外伝 抱く想い
森の奥深く。
太陽の光は木々の葉に遮られ、地面は薄暗く、じめじめと湿っていた。
ユリアは、一歩一歩慎重に足を踏み出す。
落ち葉を踏みしめる音に、心臓が大きく脈打つ。しかしそれ以上に、胸の奥底から湧き上がってくる衝動が強かった――。
進まなければならない。
何かが、ここで待っている。そう、強く感じていた。
「……誰も、いないはず……」
小さな声が震えたその瞬間。
地面も大きく揺れ、周囲の木々が激しく揺さぶられた。
驚いた鳥たちが一斉に飛び立ち、静寂に包まれていた森の空気を切り裂いた。木々の間から、巨大な黒い影が現れる。
それは、黒光りする硬い鱗に覆われた、巨大な四足獣。3メートルを超える体躯。
発達した筋肉を有する前腕も使ったナックルウォークを行う獣。
それは、この世の生き物とは思えない圧を放っていた。
赤い瞳がユリアを捉え、喉の奥から唸り声を上げると、鋭い牙が光を反射する。
恐怖が、津波のようにユリアを襲った。
しかし、彼女の体は恐怖に支配されるよりも早く、動いていた。
握っていた木の枝を構え、無意識のうちに魔獣に向かって走り出していた。
足は大地を蹴り、木の根を飛び越え、低い枝を盾にしながら魔獣の攻撃をかわそうとする。
だが――
魔獣の力は、想像を遥かに超えていた。
前脚で地面を叩きつけただけで、大地が揺れ、ユリアの小さな体は簡単にバランスを崩してしまう。
咆哮と同時に繰り出される尻尾。鋭い牙による斜めからの薙ぎ払い。
ユリアは必死に回避し、木の枝で防ごうとするが、簡単に弾き飛ばされてしまう。
「……くっ……!」
宙を舞いながらも、ユリアはなんとか体をひねり、地面に着地する。
着地の瞬間に、再び木の枝を拾い上げ、魔獣へ振りかぶる。
「今だ!」
果敢に挑みかかるが、魔獣はまるで子供と戯れるように余裕を見せ、最小限の力で彼女の動きを封じる。
ユリアの攻撃は、まるで空気の壁に阻まれるかのように、届かない。魔物はユリアのほんのわずかな隙も見逃さず、容易に見切ってしまう。
「……絶対、負けない……!」
荒い息を整え、ユリアは再び立ち上がる。
折れかけた枝を力強く握りしめ、全身全霊で魔物に立ち向かう。
しかし、魔物はまるで相手にならないと言わんばかりに余裕綽々だ。まるで遊び相手を見つけた子供のように、ほんのわずかな力しか使わずに、ユリアを巧みに翻弄する。
鋭い爪の一撃、強靭な尾の一振り、そして鋭い牙の突き。
どれも致命傷には至らないものの、ユリアの小さな体を軽々と吹き飛ばす。
泥に叩きつけられ、口の中には血の味が広がる。
しかし、ユリアの体は依然として彼女を戦いの場へ突き動かす。
その身体は、悲鳴を上げ始めている。
魔物は低い唸り声を上げ、前脚を振り上げる。
そして、体を巧妙にひねりながら、まるでじゃれつくようにユリアの横をかすめる。
地面に倒れたものの、幸いなことに手足に損傷はない。
おもちゃを転がして遊ぶかのように、ユリアの動きを見下ろしているかのようだった。
ユリアはよろめきながらも立ち上がろうとする。
しかし、魔獣もその巨体を使いユリアを押し倒す。
枝は無情にも弾き飛ばされ、ユリアは背中から地面に倒れ込む。
「……やっぱり……強い……」
激しい痛みよりも、圧倒的な力の差に、ユリアの心は打ちのめされる。
魔物は勝利を誇示するかのように咆哮し、周囲の枝や葉を激しい風圧で吹き飛ばす。
しかし、決して致命的な一撃は与えない。
――まるで幼い子供を弄ぶように。
ユリアは倒れたまま、荒い息を繰り返しながらも、辛うじて目を開けていた。
まだ体は動く。戦意も完全に失ってはいない。
だが、力の差は歴然としていた。今の彼女では、あの魔物に勝つことなど、到底不可能だ。
魔獣はゆっくりと前脚を降ろし、紅い瞳がユリアを冷酷に見下ろす。
ユリアは最後の力を振り絞って立ち上がろうとするが、魔物は再び軽く彼女を押し倒す。
勝敗は、もはや明らかだった。
魔物の圧倒的な力を前に、ユリアは完膚なきまでに打ちのめされた。
――しかし、その短い戦いの中で、ユリアは何かを掴んでいた。
距離の取り方。反射的な回避。そして、相手の動きの”予兆”。
それは、一方的に打ちのめされながらも、大きな怪我のない彼女の体が物語っていた。
それは、まさしく勇者としての才能の萌芽だった。
森の中には、風が木々を揺らす音、葉が擦れ合う音、魔物の勝利を告げる咆哮、そしてユリアの荒い呼吸だけが響き渡っていた。
三度ユリアは泥だらけの体を起こす。握りしめる木の枝はすでに半分の長さになっていた。
「……アタシは……。」
その次の瞬間、森の奥から突如として冷たい風が吹き抜けた。
木々の葉がざわめき、空気がほんの少し変わるのを感じた。
「――そこまでだ。」
どこまでも落ち着いた、静かで低い声が森に響き渡る。
ユリアが顔を上げると、そこに立っていたのは、まるで磨き上げられた銀のような瞳を持つ少年が立っていた。
「……誰……?」
と、ユリアが問いかけるよりも早く魔物は再びユリアに向かって走りだす。
しかし、ザインは一歩も動かず、ただ体をわずかに沈めるだけで、魔物の鋭い前脚による攻撃をいとも簡単に受け流す。
その動きに無駄のなく、洗練された動き。
魔物の強靭な尾の一振りも、ユリアを捉えようと放たれた鋭い牙の突きも、すべて計算し尽くされており、ユリアには決して届かない。
「後ろに下がっていろ。」
腰に下げた、剣を抜きユリアに短く告げる。ユリアも反射的に木陰に身を隠した。
まるで全身から力が一気に抜け落ちていく。
言葉で表現できない安心感がその言葉にはあった。
魔物の咆哮は相変わらず脅威的だが、すでにそれは恐怖の対象にならなかった。
魔獣は怒り狂ったように、尾を振り、牙を剥き、腕を振るう。
しかし、ザインはほとんど動かない。
卓越した体捌き魔物の攻撃の軌道を巧みに変えていく。魔物はまるで力を誇示するかのように何度も体を震わせるが、その動きはザインによって完全に制御されており、まるで操り人形のようだった。
「……すごい……」
ユリアの瞳には、純粋な驚きと、そして心からの尊敬の念が混じり合っていた。
彼女が必死に、そして全力で立ち向かっても、まるで歯が立たなかった圧倒的な力。それを目の前の少年は最小限の動きだけで完全に制御していたのだ。魔物は再び激しく咆哮し、ザインに向かって突進する。
ザインはただ一歩後ろに退くだけで魔物の攻撃を軽々と回避する。
魔獣との距離が生まれる。再三にわたる攻防で自身の攻撃が、効果がないことを理解した魔獣の足が止まる。
その隙を見逃すはずもなく、目の前の少年は右手に持つ剣の柄に左手を添える。
刹那、目を覆いたくなるほどに明るい炎の塊が出現する。
その危険性に気づいた魔獣が、慌てたように迫る。が、ザインの行動のほうが早い。
ユリアに聞こえないほどに小さく何かを呟くと、その炎の塊は、より輝きをまし魔獣に向け放たれる。
矢よりも早い一撃が、魔獣に突き刺さる。
「グギギャガガ!」
形容し難い悲鳴が、魔獣から漏れる。
今まで明確な攻撃を受けていなかったにも関わらず、火だるまになった魔獣はのたうち回り、体についた炎を消そうと試みる。
しかし、必死の努力も虚しく、魔獣は動かなくなる。
魔獣の命が尽きてもなお、その炎は燃え続ける。
一撃。
明確にはちがうのだが、少なくともユリアにはそう見えた。
燃え続ける魔獣を二人で見つめる。
完全に絶命した頃に先に口を開いたのはユリアであった。
「……あ、あの。ありとう……」
お礼を言い終わる前に、少年が言葉をかぶせる。
「無茶をしすぎだ。危険をしっかり認識しろ。」
その声にはまだ幼さがあり、同じほどの年に感じた。
怒られるとは思っていなかったユリアは、先程までは必死にこらえていた涙が浮かぶ。
「しかし、間に合ってよかった。怪我はないか?」
そう心配そうに見つめる彼と目があうと、ユリアの胸の奥で何かが大きく脈打つのを感じる。
「だ、大丈夫。です。」
「そうか。なら、オレはもう少し森の奥へ行く。ここにはすぐに大人たちがくる。」
それだけ言い残すと、ユリアの言葉を待たずに少年は森の奥へを消えて行ってします。
「あっ。」
とユリアが手を伸ばすころにはもう夜の闇に背中は消える。
「……私、もっと強くならなきゃ……」
あんな戦い方がある。そして、自分もそうなれる。
小さく握りしめた拳に、固い決意が宿る。倒れて泣いていた幼い子供だった自分が、初めて目の前で戦う者を見て、恐怖と希望を同時に感じた、特別な瞬間だった。
森の静けさは戻り、森の中で、泥だらけのユリアを発見したときは息を飲んだ。
リゼリアは荒い息を必死に整えながら、一目散に駆け寄る。
「ユリア!無事……?」
リゼリアの声は、不安で震えている。
ユリアはまだ倒れたまま地面に座っていたが、リゼリアに気づくと、安心したように微笑んだ。
髪は泥でひどく乱れ、服は破れ、手足には痛々しい擦り傷がある。それでも、幸い致命的な傷はなく、その目は希望に満ちて、生き生きと輝いていた。
「リゼ……来てくれたんだね……」
ユリアの声は少し震えているが、どこか誇らしげでもあった。リゼリアはユリアの元に駆け寄ると、まず優しく手を差し出した。
「……私の魔法で治す。女神の器としての力を、全部……」
リゼリアの小さな手のひらから、まるで月の光のような淡い光が溢れ出し、ユリアの傷や打ち身にそっと触れるたびに、痛みがまるで魔法のように溶けて消えていく。
擦り傷はみるみるうちに跡形もなく消え、血で汚れも徐々に清浄な光で優しく覆われていく。ユリアは目を大きく見開き、驚きと安堵が入り混じった、穏やかな表情を見せた。
「……リゼ……ありがとう……」
その言葉でリゼリアの張り詰めていた心も、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
だが、同時に胸の奥で、今まで感じたことのない、微かにざわつく感情が生まれているのを、リゼリア自身はまだ理解できていなかった。
ユリアはゆっくりと息を整え、森の中で起こった出来事を語り始めた。
震える声だったが、その表情はどこか生気に満ち溢れていた。
「魔物ね……すごく強くて……何度も押し倒されちゃった……でも……」
ユリアは小さく胸を抑え、再び森での恐怖を思い出す。
その瞳には、恐怖と興奮が入り混じっていた。
「でも、……助けてくれたの……!」
ユリアは声を震わせながらも、目をキラキラと輝かせ、森での激しい戦いの詳細を事細かに話し始めた。
魔物の恐ろしい咆哮と巨大な体躯、圧倒的な力。
しかし、その恐怖の体験を語る彼女の言葉には、負の感情はない。
むしろ、より一層彼女の声は明るいものへと変わって行く。
「…避けるのも……魔法も……全部…本当に、すごかったの……」
そこからのユリアの言葉にはきっと誇張が入っているのだろうと、リゼリアは思う。
どんな攻撃も意味をなさず、たった一度の魔法で、魔獣を沈めるなど、同じ年の子供は不可能だ。
ユリアが語る声には、ザインに対する深い畏敬の念と感謝の気持ち、そしてほんの少しばかりの憧れが混じっている。
リゼリアは静かにその言葉を聞いていた。
手の中に感じる温かい光と、ユリアが無事だったことへの純粋な喜びの間で、なぜか胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
――どうして私は、あの時一緒にいけなかったの。
自分も”特別な存在”なはずなのに。
ユリアを助けたかったはずなのに。
”一緒だよ”と約束寺たはずなのに。
足に根が張ったようにその場に崩れてしまった。
ユリアが語るザインの英雄譚がリゼリアの胸はざわつく。
悔しさ。
無力感。
苛立ち。
そして――嫉妬。
それらの感情の意味はまだ幼いリゼリアにはわからない。
しかし、漠然とした渦巻く感情が、彼女の胸を締め付ける。
リゼリアは平静を装い、荒くなった息を何とか整えつつ、光を流し続ける手に少しだけ力を込める。
「……でも……リゼがすぐにきてくれたから……今の私がここにいるんだよ。ありがと。」
その言葉を言うとユリアは、疲れて眠ってしまう。
「……ユリア。」
その一言に、リゼリアの胸は熱くなった。
安心感と喜びが、まるで津波のように一気に押し寄せてくる。
しかし同時に、心の奥底のざわつきは、消えてはくれない。
ユリアがまるで英雄のように称賛するザインの姿は、リゼリアの心に深く刻まれて離れない。
リゼリアの魔法のおかげで、体の痛みは完全に消え去り、手足にあった痛々しい擦り傷も跡形もなく癒えた。だが、心に深く刻まれた恐怖と感動は、いつまでもユリアの中に残るだろう。
森を吹き抜ける冷たい風が二人を包み込む。
そこには先程までの嫌な空気はなく、いつものなれ親しんだ森の様相を取り戻していた。
目を覚ましたユリアと共に森の中で歩みを進める。
ユリアはどこまでも希望に満ちた目でリゼリアを見上げ、リゼリアは、無意識のうちに複雑な感情を心の奥底に抱え込みながら、ユリアをそっと見守った。
――この日、リゼリアの心に生まれた小さな火種は、
まだ名前を持たないまま、
しかし確かに燃え始めていた。




