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#47 記憶はない

 物置とされているらしい二階の窓から軋むベランダに二人で出る。


 山あいから昇る朝日がちょうど見えるそこは隠れた絶景スポットだった。地上では煩く感じるほどの虫たちの声もここでは程よく空気に溶けて耳に心地よい。


「……美咲先生から聞きました。『指揮棒を持つと変わる』と」


「ああ、そうですか」


 淡白に答えてふー、と煙を吐いた。朝の一服は清々しくてたいへんよろしい。


「意外です。タバコをやられるなんて」


「『俺』だけですよ。普段はやらない」


 言いながら景色を眺めていると「不思議ですね、ますます」と相手はこちらを眺めていた。


「は、好奇心丸出しっすね」


 宮下さんは「そんな失礼なこと」と否定したけど図星なのはバレバレだった。


 貸して貰った携帯灰皿に灰を落として、タバコのお礼に少し話すことにした。


「前にも戻れなくなったことはあって」


 切り出すと相手は意外だったのかそんな顔をした。


「二日間くらいだったけど、その間の記憶は『あっち』には残らなかった。自分でもよくわかんないけど、要は分離したんでしょうね」


「分離……」


「こういうの『解離性障害』っつーんでしょ? 中には俺みたいな症例も稀にあるとかって聞きました」


「……稀にしてもかなり稀な例のようですが。すると今のこの時間のことも、『あっち』の響木先生の記憶には残っていないかもしれない、と?」


「さあ……戻ってみないとわかりません」


「戻り方とかはあるんですか?」


「寝て、起きる。それを繰り返すうちに自然と戻れます。たぶん」


 すると宮下さんは納得したようにゆっくり頷いて、はたと疑問を口にした。


「指揮は……どなたかから教わったんですか?」


「いや、ほぼ独学です」


 答えると驚かれたが、今度はこちらが驚かされた。


「ご出身大学はたしか音大じゃないですよね?」

「は、なんで知ってんの」


「や。すみません。ちょっと興味が湧いたので、調べさせてもらったんです。響木先生のことを」


 おいおい。ただの中学教師相手にそこまですんのか。


「こわ」


「すみません」


 朝日が射して草木の朝露が一斉に光り始める。ふと見ると宮下さんの薄ら頭も…………これは見なかったことにしよう。


「大学時代から始まったんですね、今のような現象が」


「ああ、はい」


「それまでは全くなかったんですか? そういう、ご自身がご自身でなくなるような感覚は」


「そうですね。『俺』は、『指揮者』なんで」


 そう。だから本来俺にこういう『日常』はないはずなんだ。この時間は『あいつ』のもののはずだから。


「指揮をして初めて生まれた『個人』というわけですか」


「は、そんな全くの別人みたいに言わないでくださいよ」


「別人……ではないと」


「ないない。どっちも俺、と認識してます」


「しかし普段の性格のままでは指揮することはできないのでしょう?」


「できない……ですね。どうやっても俺になります」


「指揮以外では? 今の響木先生に変わることはあるんですか?」


「ああ、酒飲むとなりますよ」

「お酒……」


 朝日が高くなってきた。そろそろ頃合いだ。


「……さて。そろそろいいですか。今日は最後の『詰め』なんで、集中させてもらいます。必要外は話しかけないでください。また元に戻ったらちゃんとお相手しますよ、たぶん」


 そう言うと宮下さんを残してベランダを後にした。


 コンクール本番は明後日なんだ。油を売ってる暇はない。



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