#46 終わりたくはない
午後一番に始まったミト中の合奏。時間が経つのが早く感じるのは、それだけ集中しているからだと思っていた。
だけど、そうじゃない。それを理解した時ぞくりと背筋が寒くなった。
『僕』の意識が、時々飛んでいるんだ。
一度指揮棒を置こうか、休憩を挟むべきか、一瞬迷ったが結局は「まだもう少し」という気持ちが勝った。
たしかに指導は佳境だった。ここで『僕の都合』で打ち切るのは生徒たちに申し訳ない。
まだもう少し。
だけど。
このままじゃ、本当に……!
無理やり譜面台に指揮棒を置いた。目を閉じて、数秒。……ああ、久々の感覚にぞくりとした。
「ヒビノ先生……?」
手前の席の芹奈と真知が心配そうにこちらを見ていた。芹奈たちだけじゃない。近くの生徒はすぐにこの異変に気づいたようだ。
指揮棒はたしかに置いている。けどここにいるのは、『俺』ひとりだ。
あーあ。やっちゃったねぇ。
こうなれば合奏をとめる必要はなくなった。この際今日中に仕上げてやろうと思ったが、残念ながら主不在の身体はあまり言うことを聞かないらしい。ふらりと身体の軸がぶれ、頭痛も再来した。くそ。
「あの、響木先生、そろそろ……」
異変を感じてか宮下さんが言う。終われって? バカを言うな。まだだよ。
「限界です、先生」
うるさいじじいだ。
「はあ? まだ終われませんよ」
ぎ、と睨んでやるとようやく黙った。
もう少しなんだ。もう少しで、もっと良くなる。全国。行くんだろ? だったらこんなじゃまだまだ足りない。
「もっかい頭から通します」
こんなところで。俺のせいで。こいつらのその可能性を低くなんてさせられるか。
再び指揮棒を手にして挙げる。生徒たちの呼吸が揃って、音が鳴る。そうだ。そのまま。
そう。そのまま。
まだだ。まだまだ。
「と め て く だ さああーいっ!」
身体の真に響く声だった。確認するまでもない。美咲先生だ。
「響木先生、時間です。明日もあるし生徒たちにも無理はさせない約束です。今日は終わってもらえませんか」
ははん。約束通り『点検』に来たってわけか。
「わかりました。終わります」
意図せず口から滑り出た返事に自分で驚いた。なるほど、微かに残る『あいつ』の意思なのかもしれない。
思うのと同時に身体に力が入らなくなり、そのまま意識もなくなった────。
──ガシャン……!
「……響木先生!?」
その後はなんとなく、運ばれて布団の上に寝かされる感覚があり、遠くでか近くでかわからないが美咲先生と宮下さんが俺の特徴について話しているのを夢うつつで聞いた。
再び意識が戻ったのはちょうど日の出時刻の空が白んだ頃だった。
寝たからか頭痛はすっきり治っていた。だけど相変わらず『あいつ』はいなくて『俺』だけだった。
手短にシャワーを借りて着替えを済ませる。シンプルな長袖のカッターシャツか。このクソ暑い真夏に。手軽なTシャツとかはないのかと荷物を漁ってみるも『あいつ』がそんなもの持っているはずがなかった。
どうせ一時的なことだ、あまり勝手をするのも良くないと諦めてシャツのボタンを最低限留めて袖を捲った。
合奏室へ移動して現場検証。指揮者用の譜面台の上に広げたままになっていた楽譜を片付け、そばの椅子の下に転がっていた指揮棒を拾う。まさかこれで逆に反応……なんてことは当然なく俺は俺のままだった。では次は指揮棒ケースだ。──パチン。とわざと音を立てて閉めてみるも、『戻る』ことはやはりなかった。
さて。さっきから視線を感じている。視線もそうだが俺は特に耳がいい。僅かな衣擦れや呼吸音、足音なんかも感知できる。
「なんか用すか」
「えっ……」
気付かれていないと思っていたらしい相手は驚いた様子で目を丸くした。
「用というわけじゃないんですけど……」
「用がないなら、ひとりにしてくれません?」
「いや……響木先生。その、聞かせていただけませんか、あなたのことを、詳しく」
はあ? 誰があんたなんかに。
「いやです」
「いや……って」
「宮下さんはミト中吹奏楽部への取材で来てるんすよね? なら俺のことはいいでしょ」
「そう……ですけどでも、あなたのような人を放ってはおけませんよ。気になります」
「お気になさらず」
冷たく吐き捨ててその横を通り合奏室から出ようとした。しかしその時、くん、と嗅覚が感知した。
「宮下さん……タバコ、持ってる?」
そういうことなら特別に、少しだけ話すことにした。




