚は、支配人の言葉の裏にある「何か」を確かに感じ取っていたのだ。
「……気のせいだ。」
ザインは、努めて平静を装い、すぐに否定した。彼自身も内心では、支配人の言動に戦々恐々としていたのだが。
「そうかな? なんだか、すごく変な感じがした気がするんだけど……。」
リリシアは納得がいかない様子で、首を傾げた。その無邪気な疑問が、ザインの心臓を締め付ける。
「いいか、よく聞け。明日の朝まで、何があってもこの部屋から絶対に出るな。」
ザインは、真剣な面持ちで、釘を刺すように厳しく命じた。彼の声には、尋常ならざる切迫感が込められていた。
「え? なんで? 急にどうしたの?」
リリシアは、彼の剣幕に驚き、理由を尋ねた。
「いいから! とにかく俺が床で寝るから、お前はベッドで休め!」
ザインは、もはや説明する余裕もなく、半ば叫ぶように言った。この状況で、これ以上変な噂が広まることは何としても避けたかったのだ。
「でも……」
リリシアがさらに何かを言いかけようとした、その時だった。
コンコン、と控えめなノックの音がドア越しに響いた。
「失礼いたします。お飲み物と……こちらを。」
メイドが、優雅な動作で部屋に入ってくると、冷たい飲み物の入ったトレイとともに、手のひらサイズの小さな箱を丁寧に置いていった。その箱には、控えめながらも上品な装飾が施されている。
「こちらは、当宿からのささやかなサービスでございます。お嬢様方の初めての夜を、少しでも快適にお過ごしいただけますよう……」
メイドは、意味深な言葉を残して、深々と頭を下げ、静かに部屋を後にした。その言葉の意図するところを、リリシアだけが理解していなかった。
「初めての夜!?」
リリシアは、メイドが残した言葉に、純粋な驚きを隠せないまま、大きく目を見開いた。
メイドが去った後、ザインとリリシアは顔を見合わせ、恐る恐る箱を開けてみた。中には、甘く香る高級な香油や、リラックス効果のある入浴剤、そして……。
「こ、これ……!」
リリシアは、その中身を認めると、瞬時に顔を真っ赤にして、慌てて箱を閉じた。彼女の頬は、熟れた林檎のように赤く染まっていた。
「……見なかったことにしよう。」
ザインもまた、顔を背け、天井を仰いだ。彼の耳まで赤く染まっているのがわかる。宿側の「心遣い」が、彼らにとっては何よりも恐ろしい状況を生み出していた。
「なんか……すっごく気まずいんですけど……。」
リリシアは、不安そうにザインの袖を軽く引いた。彼女の心は、この奇妙な状況に困惑しきっていた。
「後でちゃんと説明するから、今は何も聞くな。」
ザインは、低い声で、彼女を諭すように言った。
「え?でも……」
ザインは、内心で激しく頭を抱えた。彼の頭の中では、最悪のシナリオが次々と展開されていた。
だが、ザインにとっての苦難は、まだ始まったばかりだった。彼の帝都での本当の「戦い」は、ここから本格的に始まるのである。
学園の試験開始まで、あと五日。
ザインの帝都での「戦い」は、学園の試験対策どころではなかった。それは、彼らが意図しないところで巻き込まれた、あらぬ誤解との、途方もない戦いになりそうだった。
「(リリシアの父親を説得するのに、あれほど苦労して一年もかかったというのに……こんな些細な誤解で、全てが台無しになるなんて、冗談じゃない!)」
ザインの表情は、一年前にリリシアの父親、あの頑固なエルドアを説得していた時よりも、はるかに深刻な色を帯びていた。彼にとって、この新たな「戦い」は、精神的にも肉体的にも、これまで以上に過酷なものとなる予感をはらんでいた。




