独り立ち 2
2日後の朝、ザインは馬車に揺られていた。出発の準備は滞りなく終わり、二人の家庭教師や屋敷の使用人たちにはきちんと別れを告げることができた。心残りは何もないと言っていい。
「常闇の森か。12歳の子供には、さすがに少し荷が重すぎるんじゃないか?」
書庫で探し出した常闇の森に関する資料をまとめたものに目を通していた。その資料によれば、常闇の森は帝国が新しく開拓地域に指定した場所で、通常の獣の他に、ダンジョン内で見かけるような種類のモンスターも出没するという。
その理由は不明と記されていたが、ザインは森のどこかに大規模なダンジョンの入り口があるのではないかと考えている。
今のザインにとって問題なのは、この森に現れるモンスターたちが、彼が卒業試験で攻略すべきレベルのものと重なっていることだ。いくらザイン自身の実力が常識外れだとはいえ、齢12歳でそのレベルのモンスターと対峙することを、あの聡明な父親が最初から見越しているとは到底思えなかった。
「そこから考えると、エルドアという人物が相当な実力者なのか、森の平均値は高くない。ということだろうな。」
馬車の中での独り言は、御者の耳には届かない。自室にいる時よりも、この閉ざされた空間での独り言は、誰に気兼ねすることなく言える。ザインは久々に心からの安堵を感じていた。
「実家にいる間は、数十人の使用人たちや家族、それから師匠たちに囲まれて、年相応の言動や行動を常に求められるからな。正直なところ、精神的にかなり疲れてくるものだ。」
そう呟くと、12歳の少年には不似合いな、少しばかり疲れた目つきで、人差し指と親指で目頭を軽く押さえながら、小さくため息をついた。かつて魔王として300年以上生きた彼にとって、今の子供を演じるという行為は、精神的にかなりの負担になっていたのだ。ザインは自分に近しい人々には深い親愛の情を抱いていたものの、それとは別に、自分が転生者であるという事実を隠し続けなければならないという気持ちが、常に心に引っかかっていた。だからこそ、たった一人になれる空間では、このように精神的な疲労を吐露する癖が、この歳にして身につき始めていた。
「ただ、今後は少し背伸びをした子供、という印象を与えることも可能になる。そうすれば、ある程度は気が楽になるかもしれないな。」
それに比例して、独り言が増えていることに、ザイン自身はまだ気づいていなかった。
窓の外の景色は、ずいぶんと様変わりしていた。元々、ここは帝国内の主要都市というわけではないが、隣接する評議国との唯一の交易路であり、統治する領主のお膝元ということもあって、近くには発展した城塞都市もあった。そんな地域からはるか北へ向かい、すでに3日が経っていた。通常の馬車の移動速度を考えると、この程度の距離を移動するのに概ね3日かかる計算になるため、当初の予定通りに進んでいることになる。今日の夕方には、目的地の森番の家に到着する手はずが整っていると見込んでいたので、彼はこれからお世話になる元探窟家、エルドア・アーデの資料に目を通し始めた。
エルドア・アーデ
天宝暦964年生まれ。男性。既婚。妻子がそれぞれ一名。最高到達階層22階層。兵種:剣士。メイン武器種:直剣。サブ武器種:短剣。
婚姻を機に探窟者を引退。森番の統括として現在職に従事。給金:30日で金貨5枚。
「金貨5枚……森番の統括という役職にしては、少し安い気もするが、探窟者としての危険な生活を避けた、という理由だろうか。」
ダンジョン攻略を生業とする探窟者という職業は、常に生死の境目をさまようような危険と隣り合わせだ。その危険な生活と、安定した暮らしを天秤にかけた時、たとえ収入が多少減ったとしても、安全で安定した生活を選ぶ元探窟者も少なくない。
一方で、金貨5枚という金額は、一般的な感覚からすれば決して軽視できる給与ではない。しかし、そこは帝国でも有数の貴族であるザインならではの、金銭感覚の相違があるのだろう。
夕方まで馬車に揺られ、何のトラブルもなく目的地に到着した。
周囲には簡素な村が作られており、使われていない堀と立派な柵が設けられていたのは、この地が常に戦闘を意識していることの表れだろう。また、村の中の建物は、田舎の雰囲気とは裏腹に、石造りの家が多く見受けられた。森がこれだけ近いにもかかわらず、木製の家を使用しないのは、戦闘による倒壊からの立て直しの頻度を減らすためだと、資料で確認していた。
出迎えに来たのは、父親と同年代くらいの男性で、腰には剣を差していた。その様子から察するに、この人物こそが今日から2年間世話になるエルドア・アーデその人だろう。
「よう。よく来たな坊主。貴族の息子だろうが、俺は忖度しねえぞ。今日からは俺の部下だ。よろしくな。」
「はい。よろしくお願いいたします。お役に立てるよう、精一杯努めます。」
「ああ、それとだ。その丁寧な言葉遣いもなしだ。俺が慣れないのもあるが、時間がもったいねえ。」
「……なるべく、頑張ります。」
「ああ。それで頼む。」
ザインにとって敬語は、相手への敬意の表れであると同時に、他人との心の距離感を反映するものだった。そのため、一部の使用人や家庭教師たちといった親しい者たち以外には、敬語で接する機会が多かったのだ。会ったばかりの人物に対して、すぐにその距離感で接することができるか、不安は尽きない。しかし、相手に望まれれば、その努力をする必要が出てくるだろう。
「よし。じゃあ、ついてこい。」
それだけ告げると、エルドアは行き先を告げず前をゆく。
村の外れを越え、さらに進んでいくと、森との境界線が近づいてくる。ここまで来ると、村の中の景観とは大きく異なり、木製の家が増えていた。先ほどまでと違い、頻繁に住処を移動する森番自身の家は、簡素に建てた方が合理的だと考えられているのだろう。
「貴族の坊っちゃんからすれば、住めたもんじゃないかもしれんが、今日からあそこがお前の住居だ。」
「いえ。ありがとうございます。」
木製の小屋を想像してもらえば分かりやすいだろう。
一階のみの三角屋根の平屋。内部はおおよそ10平方メートルほどの広さだ。中にある家具は、簡易的なベッドと、収納代わりの木箱が二つほど。2年間という限られた期間を過ごす場所としても、あまりにも物がなさすぎると言えた。
「(そういった必需品を揃えるところも、自分でやりくりする能力には必要ということか。)」
「明日の朝だけは、朝食を持ってきてやるが、それ以降は自分でやりくりしろよ。給金をもらうんだろ。」
エルドアのその言葉には、どこか少しの苛立ちが感じられた。それは、森番として務めている自身の給金とザインの給金を比べたことによる苛立ちというよりも、まだ12歳の子供を一人でこんな場所に送り出した貴族の感覚に対する苛立ちのように思えた。
「何から何まで、ありがとう。エルドア。」
少ない言葉だけを残して去っていくエルドアに対し、ザインは精一杯砕けた言葉遣いでお礼を言った。エルドアは振り返ることなく、右手を軽く振った。
「おう。」
と、去っていく背中から聞こえてきた気がしたが、それは定かではなかった。一切振り返ることなく去っていったエルドアを見送ると、ザインも自身に用意された小屋に入っていった。すでに夕暮れになっているこの時間ですら、部屋の中はほとんど見えないほど暗くなっていた。
「……寝るか。」
持ってきた本を読んだり、勉強を行うための机も必要だが、それ以上に夜間の明かりは早急に確保すべきものであることを、心の中でメモに書き留め、初日は早々に眠りについた。
そして、夜が明けた。
元々、ザインは朝が早い。家庭教師たちとの午前中の授業が始まる前に自主練習を行っていたため、日の出のタイミングにはすでに活動できるほどの覚醒状態にあった。そこから、基礎体力向上のトレーニングや、魔力向上のための修練を行っていたのだが、今日は前日に約束した通り、エルドアが訪れてくるはずだった。
「起きろ坊主!……って、もう準備万端か。」
起こしに来たエルドアも、ザインがもうすでに起きているとは思っていなかったようで、勢いよく開けた扉をゆっくりと閉めた。
「おはようございます。それで今日は、どうされるのですか?」
ザイン個人としては、今後の生活に必要なものを買い揃えるためにも村の中を回りたい気持ちもあった。だが、今後2年間の良好な関係のためにも、まずはエルドアと行動を共にすることに利があると考えていた。
「だからその気持ち悪い敬語はやめろって言ってるだろ。今日はお前がどのぐらい使えるか見てやる。とりあえずはついてこい。」
「すみません……分かった、案内してくれ。」
一夜明けて、完全にリセットされた敬語に、エルドアは明らかに怪訝な表情を浮かべた。携帯食料であったため、ゆっくりと食事はできず、移動しながら初日の朝食を食べる羽目になった。




