#77 なりたくはない
生徒たちにどう伝えようか、僕が頭を悩ませるまでもなく『そのこと』は瞬く間に噂になっていたらしい。
……いや。『この生徒』が妙に情報に敏感なだけかもしれないが。
朝日のまぶしさに眠りが浅くなった頃、階下で物音がして目が覚めた。天ぷら屋の階段あたりでなにやら揉めているようだ。
ゆっくりと起き上がって頭を掻きながら耳を澄ませる。すると「呼ばんでええわ、直接行く!」という聞き覚えのある声とともにやかましい足音が迫ってきた。
ほどなくして部屋のふすまが外れる勢いでバコンと開かれた。同時にうるさい声で「ヒビノ!」と呼ばれる。部屋に外気が流れ込んでくるので僕は掛け布団を胸まで手繰り寄せた。
「……なに梅吉。こんな朝から」
今更寝起き姿を見られて恥ずかしい相手ではないが一応頭に触ってみるとかなりの寝癖がついているのがわかった。まあいい。
「なにのんびり寝よるんや!? はよ行くぞ、校長んとこ!」
「……はあ?」
「聞いた。転任の話。だから抗議しに行くんじゃ!」
待て待て。まずなんで知ってる。
「……抗議なんてしないよ。っていうか今日は日曜でどこも休みだよ」
「あのくそタヌキ。許せん。あいつがなんかやったに決まっとる!」
「おいおい」
「そうじゃろ! そうやなかったら誰のせいやち言うんじゃ!?」
誰のせい……か。たしかに怒りのぶつけ先が明確にあったほうがいくらかラクだろうな。
「誰のせいでもないよ」
「ええ……?」
「こういうことは、あるんだよ」
たしかに教頭がなにかした可能性もなくはない。だけどそれは証明できないし、証明したところでなにも変わらない。
「だからって、なんもせんと従うんか!? それでいいんか!?」
「よくはないよ!」
声を荒らげる梅吉に対抗すべく、僕も珍しく声を張った。梅吉がたじろいだのでひとつ咳払いをして仕切り直す。
「……それでも、決定は変えられない」
こんなまっすぐな少年に酷な現実を突きつけるのは胸が痛いが。
「ヒビノが残れるんなら、俺はなんでもする」
赤いその目に、涙の膜が見えた。
「残りたいじゃろ? ヒビノも」
「……そりゃあ」
「それなら」
「それでも、どうにもできないことはあるんだ」
「やってもないのにわかるかっ!」
被せた上に被せて怒鳴られた。血走った目を見ていられなくて、手元の掛け布団に視線を落とす。
「わかるよ」
「なんで」
「……大人だから」
言って情けない。だけどこれが現実だ。
梅吉は自分の膝を「ああもう!」と拳で殴った。何度も、何度も殴った。「しょーもないこと、言うなっ」
殴られる度に彼の膝はぶる、と振動し僕の心を痛めてくる。やめろ。もうやめろって。
「僕はただの中学の先生だから。言われたことには従うしかない」
「なんでじゃ!? なんであがこうとせん!? ヒビノ言いよったじゃろが、ひとりでも部員がおったら付き合う、ちて。あれは嘘か? 俺らのこと、見捨てるんか!?」
「……そうじゃないけど」
「ヒビノがおらんなら、部活ができんなら、俺はもう学校へは行かん!」
「……なに言ってんの」
本当にまっすぐなバカだな。
「行く意味ないじゃろ、そんな学校」
「音楽の先生になるんじゃなかったの」
「……なりたないわ。誰がなるかい。こんな、しょーもないもんに」
僕が黙ると梅吉は「帰る」と吐き捨てて階段を駆け下りていった。
しょーもない、か。
結構鋭く、深く刺さった。




