会合 参戦
始まりは静まりかえった森を、不意に突き破るように、それは響き渡った。
初めに響いたのは、耳朶を劈くように轟く叫び声だった。
それは決して、森の奥に潜む魔獣の咆哮とも、追いつめられた人間の悲鳴とも異なる。異質で、胸騒ぎを覚える響きだった。
その声がどこから来たのか、正確な場所を特定することはできない。ただ、その衝撃と波動は密集した木々の間を縫い、森の奥深くへと駆け抜けてゆく。まるで空間全体が軋み、そこにある全てが否応なく巻き込まれていくかのようだった。
その方向を定めようとするほどに、音は森のあらゆる場所から返ってくるように感じられ、ただならぬ事態の幕開けを告げていた。
「お母さん! 早く。急いで!」
前方から、息を切らしたようなリリシアの焦燥感に満ちた声が響く。彼女は振り返らず、ただ前だけを見据えていた。
「待って、シア。ちょっと、早すぎるわ……」
リリルカは必死に呼吸を整えようと試みるが、すでに喉はひりつき、肺は限界を訴え始めていた。
彼女の言葉は途切れ途切れで、その声には、追いかける者特有の苦しみがにじんでいた。身体はすでに悲鳴を上げている。彼女は娘の圧倒的な速度に、もはやついていけていないことを自覚せざるを得なかった。
陽光を浴びてきらめく金色の髪が、風をはらんで軽やかに舞い上がる。
先頭を駆け抜けるのは、まだ十二歳ほどの少女、リリシアだった。その細い脚が大地を蹴るたびに、背中に背負われた大剣が、陽光を鈍く反射させ、一瞬の輝きを放つ。
彼女の華奢な体躯からすれば、あまりにも不釣り合いに思えるほど巨大なその大剣は、しかし彼女の動きを決して阻害しない。むしろ、その存在が彼女の速度を際立たせているかのようだった。
大人の戦士さえ凌駕するほどの圧倒的な速度で、リリシアは森の木々の間を、まるで一陣の風のように、迷いなく駆け抜けていく。
一方、その後ろを追いかけるのは、リリシアが「お母さん」と呼んだ女性、リリルカ・アーデだ。
彼女の煉瓦色の髪は、全力疾走の激しさで乱れに乱れ、その呼吸は荒く、既に限界に近いことを示していた。
その容姿は、二十代前半と見間違えるほどに整い、本来であれば優雅な雰囲気を纏っているはずだが、今はただ、必死さと苦悶の表情に歪んでいた。
本来の彼女からは想像もつかないような、息も絶え絶えの形相で、自身の身体能力を遥かに超えた全力の走行は、既にその限界へと着実に近づいていた。
肺は焼け付くように痛み、筋肉は鉛のように重い。それでも、彼女は娘の背中を追うことを止めなかった。
「そんなこと言ってられないよ、お母さん!もう、戦いが始まっちゃってるんだって。早く、合流しないと!」
リリシアの声には、焦燥と、状況への苛立ちが混じっていた。
その切迫した言葉が、限界を迎えつつあるリリルカの耳には、心臓に直接響くかのように届く。しかし、荒い呼吸を整えることで精一杯の彼女からは、すぐに言葉が返ってこない。
その沈黙は、彼女の肉体が既に思考の速度に追いついていないことを、何よりも雄弁に物語っていた。喉が引き攣り、言葉を発するたびに肺が震える。
元々の計画では、ただの調査任務だったはずだ。父エルドアは、いかなる本格的な戦闘も行わないと明確に定めていた。それは、不用意なリスクを避けるための、彼の常日頃からの慎重な判断だったはずだ。
それにもかかわらず、いま、森の奥からは、疑いようのない戦闘の気配が満ちている。周到な父の想定すらも超える、予期せぬ事態が起こってしまったのだ。
しかも、今回の同行者のドーンは、その堅牢な大盾で、並外れた防御力には定評があったが、攻撃的な火力という点では、心許ない。
また、もう一人の同行者である少年。広大な領地を治めるメフェリム家の三男で、魔法も多少は扱えると聞いている。しかし、かつて現役で数々の危険なダンジョンを攻略し、その名を轟かせたリリルカほどの攻撃力は、彼に期待できるはずもなかった。その経験値と実戦での応用力は、比べ物にならない。
(そうなると、あの場でのメインアタッカーは、やはり父さんしかいない。)
リリシアの思考が、冷徹に状況を分析する。
この予期せぬ戦闘の最中にあって、父エルドアはパーティー全体の指揮を執らなければならない。
しかも、貴族である子供の安全を確保するという役割も加わる。
彼一人にのしかかる負担は、想像を絶するものがあるだろう。どんな状況であれ、父エルドアはリリシアにとって、決して失うことのできない、かけがえのない大切な家族だ。
その彼が危険に晒されているとあらば、一刻も早くその場に駆けつける。それだけの理由で、リリシアの心はすでに十分すぎるほど突き動かされていた。
しかし、その切迫した思いは、後ろを必死に追ってくる母に対しても同様に言える。
視線を後ろにやると、リリルカはもう、走るという行為そのものだけで、肉体の限界へと突き進んでいるのは分かる。
彼女は魔法職であり、肉体的な能力は父エルドアほどではない。それにもかかわらず、父に迫る身体能力を持つリリシアに、これほどまでについてきていること自体驚異的なことだ。
だが、このままでは彼女が本来の力を発揮することは不可能だ。その事実は、リリシアにも痛いほど分かっていた。
それでも、この危険な森の奥に、意識朦朧とした状態の母を一人残していくことは、彼女を危険にさらすことになる。リリシアは、父と母の優先順位をつけ必要性に迫られる。
刹那、一瞬の静寂を打ち破るかのように、先ほどの叫び声とは異なる、轟々たる爆音と眩い閃光が、進行方向の遥か前方で迸った。
その衝撃波は、木々を揺らし、リリシアの耳にもはっきりと届く。爆発音のようなその響きに、リリシアの心臓は驚きに跳ね上がった。そして、前を走るリリシアよりも先に反応を示したのは、リリルカだった。
「魔法……?でも、一体誰が……?」
リリルカの声は、驚きと困惑を帯びていた。
これほどの規模の爆発が、ここまで離れた場所にいても、その威力と熱量を伝えてくる。そのわずかな情報だけで、彼女は既にその場の状況をある程度理解しているようだった。
考えられるのは、モンスターか、熟達した魔法使いのどちらかしかない。しかし、リリルカの表情や声のトーンから判断する限り、同行しているはずの十二歳の貴族が大規模な魔法を放てるとは、彼女は全く想定していないようだった。その規模は、とても子供の魔法使いが起こせるものではない。
「お母さん! ワタシ先に行く! お母さんは、戦闘可能な状態で後から来て!」
リリシアは、決然とした声でそう告げると、さらに速度を上げた。
母を一人、この危険な森の中に残していくことは、リリシアにとって紛れもない苦渋の決断だ。しかし、それ以上に、今まさに目の前で危機に瀕しているであろう父エルドアの安否が、彼女の心の中で最も優先されるべき事項だった。
「待って、シア!」
リリルカもまた、娘が単独で先行することの危険性を瞬時に理解した。
必死にリリシアを止めようと、声を絞り出すように叫んだ。だが、その叫び声は、決意したリリシアの足を止めることはできなかった。全力を出したリリシアの速度は、すでに限界寸前のリリルカが追いつけるものではない。また、この状況で、娘の動きを一時的にでも足止めするような、都合の良い魔法が存在するはずもなく、瞬く間に二人の距離は広がっていくばかりだった。
「――ごめん、お母さん。でも、父さんは、私が必ず助けるから。」
リリシアの心の中で、謝罪と誓いの言葉がこだまする。彼女は、その決意を胸に強く固め、さらに速度を増した。
稀有な魔法の才能の中でもさらに希少な光属性の回復魔法を移動しながら詠唱する。拙いながらも確実に疲労感が抜けて行くを感じ、さらに速度をあげ森を走り抜ける。
正確な方向はわからない。しかし、わずかな戦闘音と肌をヒリつかせる緊張感を頼りに迷いなく突き進む。
突如、視界がひらけ森が終わる。
まず目に入ったのは、巨大な体躯を持つモンスター。
その漆黒の皮膚には、夥しいほどの火傷の痕が生々しく残り、ところどころから煙が上がっている。
次に対面にて無傷の父。双剣を構えた彼の表情には、微塵も乱れがない。
大盾を構えたドーンの顔には、既に激しい疲労の色が浮かび始めており、額には脂汗が滲んでいる。
そして、もう一人。白銀の髪が特徴的な少年。彼の手元には、まだ微かに魔力の残滓が揺らめいている。
リリシアが戦場に足を踏み入れたその瞬間、全ての視線が、一斉に、リリシアへと集中した。まるで時間が止まったかのように、戦場の空気が張り詰める。
詳細な戦況はリリシアには分からない。綿密な作戦を共有する時間はない。しかし、彼女の直感が告げる。
「――今が、攻め時だってことでしょ!」
地面と同時に加速する。
一切の躊躇がない動きで、背中に背負う大剣の留め具を外す。自身の身長をゆうに超えるほど巨大な大剣を頭上高くへと大きく振りかぶる。
細い腕には不釣り合いなその大剣が、重量を感じさせないほど軽やかに振るわれる。それはモンスターの右頭部に、正確無比な軌道を描いて直撃した。
ドゴン
と、いう重い音と共に、今まで感じたことのない、肉が深く裂けるような鮮烈な感覚が、大剣を握る手を通じて、全身へと伝わっていく。
一撃目を振り抜いた遠心力を巧みに利用し、間髪入れずに再度、モンスターの右前脚へと、同様の重い一撃を叩き込んだ。
突然の闖入者であり、その容赦ない連続攻撃に、巨大なモンスターも明らかに困惑したように一瞬、焦点を失い、巨体を揺らしながら、数歩後ろへとたじろぐ。
これほどまでに明白な隙を、戦場を熟知する父エルドアが見逃すはずがなく、瞬時に二本の双剣を構え踏み込む。彼の双剣がモンスターの左前脚へと鋭い追撃を繰り出した。切り裂くような金属音が響き渡る。
「ギュエアァァァ!」
二度目の激痛に、狂ったような咆哮を上げる。その威嚇的な声が、周囲の木々を震わせる。
同時に、その巨大な両腕に備えられた翼膜を大きく広げ、まるで巨大な刃のように鋭利な形状を持つ前脚を、怒りに任せてリリシア目掛けて振り下ろす。重く、速い一撃。
リリシアの視界の端に、ドーンの姿が入る。彼らが、それだけで、リリシアがさらなる追撃へと動くための理由は、もはや十分に過ぎるものだった。仲間との連携。その意識が、彼女の体を突き動かした。
重い大剣をまるで自身の体の一部であるかのように肩に担ぎ上げると、再び、巨体に怯むことなくモンスターへと接近する。モンスターの攻撃の間隙を縫うように、接近する様は予想を大きく超えているように見える。
手が届くほどの距離になると、ほぼ同時に互いの得物が、空気を切り裂く音を立てて振り下ろされる。
刹那、リリシアに迫るモンスターの刃と彼女の間へと、ドーンがその巨大な大盾を、信じられないほどの精密さで滑り込ませた。
金属が激しくぶつかり合う鈍い音が響き渡ると同時に、モンスターの攻撃の軌道が、大きく逸らされる。それは、彼の長年の経験と研ぎ澄まされた高等技術によって、意図的に誘導される。
刃は、完全にリリシアを直線的な延長線上から失い、そのまま弾き飛ばされる。
再び、巨大なモンスターの甲高い悲鳴が、周囲の遺跡群に轟いた。その額の中央に存在する、不気味に大きな瞳が、激しい苦痛と困惑によって上下に激しく揺れ動く。その視線は、リリシアたちと対峙する者たちを確かに見つめているようだが、四方八方から迫りくる敵の影を追うばかりで、決して一点に定まることはなかった。混乱と怒りが、その巨体を支配しているようだった。
ドン!
と、重く響く音が、再び戦場に響き渡った。それは、モンスターの左側腹部を深く抉り、その肉を大きく切断したリリシアの大剣が、遠心力によって振り抜かれた後、地面に突き刺さる音だった。その一撃の威力は、地面をも震わせるほどだった。
立て続けの攻撃によって、地上に釘付けにされていたモンスターは、『もうこれ以上は耐えられない』とばかりに、その巨体を大きく上空へと飛び退かせた。
その飛び退く際の勢いはすさまじく、今までにリリシアが感じたことのないほどの強烈な風圧が、一瞬にして彼女の体を包む。
しかし、そのすぐ近くにいたドーンが、素早く反応し、その巨大な大盾を力強く地面に突き立てることで、リリシアはその突風から守る。
「そりゃ、悪手だろ。」
不意に、リリシアの耳に、父エルドアの静かで、しかし確信に満ちた声が届いた。
それは、この喧騒の中ではとても聞き取れるような状況ではなかったはずなのに、リリシアの意識には、その声がなぜかはっきりと届い。その言葉は、モンスターが空中に逃れた行為を、戦術的な誤りだと断じているようだった。
その直後、リリシアでさえ思わず振り返ってしまうほどに凝縮された魔力が後方に出現した。
それは、十メートル以上も離れたこの場所からでも、肌を焼くような熱気をはっきりと感じさせるほどの、巨大な火球。魔法使いである母リリルカでさえ、これまで出現させたことのない、常識を遥かに超えた規模の魔法。
その驚異的な光景に、リリシアの口からは、思わず感嘆の声が漏れ出した。
「……すっご…」
彼女の目は、ただひたすらに、その圧倒的な魔法の輝きに見入っていた。
音が爆ぜ、空気が焦げる。
避けようのない一撃が、上空にいたモンスターへと一直線に突進する。巨大な体躯を容赦なく捉え、地上へと力強く突き落とした。空を逃げ場としたモンスターの、その選択は、まさに致命的な悪手となったのだ。
「まだだ! トドメを!」
完全にその光景に見入ってしまっていたリリシアたちに対し、白銀髪の魔法使いの少年は叫ぶ。自身の放った魔法の手応えから、それがまだモンスターの命を奪う決定的な一撃には至っていないことを感じ取ったのだろう。
高く、厚い砂埃が猛烈な勢いで巻き上がった。視界を遮るその混沌の中を、リリシアは一瞬の迷いもなく、再び飛び出していた。
彼女は、地面とほとんど平行になるように大剣を構えたまま、砂埃が舞い上がる視界の悪さにも臆することなく、さらに加速する。
砂埃の中を突き進み、三つ目のモンスターが視界に入る。予想通り、完全な活動不能状態に陥っておらず、その巨大な体躯をゆっくりと起こしていた。
まるで朦朧とした意識を正気に戻そうとするかのように、その特徴的な頭部を左右に大きく振っている。衝突によって巻き上げられた小石が、リリシアの頬に容赦なく打ち当たり、僅かな痕を残すがそんなものでは足は止まらない。
直後、モンスターからまだ数メートルの距離がある段階で、リリシアは力強く地面を蹴り、その華奢な体躯からは想像もできないほど大きく宙を舞った。
重力に逆らうかのような跳躍。
空中で、その全身の力を大剣に込め、自身の猛烈な速度に、さらに強力な遠心力を加えた渾身の一撃を繰り出す。その切っ先は、正確に、そして容赦なく、モンスターの分厚い頚部へと到達した。
「ハアァァァ!」
彼女の叫びが、最後の力を振り絞るように響き渡る。
攻撃が弾き返されるような感触は一切なく、固い骨が砕け散る、生々しくも確かな手応えが、大剣を通じてリリシアの両腕に伝わってくる。
彼女の渾身の一撃は、モンスターの強靭な頚部を、骨ごと美しく切断される。
彼女の大剣が、その遠心力を保ったまま、重い音を立てて地面に突き刺さる頃には、三つの不気味な瞳を持つ、くちばしのような形状をしたモンスターの頭部は、すでにゴトリと音を立てて地面へ転がり落ちる。
「っいった……。」
モンスターの巨体から離れ、勢いを殺す術を失ったリリシアの体が、次の瞬間、激しい衝撃と共に地面に叩きつけられた。
遅れて、その巨大なモンスターの胴体もまた、重々しい音を立てながら、ゆっくりと、しかし確実に地面へと崩れ落ちていった。
辺りに、ようやく静寂が訪れる。
思っていたより土日に読んでいただいている方が多くてびっくりしてます。
皆様の時間をいただいている以上、なるべく面白くしていければと思っておりますので、今回も楽しんでいただけると嬉しいです。




