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#45 大丈夫ではない

 ◇


 顧問の松阪先生が「ごめん、ちょっと石川、通しで指揮してて」と言い残してよろよろと合奏室を出て行ったあの時、部長の西野は正直そこまで深刻に考えてはいなかった。


 トイレか。あるいは他の用か。


 思ったのはせいぜい「松阪先生にしては珍しいな」くらいのものだった。


 ところがすぐに戻るのだろうという部員たちの予想は外れ、なんとそのまま松阪先生は合宿所から姿を消してしまった。コンクール本番まで残り四日。まさかの事態だった。


 うろたえる部員たちを前に、部長としてこんな時どうすればいいのか。西野は考えられるだけ考えたが結局は自分も一緒にうろたえてしまった。


 だってこんなことになるなんて、予想もしていなかったのだ。


 部員たちにろくになにも言えぬまま一夜明けてしまった二日目の合奏室で、西野は自身への情けなさにすっかり沈み込んでいた。


 自分が部長で本当によかったのだろうか。前部長の先輩ならこんな時、迷わずみんなを引っ張れたはずだ。なのに私は────。


 合奏前の喧騒の中にひとつため息を溶かす。


 松阪先生の代理はミト中の響木先生がやってくれるとのことだった。さすがに学指揮の石川ちゃんに任せるには無理があるから妥当といえる。しかしいくら吹奏楽部の顧問とはいえ他校の響木先生にいきなりアマ高の指揮なんてできるのだろうか。曲目もミト中とは全く違うというのに。


 西野の不安は更に渦巻く。


 西野が持つ響木先生への印象は正直なところ『よくわからない人』だった。一見気弱そうにも見えたが実際のその行動力は凄まじい。まず全校生徒を吹奏楽部に入れてしまおうという発想だけでもただ者ではないと思えた。


 それから担当楽器ごとに指導をしにミト中に行っていた頃に西野は自身と同じトランペット担当の梅吉からこんな話を聞いていた。


 ──ヒビノの指揮はヒビノとちゃう。あれは「響木先生」なんや。


 それがどういう意味なのか。その時の西野にはよくわからなかったのだが。



「西野さん」


「……はっ、響木先生」


 噂をすれば、ではないが考えていた相手が目の前に現れて西野は思わず目をパチクリしてしまった。


「不安だよね、僕もそうだよ」


「えっ……」


 眉を下げた緩いその微笑みを見るとなぜかとてもほっとした。うっかり泣きそうにまでなってしまって慌てて瞬きを繰り返す。


「けどそんなこと言ってられない。僕は部長のあなたを頼りにします。だから真っ直ぐ、指揮台の僕を見て吹いて」


 頼りに、なんて。自分なんて全然部長らしくないのに、とその人を見上げると、いきなり頭を下げられて驚いた。


「僕もチームに入れてください」


 この人は、もしかしたら凄いのかもしれない。なんとなく感じた西野のそれは、この数分後に明確なものとなる。





「指揮をさせてもらう前に……みんなにひとつ言っておかなければいけないことがあります」


 指揮台に立って生徒の注目を集める僕はミト中のみんなにに打ち明けたあの日よりもいくらか余計に緊張しながら『その秘密』を静かに明かした。


 

 戸惑った反応は最初の数分だけで、さすがは高校生。気づけばみんなが必死でくらいついてきていた。


「ホルン音程ピッチ高い!」

「そこはもっと出せってば。ラッパ!」

「そこは絞んだよわかんねーのか」

「全体まだ小さい!」

「周り聴け! バランス!」

「汚ねーな下手くそ!」

「低音! ちゃんと指揮見て!」

「そこはしっかり揃えんだよ、もっと!」


「もっと出せる」

「もっと!」

「もっとだよ!」


 やれる。もっとやれる。そう感じるほどに指導は熱を帯びた。


「とめて!」


 静まり返る合奏室。部員たちの上がった呼吸音だけが微かに聴こえた。


 俺は少し呆れて頭を抱えつつ、ある一点を睨んでいた。


「ホルンの2nd(セカンド)、左の子、なめてんの?」


 せっかくいい音が出てたのに。ここで(シャープ)を落とすなんて園児レベルだ。


「い……いえ、すみませんっ」


 指摘された生徒はびくんと肩を揺らして震える手で楽譜にグリグリと書き込みをしだした。


 どいつも楽譜は書込みだらけで真っ黒。そもそも全部覚えててほとんど見ない楽譜に今更書込みを増やしても無意味だろ。


「書かなくていいから指と耳で覚えて」


 またびくん、と震えて裏返った声の返事がした。ったく。泣くなら二度とくだらねーミスなんかすんな。


 俺の耳がひとりのミスを拾ったというのがどうやらかなり衝撃的だったらしく、生徒たちは更に表情を硬くした。は。びびんなよ、音に出るぞ。



「ラッパのソロ誰?」


 すらりと手が挙がった。「私です」やっぱ西野か。


「じゃソロの頭から」


 ……ふむ。譜面通りだ。まったく面白みがない。きらきらしさもない。こいつはやっぱ真面目だな。真面目すぎてダメだ。


 譜面通りじゃダメなんだ。音楽つーのはそこが難しい。そしてそこがいい。その理解が西野には足りてない。


「悪くない。けど良くもない。もっと良くなる」


 短くそれだけ感想を述べ、アドバイスが欲しいです、と書いてあるその顔に「指摘がほしいならあとで」とだけ伝えた。



 頭痛がしだしたのはその少し後からだった。まずいな。そろそろ戻らないと。


「休憩挟みます。十分後再集合、後半は自由曲やります」


 指揮棒を置くと、くらりと目眩までしてきた。


「ちょっとひとりになりたいので、質問とかは今はごめん」


 生徒たちに言い残して席を立った。出口に向かう途中で宮下さんの姿があることに気がついた。おいおい。ミト中の取材はどうしたんだ。


 秘密を知られて、一体なにを書かれるのだろう。



 休憩を挟んだお陰か頭痛は治まり、アマ高の指導は後半の自由曲もなんとか無事に終えられた。


 昼ごはんはおにぎりをひとつだけもらって人のはけた合奏室の指揮台の椅子にひとり腰を降ろして齧った。


 なんとなく、誰とも話したくなかった。


 アマ高の演奏はまだ伸び代があると思えた。松阪先生とともに築いてきた二曲。どちらも既にかなり高いレベルに仕上がっていたが、ひとりの先生だけが指導しているとどうしても『妥協点』が出てきてしまう。


 今日の指導でその弱い部分を集中的に突いた。生徒たちは当然かなり痛かっただろうがそこを強化すればバンドは更なる成長を遂げることだろう。


 地区予選突破どころか、支部大会、いや全国だって夢じゃない。


 一方その点でミト中は弱い。まず指導が僕ひとりだし、そもそも全体がやはり未熟だ。


 真知のソロも安定はしてきてるけどミスが絶対にないわけじゃないし……


 ん……。『真知』? 『真知さん』じゃなくて?


 思った途端にズキン、と頭痛がぶり返した。


 まずいな。だけど……。



 ──無理すんなよ。ヒビノも俺たちにとっては『いちばん大事な人』や。



 わるいね。無理したくなる時もあるんだ。大切な仲間たちのためになら。



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